第七章 夜まで待てない

その17-1 夜想曲を始めよう

数時間後。

コルネット古城 隠し礼拝堂―


 長椅子に腰かけ、祈る様に目を閉じたエリコに向けて、修道服に身を包んだ兄妹は愛用の楽器を鳴らす。

 ヨハン=パッヘルベル 作曲『カノン』。

 本来主旋律を奏でるヴァイオリンの代わりに、柿原奏でるチェロが優雅かつ重厚な調べを響かせるアレンジ版のその曲は、優しく包み込むような光をエリコの足首に生み出した。

 この曲は傷を治す。ホルン村でその魔曲の効果は実証済みだ。

 はたして、みるみるうちに癒えていく氷使いにやられた凍傷の跡を見て、傍らで様子を窺っていたサイコは興味深げに感嘆の息を漏らす。


「どうでしょうか?」


 自動演奏状態シンクロに入る前に適度に演奏を止めて、亜衣は恐る恐るといった感じでエリコに尋ねた。

 すっかり元通りになった足首を摩りながら、エリコはその問いかけに対して微笑みながら頷いてみせる。

 

「ありがとう、すっかりよくなったわ。ええと……貴女は――」

「亜衣といいます。こっちは兄の直樹です」

「よろしくね王女様。あ、僕はもっとフレンドリーに『なおちん』とか『ナオナオ』とかでもいいですよ、むしろ大歓迎♪ あ、礼には及びませんから! どうかお気になさらず。むしろ王女様の傷を治したなんて、こりゃ僕も一躍有名人の仲間入りじゃない? あーカメラがあればなあ。一枚くらい撮って記念に残しておきた――」

「――もう、お兄ちゃん! その辺にしておいてよ! 王女様困ってるよ?」


 と、相変わらず話し出したら止まらない兄を呆れた表情で諫めると、亜衣は呆れた様子で彼を見ていたエリコを向き直りぺこりと頭を下げた。

 しっかりした妹さんだわ――と、ややもってエリコは元の表情に戻ると、首を振ってみせる。

 

「えと、兄が失礼しました。ちょっと話好きで」

「気にしないで、ちょっと吃驚しただけだから。助かったわアイちゃんにナオキ君」

「王女様の前で演奏なんて初めてだったので緊張しましたけど。けれど、上手くいってよかったです」


 と、亜衣はようやくほっと胸を撫でおろすと肩からヴィオラを降ろしニコリと笑い返した。


「でも私のこと前から知っていたみたいだけれど、一体誰から? もしかしてチョクから聞いた?」

「いえ、サイコさんから」

「管国随一のお騒がせ王女様ってね♪」

「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!」

「……サイコぉ?」


 その他にも大陸各地で起こした数々の武勇伝トラブルももちろん聞いてるよ♪――そう付け加え悪意なく笑って頷いた柿原の口を、亜衣は大慌てで塞ごうとしたがもう遅かった。

 途端、エリコはサイコを向き直り、問い詰めるようにしてその双眸を細める。

 だがサイコはその視線を受けてなお、しれっとした表情のまま、むしろ心外だと言いたげに肩を竦めてみせた。

 

「間違っていないと思いますが? そのようなお顔をされる前に、むしろ己の行いを省みてはいかがでございましょう」

「あーもう、はいはい、わかったわよ。ま、それはさておき――」


 閑話休題。

 カリカリと眉間を軽く掻きながらエリコはおざなりにそう返事をすると、亜衣を向き直りゆっくりと立ち上がる。

 

「話はヒロシやヨシタケから聞いたわ。討伐隊が到着するまで、あなた達がホルン村を護ってくれていたって。ありがとね、二人とも」


 唐突に立ち上がった彼女を見て不思議そうな顔をしていた二人は、そう言ってぺこりと頭を下げたエリコに気づくと、吃驚しながら固まった。

 しかし、ややもってお互いを見合うと、悔しそうに表情を曇らせながらエリコに向かって首を振ってみせた。

 

