その18-1 月光の下

 心の支えが沈んでいく。光が消えていく。

 灰色の雲を仄かに染めていた朱が、少しずつ闇に呑みこまれていく。

 お願いだ。どうか今日だけでいい。陽よ沈まないで――

 

 大きな硝子窓から見える西の空を見つめなっちゃんは祈るように心の中で何度も繰り返していた。

 しかしそんな少女の願いも空しく、雲の向こう側にあった朱は山の影に沈み、夜がやってくる。


 逃げるような『中身』は要らない。美しい『器』だけずっと傍にいてくれればいい――

 

 夢の中の斑目が言い放った言葉が脳裏に甦った。

 そう、私は器。

 もう間もなく、あの男そっくりの死神に全てを奪われ私は私でなくなるのだ。

 ……いやだ。

 私は私だ。誰の物でもない

 けれど――

 

 震える唇を噛み絞めて、なっちゃんは目を閉じた。

 刹那、少女は悪夢にうなされる様に眉根を寄せる。


 瞼の裏側に浮かび上がったその光景はあの夜の出来事。

 冷たい雨が降り頻る中、駆け付けた音高無双の少女と我儘少年によって取り抑えられた狂気の少年は、それでもなお彼女をじっと見つめていた。

 間一髪で命を取り留め、その場にへたり込んだ彼女は、自分を見つめる黒い硝子玉のようなその瞳から目を逸らすことができなかった。


 何も見ていない、何も映していない常闇の瞳だった。

 あの男は私を見ているようで、その実何も見ていなかった。

 自分の中の『理想の茅原夏実』を、私に投影させていただけだったのだ。


 怖い。あの男が怖い。

 何を言ってもまるで通じていなかった。

 全てを都合よく解釈されるだけだった。

 あんな奴にどう抗えばよいというのだろう。

 私を見ていない相手とどう戦えばいいんだろう。

 

 私は――



「いよいよだよレナ……」


 ぞっとする程透き通る声が耳元すぐから聞こえてきて、少女は恐怖から目を見開いた。

 止まるかと思った心臓が途端に早鐘の如く鼓動を打ち始める。


「あと少し、あと少しだ。満月が天高く昇るその時まであと少しだよレナ――」


 囁くようにそう言ってマダラメは少女の長く美しい黒い髪に触れた。

 背中を走る悍ましい悪寒から悲鳴のような呼吸を一度つき、なっちゃんは耐えるように両手を握りしめる。


「私は……レナじゃない」

「黙れ器! レナの声で話すな! レナの声で意見をするな! 器の癖に! 器の癖に!!」


 刹那、殺気立った怒声が降り注ぎ、精一杯の抵抗も空しく少女は思わず身を竦ませた。

 異常なほどの激昂を見せたマダラメはしばらくの間荒い呼吸を繰り返していたが、やがて平静を取り戻すと小刻みに震えるなっちゃんの髪を梳くようにして指を這わせる。

 そして恍惚の表情を浮かべ、金色に輝く獣の瞳を悦で満たした。


「もうすぐだ。やっと君に逢えるんだ。逢えたら何をしよう……そうだ、まずはその聖母のような身体で私を抱擁しておくれ」

「……っ」

「クキキ……クケケケケケキキキキ!」 


 もう救いはないのだろうか? 私はこのまま――

 蟲の羽音のように甲高い笑い声が王の間に木霊する中、少女の心は折れようとしていた。

 と――


「主よ、報告致します――」


 と、無感情に放たれたその声に死神は笑いを止める。

 興醒めしたように愉悦の表情を消し去り、マダラメが振り返った先には、風と共に姿を現した漆黒の剣士が跪いていた。

 

「なんだ?」

「侵入者の行方がわからなくなりました」

「……なんだと?」

 

