その15-3 笑うな獣の分際で!
ズン――と。
部屋が揺れたかと思うとメキメキと音を立て、本棚の上部が倒壊していく。
火の粉を巻き上げ、根元からぽっきりと折れたその
そしてたった今ヒールの音を立ててそこに着地した人間を
「はっずれー! ちょっとぉ、アンタそれで本気なの?」
これで三度目。大鼠の豪快な体当たりを軽々と飛び越えて躱し、華麗に着地したエリコはクスリと揶揄うような笑みを口元に浮かべた。
途端に響く大鼠の大咆哮。まさに怒り心頭。弄ぶように自らの攻撃を躱し、飄々と挑発を繰り返すエリコに紅き獣は隠すことなく苛立ちを露わにすると、まるで熊のように後脚のみで立ち上がって威嚇する。
だが魔王を倒した英雄はそんな威嚇で怯まない。
「脅しはもう飽きたわ。ギャーギャー叫んで能もなく火の弾撒き散らすだけじゃ、私は一生捉えられないわよ?」
右手を腰に当て、エリコは前傾姿勢でピンと立てた人差し指を左右に振ってみせる。その仕草に大鼠は益々もって全身の毛を逆立たせ、牙を剥き出しにして再度吠えた。
そうだ、これでいい。サイコも上手くやっているようだ。ちらりと確認した視界の端で群影が出口に向かって移動しているのがわかる。もっとだ。もっと揶揄って、弄んで、嬲って憤らせ、もっと鼠の注意をこっちに引き付けてやる――獣の激昂ぶりを見て額に流れる汗をそのままに、彼女はしてやったりと内心喜悦する。
と――
そこで彼女の思案は打ち切られた。
自分の視界に影が落とされたことに気付くと、エリコは咄嗟に床を蹴って後方へと飛び退く。
はたして、後脚だけで立ち上がっていた大鼠の巨体が一瞬にして跳ね上がったかと思うと、彼女を潰さんとする勢いでその頭上から襲い掛かったのだ。
それはまさに獲物を狙う捕食の一撃。辛うじてその攻撃を躱したエリコの眼前で、叩きつけられた獣の前脚が床に亀裂を作り書斎を揺るがす。
吹き出す汗が途端に冷たくなった。やはり一瞬の隙も見せられない。後方に着地したエリコは大鼠から間合い取ろうと、さらに床を蹴る。
だが紅き獣はそれを許さない。
逃スカ人間!――と、大鼠は砲台のように四本の脚でしっかりと床を噛み、大きく開いた口腔から次々と火炎弾を放ったのだ。
まさかの追撃。迫りくる火炎群を捉え、エリコは紅く輝く目を見開いた。
その視界に映った焔の向こうで、大鼠が開けた口の端を歪ませる。
まるでほくそ笑むように、醜悪な牙を覗かせて。
獣のその行為が彼女の闘志を滾らせた。
ざわりと全身の毛が逆立つ。彼女の中の気性の荒い鷹の王家の血が騒ぎだした。
笑 う な 獣 の 分 際 で !
爛々とルビーの輝きを放つその瞳で大鼠を睨み付け、エリコはぎりっと奥歯を噛み締めると回避を試みる。
機関銃の如く飛来する火炎弾を躱し、着地と同時にまた床を蹴ってさらに離脱。
立て続けに床を爪弾くヒールの音が響くそばから、彼女が数瞬前にいた場所で炎の柱が巻き起こっていった。
息が弾む。これで終わりじゃない。まだ凶炎は私を襲い狂うだろう。
生死の駆け引きは続くのだ。だがそれでも。
私を誰だと思っているワケ? 舐めるんじゃない!