「王女様。礼なんていりません。助けられなかった人もいっぱいいたんです」

「村の人も、討伐隊の兵隊さん達も、僕達にもっと力があれば護れたのに――」


 助けてもらったのはむしろ自分達の方だ。そして護ってもらったのも――

 宛もなく彷徨っていた自分達を匿ってくれた村の人達に恩返しするつもりで必死に曲を演奏した。

 だが全てを護れたわけではない。連夜襲い狂う不死者アンデッドの群れによって命を落とした村人もたくさんいた。


 この城についてからもそうだ。元凶を断たねば――と、やってきたはいいものの、結果はさんざんたる有様だった。

 ヒロシの部下達の尊い犠牲がなければ、自分達は今ここにいないだろう。

 ホルン村の救世主――尾ひれがついて広まったその噂だって、自分達からしてみれば唾棄すべき揶揄にしか聞こえない。


 だがしかし。

 そんな二人を真っ直ぐに見据え、エリコはゆっくりと首を振り返す。


「でもあなた達がいなければ、もっとたくさんの村人が死んでいた。もっとたくさんの村が不死者アンデッドによって滅んでいた――」


 事実、彼等が食い止めていなければ、僧侶の器を求めるマダラメの命の下、不死者アンデッドの侵攻は各地に広がっていただろう。


「この国の王女として改めて礼を述べるわ、本当にありがとう。だからもう、自分を責めるのはおやめなさい」

「でも……私は――」

「護れなかった者達を振り返るよりも、この手で救えた者達と共に前を向きなさい。誰一人として貴女を責める者などいないわ。貴女は正真正銘、村の……いいえ、この国の救世主よ」


 そう言って紅き鷹の王女はニコリと笑うと、亜衣の両手を取って優しく握る。

 その威厳ある口調も、妹を見つめる慈愛に満ちた表情も、話に聞いて想像していた『お騒がせ王女』とは程遠かった。

 意外そうにエリコを見つめながら、投げ掛けられたその言葉によって込み上げてきた感情を堪えるように亜衣はぎゅっと唇を噛む。

 しかしもう限界だった。

 

「私……悔しくて……一生懸命頑張ったけれど、みんな……死んじゃって――」


 握られた自らの手を見つめながら、亜衣はポロポロと目から涙を零しずっと隠していた想いを吐露する。

 抗う、戦う――過保護な兄に溺愛されて育った亜衣は、村に漂着した四人の中で、そう言った言葉とは最も無縁な少女だった。

 しかし彼女は自分で決めた。この村を護ろう。共に戦おう――と。

 それは傍らに兄や頼れるコンミス、そして優しい長身の先輩がいるという心の支えもあったが、それでも最終的に自らの意志でこの戦いを始めたのである。

 決して誰かに認められるために行動していたのではないのだ。

 だから後悔と葛藤により疑念を抱きつつあった自らの行動に対し、称賛と謝辞を投げかけられるとは思ってもいなかった。

 途切れ途切れに語る少女をじっと見つめていたエリコは、やがてニコリと笑う。


「大丈夫、もう誰も死なせはしない。私が護る」

「王女様……」

「ご立派な発言でございます。ただこういう時だけでなく、普段からそれくらい王女らしく立ち振る舞っていただければ私も助かるのでございますが――」

「うっさいわねえ、茶化さないでよサイコ」


 だが即座に横やりを入れて大きな溜息を吐いたサイコに気づき、エリコはバツが悪そうに口を尖らせながら意地の悪い教育係を睨みつけた。

 そんな二人のやり取りを見て、亜衣は赤くなった目元を擦りクスリと笑う。

 

「とにかく、二人とも私に力を貸してほしいの。弔い合戦よ、一緒にあいつを倒しましょう」

「……はい、よろしくお願いします王女様」


 堂々とそう宣言した王女に向かって頷くと、亜衣は迷いの晴れた表情で頷いた。

 妹同様に胸に込み上げるものをぐっと堪え唇を噛み締めていた柿原もニコリと微笑む。

 よし――と笑い返したエリコの顔は、再び大陸一のお騒がせ王女のものへとうって変わり、傍らにいた教育係はやはり無理か――と、残念そうにその顔へ失望の色を浮かべていた。

 


♪♪♪♪


 

「ああいう所『だけ』みりゃ、確かに王女様に見えるんだけどなぁ」

「ヨシタケ、口を慎めと言っているだろう。無礼だぞ」


 エリコ達が腰かける長椅子からやや離れた礼拝堂の片隅で、壁に寄り掛かって様子を窺っていたヨシタケとヒロシはそんな会話を交わしながらお互いを見合う。

 

