その16-1 抗う者

 今は『生きる』事を考えろ――

 煌々と輝く獣の紅い瞳が殺意と共に自分へ向けられている事に気づいた時、少女の脳裏に思い浮かんだのは昨夜聞いた生徒会長の言葉だった。

 生きる。生き抜く。みんなでこの城を脱出するんだ。

 そう願って、そう祈って、悲観することを止めたばかりだった。

 だからそう。やってやるんだ。

 

「其は自由を求める英雄なり……そは戦いの女神なり――」


 精一杯震える脚に力を籠め、少女は杖を構え魔曲の詠唱を試みようとした。

 けれど、現実は非情だ。現実は無情だ。

 絶望に抗おうとする少女に向けて、鼠とは名ばかりの、熊すら霞むほどの巨体から生み出された凶悪な咆哮が浴びせられる。

 途端、空気の振動と共にその身を襲った、本能を刺激する怯懦の感情によって、少女の呼吸は止められた。

 必然的に生み出された短い悲鳴を最後に詠唱は強制的に中断され、それに伴い彼女の周囲を覆い始めていた魔力の光も霧散していく。

 幻灯を残し炎の中に消えていった魔力の先に見えたのは、数間先で今にも襲い掛からんと姿勢を低くする大鼠の姿。

 恐怖に耐えるようにして口を結び、目を剥いた日笠さんは思わず一歩後退った。


「このネズ公! 私を無視するんじゃないっ! アンタの相手は私って言ってるでしょ!」


 注意を惹きつけようと、獣の前脚に絡みつけた鞭を引っ張り必死の形相でエリコが叫ぶ。

 だが大鼠はそんな彼女の挑発に乗らず、僅かに後方を伺っていた顔をすぐに少女へと戻した。

 やにわにぱっくりと開かれた獣のその口腔に膨大な熱量が集まり出す。

 燃えたぎる杏色の塊が生み出されていくのを、日笠さんは視線を逸らすこともできず、ただただ凝視することしかできないでいた。

 怯える彼女の表情に愉悦を感じながら、大鼠は貯めに貯めた火炎弾の照準を定める。


 悔しい。情けない。

 格好悪くたって足掻くって決めたじゃないか。

 なのにどうして。

 どうして私の身体は動かないの?

 ねえ、お願い動いてよ! 避けるの! 避けて!――

 そう頭の中でしきりに叱咤しても足は竦み、息は乱れ、一歩たりともその場から動くことができなかった。



 ドン――


 

 と、空気が弾け。

 そして灼熱の業火は無情にも少女へと放たれる。


「マユミちゃん!」


 もう駄目だ。間に合わない。

 エリコの必死の叫びが聞こえる中、迫りくる火炎弾を前に日笠さんはぎゅっと目を閉じた。


 瞼の裏に浮かんだのは、良く知る我儘少年の後ろ姿――


 これが私の走馬燈? 何ともパッとしない思い出だ。

 けれど――と、少女はふと考える。


 こんな時、彼ならどうするだろう――

 この世界を受け入れて、そしてこの世界に立ち向かっていこうと覚悟を決めた彼ならどうするだろう――

 

 私は無力で臆病だ。

 わかってた。気持ちだけじゃ、想うだけじゃ、どうにもならないことなんて。

 結局私には、行動に移す勇気も覚悟も足りなかった。


 それでも、私は彼に追いつきたかった。

 この世界で彼と並んで歩きたかった。


 それももう、無理なのだろうか。

 ひしひしと肌で感じるこの熱が、身を焼くのを甘んじて受けいれるしかないのだろうか――



 

 …………嫌だ。




 ……生きたい。




 みんなと一緒に元の世界に帰りたい!――





「お願い助けて……カッシー……――」


 零れ落ちる一筋の涙をそのままに、日笠さんは震える声で背中を追いかけていた少年の名前を呟いた。



 『運命』は抗う者の『希望』へと傾く。

 『奇跡』はまだ、神器の使い手達の味方だった――


 

 刹那――

 出口を塞ぎ、猛威を振るう炎の壁を臆することなく突き抜けた影が祈る少女の前に躍り出る。

 