逃げると決めた。逃げ切ると決意した。
獣風情が私に追いつけると思わないでよ?――
後ろに真横に、側転、バック転、空中二回転。
一瞬でも躊躇えば直撃を受け黒焦げとなることは免れない、決死のアクロバットショーを披露しながらエリコは炎群の中、華麗に宙を舞う。
最後の火炎弾を躱しきり、彼女は見事に着地すると強気な笑みを獣へ浮かべてみせた。
「はずれっ! ちゃんと狙ってんの? 余裕ぶっこいてんじゃないわよネズ公!」
ゆっくりと立ち上がり、エリコは挑発するように大鼠を手招きする。
風船のように膨らんだ胴体を覆う杏色の毛皮が波立つと、獣の口からまたもや咆哮が飛び出した。オノレ人間! 何故アタラナイ?!――と、途端、笑うように歪んでいた大鼠の口は元に戻ると、代わりに憤怒を携え牙を剥く。
「王女っ!」
小さく息をつき、額の汗を拭ったエリコは、やにわにその身を案ずる声が聞こえて来て、だが油断なく鼠へと注意を向けながら、ちらりとその声の主を見やった。
そして駆け寄ってくるヒロシとヨシタケの姿を確認すると、彼女は再びすぐに視線を戻す。
「ご無事ですか?」
「なんとかね」
「無茶すんぜ王女さんよぉ、よく躱せるな」
「アンタに言われたくないわよ」
最初会った時からではあったが、改めてそう思う。この姉さん本当に王女様か?――と。
曲芸師も真っ青な空中アクロバットを披露したエリコをまじまじと眺めながらヨシタケがそう呟くと、エリコは憮然とした表情を顔に浮かべて間髪入れずに突っ込んでいた。
だが状況を鑑みて彼女はすぐにその表情を神妙なものへと変える。
「聞いて。サイコとマユミちゃん達が逃げたらアンタ達も隙を見てこの部屋から逃げて」
「しかし――」
「今回は私が
ヒロシの言葉を遮ってエリコはそう言い放ち、エリコは一歩前へと大鼠へ間合いを詰めた。
カツンと一際大きなヒールの音を書斎へ響かせて、エリコは半身に構える。
そしてちらりと背後を振り返り、ヒロシとヨシタケに向かって小さく顎をあげた。
準備はいい?――と。
「……王女、ご武運を――」
「アンタもね」
敬意を秘めた眼差しで小柄な王女を見下ろし、目礼するとヒロシは覚悟を決めたように構えた。
ヨシタケも鼻の下を擦ると、嬉しそうににやりと笑いいつでも走れるように身を屈ませる。
「ねえ、鼠さんさぁー? そろそろ反撃いいかしら? 逃げるのも飽きてきたのよ!」
さあ続きと行きましょうか――
持っていた鞭を撓らせ、エリコは見下すようにして焔の鼠を見据えた。
だがしかし。
逃げてみせる。全員で逃げ切ってみせる。
彼女が決して表に出さず心の中で静かに燃やしていた決意を嘲笑うかの如く、運命は『絶望』へと傾き始めたのだ。
大鼠は獣ながら考えていた。
あの人間が憎らしい。俺様の火炎を悉く避けるあの雌が妬ましい。
殺したい。燃やし尽くしたい。あの眩しい程に生命を躍動させる生ある者を消し炭にしたい。
そして、本能からくる殺戮衝動で小さな脳を一杯にした紅き獣は一つの結論に至ったのである。
何故避ける? 何故避けきれる? 鬱陶しい。忌々しい。
ならば、そうだ。
避けれる隙をなくせばいいのだ――と。
刹那。紅き鷹の王女のその挑戦的な視線を受け、大鼠は鼻を一度鳴らすと甲高く嘶いた。
それが『絶望』の始まりだったのだ。
ぞわりと。
エリコは足元から込み上げてくる、何とも言えない殺気と寒気を感じ取ると口元に浮かべていた挑戦的な笑みを消した。
根拠はない。強いていえば今までの経験と直感だった。
「飛んで!」
瞬時に床を蹴ってその場を飛び退きながらエリコは背後に向かって叫ぶ。
鍛え抜かれた武人の勘と、喧嘩慣れした直感もやはりそれを捉えていたのだろうか。
離脱に向けて専念していたのが功を奏したともいえよう。
ヒロシとヨシタケも彼女のその声が指示を下すより早く、その場を離れようと動き始めていた。
それはまるで『炎の間欠泉』――そんな表現がぴったりとくる光景だった。
数秒前まで彼女が立っていた床から、炎の壁が現れ天高く聳え立ったのである。
いやそこだけではなかった。
着地したエリコの背後で酸素が燃焼する濁った音と共に、周囲を焦がすようにしてやはり炎の壁が出現する。
続けて右、左、斜め前――
そう。とどのつまり部屋中に。
大鼠の嘶きに呼応するようにして至る所に現れたその壁群は、たちどころに空間を分断し、暴力的なまでの熱と炎で埋め尽くしていった。
「なによこれっ!?」
驚愕の表情を浮かべ周囲を見渡すエリコの耳に、鼠の鼻息が聞こえてくる。
その鼻息が可笑しそうに、小気味良さげに獣が嘲笑うかに感じられ、途端に彼女は青筋を一つ額に浮かべながら、ゆっくりと前方を向き直った。