「サイコさんから聞いてたけれど、そんなに破天荒な女性ひとには見えないけどなあ。むしろうちのコンミスの方がよっぽど暴虐無人な気がするけど――」


 と、その傍らの長椅子に腰かけ同じく三人のやり取りを眺めていた阿部がぼそりと呟いた。

 それについてはどっこいどっこいな気がするが――と、心の中で思いつつヨシタケはガシガシと頭を掻きながら阿部を見下ろす。

 

「でもよぉ、ナツキちゃんだけでなくおまえらも無事で本当によかったぜ」

「まさかこんな場所に身を隠していたとは。道理でいくら探しても見つからないわけだ」


 ヨシタケの言葉にそう続けて、ヒロシは礼拝堂を感嘆の溜息と共に改めて見渡した。

 とりあえず安全な場所へ――大鼠を退治した後、そう提案したチョクの言葉に従ってやって来た時も面食らったが、このような隠し部屋があるとは事前説明ブリーフィングでもなかった情報だった。


「まあ、ここを見つけたのも本当に偶然だったけれどね」

「しかしよぉ、本当に信用できんのか? あの吸血鬼さんはよ?」


 前の長椅子の背もたれに寄り掛かりながらぼやくようにそう答えた阿部に対し、今度はシンドーリへと視線を向けてヨシタケが尋ねる。

 件の吸血鬼は現在礼拝堂の前方に聳え立つ巨大なパイプオルガンの下で、カッシーとチョクを相手になにやら話をしている最中だ。


「んーまあ、ちょっと怪しいけど……でも、少なくとも敵ではないはずだよ?」

「なんだそりゃ?」


 あの吸血鬼は何考えてるかわからないし、うさん臭い――なつきもそう言っていたが、その点については阿部も同意見だった。

 ただ現時点では彼は少なくとも協力してくれると約束してくれた。

 今はその言葉をただただ信じるしかないのだ。

 何せ囚われた微笑みの少女を助けるには、どうしたって彼の助けが必要なのだから。

 

「今は味方は多ければ多い程いい。信じるしかあるまい」


 と、腕を組みつつ品定めするようにシンドーリを眺めていたヒロシが徐に口を開く。

 彼はかの吸血鬼がただならぬ実力者であることを一目で見抜いていた。

 敵と同様、人非ざる不死者アンデッドの眷属が何故我等の味方をするのか未だ疑念は残る。

 神器の使い手達が奏でる曲を学ぶため、という理由も怪しいものだ。

 しかし――

 

「王女は信頼に値すると判断した。それにナツキ殿もな、ならば俺達は従うのみだ」

「ヒロシさん、けどよぉ?――」

「誰もが想いは一緒なのだヨシタケ。もう、これ以上犠牲をだしてはならない。そのために今はできることをせねばならぬ」


 生粋の武人であり、軍人である彼はそう言って、未だ納得のいかない表情を顔に浮かべるヨシタケを諭すように見下ろす。

 不退転の覚悟を秘めたヒロシのその眼差しに気づき、ヨシタケは言い出しかけていた文句を呑み込むと、やれやれと肩を竦めてみせた。

 そしてややもってから一度深く頷くと、いかにも彼らしい漢気溢れる笑みを浮かべる。


「仕方ねえ俺も男だ、腹括るぜ。吸血鬼だろうが何だろうが、背中預けてやったろうじゃねえか」

「ありがとう、ヨシタケさん」

「よせよアベッチ、礼には及ばねえ。それによ、お前のダチは俺のダチよ。なら、ほっとけるかってんだ」


 そう言って親指の腹で鼻の下を一度擦り、ヨシタケは礼拝堂の天窓から空を見上げる。

 相変わらずの曇天は先刻までと比べて随分と暗く、そして黒くなってきていた。

 時刻は夕刻、日没が近づいている。

 再び夜が始まる。死人の踊る時間が始まる。


 そして、決戦の夜が始まるのだ――


 気風のいい青年の視線を追って同じく空を見上げた阿部は、未だ見えぬ月を探して目を細め、心の中でこう祈った。

 


 さあ、夜想曲ノクターンを始めよう。

 どうか僕達の演奏が上手くいきますように――と。

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