 一瞬の間を置いて、マダラメの身体から怒りと憎悪の感情が噴出し始める。

 迸った黒い魔力の波に少女が思わず顔を覆う中、オオウチは動じる気配なく肯定するように淡々と報告を続けていった。


「気配が途絶えました。何者かが結界を敷いているようです」

「まだ始末していなかったのか!? セキネはどうした?」

視覚ビジョンが繋がりません、恐らく倒されたかと」

「馬鹿な……使い魔に戻ったのであろう? にも拘らず人間如きに敗れたというのか?」

「残念ながら」


 無能な鼠め、失敗作め!――

 死神は爛々と金色の瞳に怒りを灯し拳を振るわせる。


「キシはどうした?」

「既に捜索に向かったようです」

「必ず居場所をつきとめろと伝えよ! 見つけたらその場で殺せ! よいな?」

「承知しました」

「おのれ人間どもめ、何を考えている? レナは私のものだ! 誰にも渡さぬ! 無力な虫けらの癖に我が悲願の邪魔をするな!」


 吠えるようにそう言い放ち、マダラメは羽織っていた焦茶の法衣ローブを翻した。

 そして未だ荒い息をそのままに跪く漆黒の剣士をギロリと見下ろす。

 

「私はこれから最後の仕上げに入る。お前はここを護れ。決して誰も近づけるな」

「仰せの通りに――」


 刹那、オオウチの返事を待たずして死神の姿は闇に溶けるようにして消えた。


 再び静寂が戻った王の間に佇み、少女は窓の外へと目を向ける。

 雲間から白んだその姿を覗かせ始めた満月を見つめる少女の瞳は、失いかけていた希望の光を取り戻していた。


 根拠はない。けれど何故かそう感じるのだ。

 私を助けるためにみんなが動いてる。

 来る、きっと来てくれる――


 ならば私も――諦めてはだめだ。


「みんな……」

 


 静かに呟いた微笑みの少女を向き直り――

 風使いは人知れずその表情を初めて苦々しく歪めていた。



♪♪♪♪


 

作戦開始より四十分後。

コルネット古城、北の物見塔連絡橋付近―


 

 螺旋階段の頂上に掛けられた手摺に、乾いた音をあげて鞭が絡みつく。

 途端、ヒールが壁を蹴る小気味よい音が数度響いたかと思うと、白い手がその手摺を掴んだ。

 

「ふっ!」


 掛け声と共に姿を現したお騒がせ王女は手摺を飛び越え優雅に三階へと着地する。

 すぐさま彼女は周囲を警戒し、周りに敵影がないことを確認すると小さな吐息を漏らした。

 

「姫、それは流石に横着し過ぎッス」


 あろうことか階段ではなく鞭を伝って一気に登り終えるとは、何ともはしたない。

 女王が見たらなんというか――と、ようやく階段を上がり終えたチョクが呆れながら諌言を口にする。

 だがエリコは手摺から鞭を解き、手元でまとめると、そんなチョクを鬱陶しそうに睨みつけた。

 

「時間がないんでしょ? 行儀よくやってる場合じゃない」

「まあ、それはそうですが」


 事態が事態なのになりふり構っている場合ではないのだ。眼鏡を押し上げ苦渋の表情を浮かべたチョクにそう言って、エリコは鞭をまとめ終えると、そそくさと物見塔に通じる連絡橋へ足を踏み入れる。

 そしてひらけた視界一面に広がったその光景に目を見張った。


 日はとうに暮れて周囲は薄暗い。だが昨日まではなかったものが夜空から彼女を照らしていたのだ。

 