「伏せろっ!」


 滑るように床に着地したその影は、そう叫ぶや否や彼女の肩を掴み強引に床へと押し倒した。

 確かに聞こえた覚えのあるその声に、吃驚しながら顔を上げた日笠さんの瞳に映ったのは、深蒼の外套を靡かせ振り返りざまに妖刀を抜き放つ少年の姿――

 

「てえりゃああーーっ!」


 腹の底から解き放った少年の気合が、金色の刃を迸らせる妖刀と共に、迫った炎塊を真っ二つに断ち切ると、同時に揺蕩たゆたうワルツの旋律を奏でる、音の王たる弦の音色が場を支配していく。


 まるでその音を畏れるように――

 まるでその音に敬意を示すように――

 

 書斎を所狭しと燃え盛っていた火炎が、みるみるうちに音を潜めていった。

 やにわに少年の放った見事な一撃によって分断された特大火炎弾は、彼の両脇をすり抜けて通過していったかと思うと、床から沁みだした水の帯にくるまれ、瞬く間に消滅する。


 まさにそれが合図だった。

 王たる音色に邪なる業火が跪いた時、周囲の光景に変化が起こる。


 湧き水の如く床から噴き出した水流が涼しい音を生み出しながら、部屋を埋め尽くしていた炎の壁を根元から覆い、たちどころに消していったのだ。

 禍々しい灯りが収まり、咽喉が焼け付く程だった熱が嘘のように引いていく。


 カール=ニールセン作曲 交響曲第2番 『四つの気質』 第2楽章 『粘液質』――

 独裁的に場を支配したその曲の名を頭の中で思い描きながら、日笠さんは書斎を彩る幻想的な光景を見渡して言葉を失っていた。

 

 と――

 

「くっそー、なつきのやつ問答無用で水ぶっかけやがって……風邪ひいたらどうすんだっつのボケッ!」


 恨めしそうに放たれた呟きに気づき、少女は我に返ると目をぱちくりとさせながらをその声の主を見上げる。

 言葉通りであれば、きっと炎の壁を抜けるために水を被ったのであろう。全身ずぶ濡れの我儘少年は前髪からぽたぽたと水を滴らせ口を尖らせていたが、やがて少女の視線に気づいて彼女を向き直った。

 そしていつも通り、にへら――としまりなく笑ってみせたのだ。


「日笠さん、怪我ないか?」


 ――と。


 そんな我儘少年の心配する言葉に、日笠さんは真一文字に口を結び、首を横に振る。

 咽喉が震えて言葉が出てこない。

 何か一言飛び出してしまえば、きっとこの感情は堰を切って溢れ出て、もう制御することはできないだろう。

 それでもやはり堪えきれず、目の端から涙が零れ落ちていく。

 

「お、おい。どうした? どっか痛いのか?」


 ポロポロと泣き出した少女を見下ろし、カッシーは心配そうに口をへの字に曲げた。

 だがそんな少年に向かって、頬を伝って落ちる涙をそのままに、日笠さんは顔をくしゃくしゃにしながら精一杯に笑ってみせる。

 に奇跡が起きてくれた――と。


「カ、カッシー!? ていうか、何よこの水?」


 そして聞こえてくるこの音色は……もしかしてこれが神器の使い手の奏でる魔曲ってやつ?――

 すっかり涼しくなった書斎のそこら中で噴き上がる水柱を見渡し、エリコは狐につままれたような表情を顔に浮かべながら呟いた。

 と、そんな彼女の持っていた鞭を後ろからがっしりと掴む少女が一人。

 

「すいませんエリコ王女。この鞭、ちょっと借りますね」

「……え?」


 不意に投げかけられたその言葉に、きょとんとしながら向き直ったエリコの傍らで――

 眉間に深いシワを刻みながら音高最強の風紀委員長は大きく息を吸い込んだ。


 同時に。


 あいつは覚えている。覚えているぞ。

 俺様を斬りつけた人間だ。許せない人間だ。

 だが、なんだこの水は? 俺様の炎が全て消された。こんなことあり得ない。

 一体何が起こっている?――

 動揺。困惑。憤慨。

 様々な負の感情が混じった嘶きをあげて鼠は眼前に現れた少年を睨みつける。

 

「何ガン垂れてんだっつのこのネズ公! 昨日言ったろ? 今度会ったら毛皮コートにしてやるって!」


 約束果たしに来たんだから付き合えよ――正面から鼠の威嚇を受け止め、カッシーは負けじと睨み返した。

 その行為が獣の神経を逆撫でする。

 途端毛を逆立て、大鼠は咆哮をあげると少年に飛び掛かろうと前脚を掲げた。

 

 だがしかし――


「ふっ……てえええええええええええい!」


 刹那、その咆哮に負けじと響き渡った気合いの入った掛け声と共に大鼠の身体は後ろへと引っ張られる。

 それが右前脚に絡まっていた鞭による牽引であると気づいた時、バランスを崩した獣の身体はもんどりうって背中から倒れていた。

 

「火遊びは厳罰よ、しっかり反省しなさい!」


 背を強かに打ち付け、短く高い金切り声をあげてジタバタと悶える大鼠に対し、東山さんはどうだと言わんばかりに息を吐く。

 相変わらず大した馬鹿力だ。まさかあの巨体を引き倒すとは――

 傍らでその一部始終を眺めていたエリコは呆れたように片眉を吊り上げたが、すぐに小気味良さげにクスリと笑みを零していた。

 

 やにわに書斎を支配していた曲がはたと止まる。

 それと共に水柱がその勢いを弱め、床に吸い込まれるようにして消えていった。

 後に遺ったのはすっかり焼け落ちた本棚と書籍の残骸のみだ。

 そこにもう禍々しき炎の群れはない。

 

 消火完了♪――額に浮き出た汗をそのままに小さく息をつくと、水の魔曲を奏で終えたなつきはヴァイオリンをおろし書斎を一望する。

 そして中央でのたうち回る大鼠の姿を捉え、途端に憎々しそうにその双眸を細めた。

 一方で消えた炎の壁の向こうから現れた最凶少女の姿に気づき、日笠さんは喜びと驚き半々の感情を灯した目をぱちくりとさせる。

 

「な、なつき?! 無事だったの?!」

「あったりまえでしょ、私を誰だと思ってんのよまゆみ。そっちこそ平気なの?」

「えっと……なんとか。ありがとう、助かったわ」

「どういたしまして、ところでカッシーさあ、アンタまだあいつ倒してなかったの? こっちは消火終わっちゃったんだけど?」

「無茶言うな! そんな簡単に倒せてたら昨日逃げてないっつの!」

「なら最初から、俺が行く!――とかかっこつけないでよ、私だったら瞬殺だったのにさあ」

「あのな――」


 簡単に言いやがってあの暴君コンミス! 付き合ってられっかよ――

 やれやれと深い溜息をつくと、カッシーは気を取り直し時任を正眼に構える。


―ケケケ、本気でやんのか小僧? 昨日は逃げた癖に―

「たりめーだ! 大体お前だって『買ってやれ』――って言ってたじゃねーか」

―まあいい、力貸してやるよ。だが昨日俺が言った言葉を忘れるなよ? こいつは一筋縄でいく相手じゃねえからな?―

「わかってる」

―どうしてもやばかったら遠慮なく言え。俺様が和音で―――

「あ、それはいい」


 遮るように即答したカッシーに向かって、時任は不満そうに舌打ちする。

 しかし会話もそこまでだった。

 前にも増して怒りに爛れた大咆哮が書斎に響き渡る。

 ようやく態勢を立て直した大鼠は、背中の痛みから怒り心頭紅い瞳を輝かせ少年へと身体を向けた。


「カッシー……」

「日笠さん、援護頼むぜ?」



 再び獣の口腔に夥しい熱量の火炎が生み出されていく最中。

 後ろで心配そうに名を呼んだ少女にそう言って、腐れ縁の妖刀時任を構えると、少年は突撃を開始したのであった。

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