「……晴れてる。月が出てるわ」


 昼間天を覆わんばかりに厚く空にかかっていた曇天はいつの間にかその姿を消していた。

 代わりにその姿を露にした、空を彩る満天の星と血のように真っ赤な満月を見上げてエリコは思わず呟く。

 彼女の後を追って連絡橋へ足を踏み入れたチョクも、その声につられるようにして雲一つない夜空を見上げ、溜息を漏らした。


 月が出たということは『半転生の法』が実行されるのもやはり時間の問題だ。

 急がねば――エリコは気合も新たに視線を戻し正面を見据える。

 この城に侵入する際に通った石橋と同じく、連絡橋は長年風雨に晒され続けたせいで大分風化が進んでいたが、渡れないことはないようだ。


「いきましょう」


 チョクを振り返りは彼女は顎をしゃくって合図を送ると、橋の先に見えた小さな物見塔を目指して歩き出す。

 死人が支配するこの城に灯りはない。だが月光が照らす外は十分過ぎる程に明るかった。

 おかげで視界は良好。連絡橋に敵影は見当たらない。

 聞こえてくるのもその下を流れる内堀のせせらぎくらいだ。


「敵はいないようッスね」

「なんか拍子抜けね」


 警戒していたものの、ここに来るまでに遭遇したのは骸骨兵スケルトンの一個小隊のみ。

 だがそれも英雄二名エリコとチョクにとっては相手にもならず――

 あっという間に片づけた彼等は以降、敵と遭遇することもなくここまで辿り着いていたのだ。

 些か慎重になり過ぎただろうか――念には念を入れてこの編成の提案をしていたチョクは憮然とした表情で唸り声をあげる。


「ま、敵と遭わないに越したことはないけど――」


 と、軽口を叩きながらエリコが橋の半ば程に到達した時であった。

 やにわに生じた周囲の変化に気づき、彼女は歩みを止める。


 音が消えたのだ。

 下を流れる、内堀のせせらぎの音が。


「姫……」

 

 そう呼びかけるチョクの声色も、先刻までとは打って変わった緊張を帯びたものとなっていた。

 彼も気づいたようだ。背後から細剣レイピアが鞘を走る音が聞こえてくる。


 刹那、足元をひんやりと流れだした冷気に気づいて、エリコは咄嗟に後ろに飛び退いていた。

 数瞬後に彼女が立っていた石畳より氷の刃が飛び出し、そしてそれは石橋の中央をたちまちのうちに凍結させる。

 

「姫ッ!」


 ヒールの音を立てて着地した彼女に向かって、同じく後方へ飛び退いていたチョクが庇うように細剣レイピアを構えながら問いかけた。

 彼女は無言でその問いかけに首を振ると、油断なく前方を鞭を構える。

 その紅い瞳は急激に冷却された温度差から発生した霧の中をゆっくりとこちらに向かって歩いてくる人影を映していた。

 その人影が誰かなど見なくても明らかだ。

 

 はたして霧の中より姿を現した銀髪の剣士――氷使いのキシは、橋の中央で足を止めると不敵な微笑を浮かべながら透き通る刃を持つ愛刀を構えた。

 そして、二人に向かって手招きをする。

 ここは通さん、かかってこい――と。

 

「チョクッ、やるじゃない。アンタの編成案、大当たりよ!」

「身に余るお言葉ッス。まあでも、敵と遭わないに越したことはないんッスけどね」


 ずり落ちた眼鏡を押し上げてチョクは苦笑を浮かべる。

 よりにもよって『大当たり』。確かにコイツが相手では、『この編成』以外では厳しいだろう。

 いや『この編成』でも勝てるかどうか。

 だがやるしかない。

 ここでこいつを倒せねば、ナツミちゃんの救出など夢のまた夢だ――


「一気に片を付けましょう。端から全力でいくわよ」

「わかったッス」


 チョクの呼応を受け、エリコは勝気な笑みを口の端に浮かべると鞭を解く。


「さて、と――この前の続きと行きましょうか氷使い。借りはきっちり返させてもらうわっ!」


 刹那。

 床に打ち付けられた鞭が小気味よい音を立てるや否や、その音を皮切りに英雄二名は突撃を開始した。






一方その頃、南東の角。ホール付近――


「さて、と――」

「おい、ちょっと待て。お前何処へ行く気だ?」


 到着早々骸骨兵スケルトンの大群と遭遇し、途端逃げだそうとしたかのーの首根っこを掴んで、ヨシタケはその額に大きな青筋を浮かべたのであった。

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