はたして鼻をひくつかせ、エリコと数オクターブの間を置いて対峙した大鼠は彼女に向かって前脚を踏み込む。
ドウダ人間? コレデモウ逃ゲラレナイゾ――と。
「まったく鼠の癖に頭が回るじゃない!」
狭まりつつはあったが、まだ動き回れる
これでもう逃げ回ることはできないだろう。
吐いて捨てるようにそう言うと、エリコは姿勢を低く取り鞭を構える。
「王女っ! ご無事ですか?」
と、背後で吹き出す炎の壁の向こう側から、ヒロシの案じるような声が聞こえてきた。
「待ってろ王女様よぉっ! 今そっちに行くからな!」
「バカ言ってんじゃない、こんなのに突っ込んだらただじゃすまないわよ!」
「けどよぉ!?」
「アンタの丸焼きなんて見たくないのよ! こっちは自分で何とかするから、さっさと脱出しなさい!」
立て続けに聞こえてきたヨシタケの声へ一喝するとエリコは自嘲気味に苦笑を浮かべる。
自分でなんとかする……我ながら苦しい強がりだ。
だがそれでも。
気高き紅き鷹は決して挫けない。
「上等だわ、ガチでやってやろうじゃない!」
かかってこい獣風情――
覚悟を決めた紅く輝く双眸で大鼠を捉え、エリコは強気な笑みを浮かべつつ獣に向かって手招きをする。
王女のその挑戦を受け、大鼠は四本の脚で床を噛むと姿勢低く突撃の構えをとった。
鎧袖一触。紅と朱。
お互いの間合いを確かめるように、火中でにじり寄る獣と王女の死闘――
しかし、その火蓋が切って落とされることはなかった。
今にも飛び掛からんと牙を剥いていた大鼠は、やにわに紅い瞳を瞬かせ何かに気づいたように背後を向き直る。
なんだ?――と。
エリコは敵の取った意外な挙動に対し、訝し気に眉を顰めながらも大鼠の視線を辿った。
そして彼女は息を呑む。
大鼠の背後――丁度書斎の出口付近で炎の壁に拒まれ、床に伏せている人影を発見して。
うつ伏せに倒れていた、その人物には見覚えがあった。
頭を振りながらゆっくりと身を起こし、全てを焦がすように燃え盛る炎の壁を見上げ剣呑な表情を浮かべたその少女には見覚えがあった。
最悪の状況ほど頭の中でその過程をいち早く補完し、そして把握してしまうのは何故だろう。
「マユミちゃん!?」
手に持つ鞭を握りしめ、エリコは決死の表情で少女の名を叫んでいた。
♪♪♪♪
数十秒前―
出口まであと少しだ。
逸る気持ちを抑えながら最後尾を駆けていた日笠さんは、背後から聞こえてきた大鼠の甲高い嘶きに、胸騒ぎを覚えて立ちどまる。
途端胸を支配し始めた嫌な予感が振り払うかのように、彼女は事実を確認しようと振り返ろうとした。
そんな彼女の胸を何の予告もなく、にゅっと飛び出したクマ少年の手が勢いよく突き飛ばす。
一瞬後に少女を眩い灯りと、肌を焼くような熱が襲った。
刹那、強かに腰を打ち、短い悲鳴をあげて床に倒れた少女の目に映ったのは、つい数瞬前まで自分が立っていた場所から勢いよく噴き出し始めた炎の間欠泉の姿であった。
あのままあそこに立っていたら今頃は――そう考え、口から飛び出そうとしていたクマ少年に対する文句の一言を飲み込むと、日笠さんは顔面蒼白で噴き出す炎を凝視する。
「日笠さん平気かー?」
「だ、大丈夫……」
「わりー、引っ張る暇なかった」
「ううん、ありがとうこーへい」
鼠の嘶きと同時に鳴り始めたとびっきりの警鐘に従い、こーへいは咄嗟の判断で彼女を突き飛ばしていた。
だが結果を見れば逆がベストだったか――と、少し悔しそうに炎の向こう側から聞こえてきたのほほん声に、日笠さんは震える声で礼を述べ首を振ってみせる。
「マユミさん、ご無事でございますか?」
「サイコさん? はい、なんとか……でも炎のせいでそっちには行けなそうです」
「迂回路がないか探してみるのでございます。もう少しお待ちを」
「わかりました。こっちも探してみます」
炎の向こう側から聞こえてきた落ち着いた女性の声に返事をして日笠さんは身を起こす。
だがしかし――
立ち上がった少女は、突き刺さるような視線を背中に感じて思わず身震いした。
嗚呼、もう最悪だ。なんだこれ?――などと野暮な疑問は持つまい。
わかっている。この殺気の籠った身が竦む程の視線の主が誰かなどわかっているのだ。
だがそれでも。
どうか違いますように、気のせいでありますように――と淡い希望を抱き少女は振り返る。
そして案の定、その希望を打ち砕くように怒りの形相で自分を
「マユミちゃん!?」
数瞬遅れて聞こえてくる、エリコの切羽詰まったような叫び声。
だがそれを掻き消すが如く、大鼠の大咆哮がこちらに向かって放たれ少女は耳を抑えて身をよじった。
「おーい、なんだぁ今の? どうした日笠さん?!」
「ドゥッフ、ひよっちヤバイのー? ねえ、ヤバイー?」
「ええそうやばいの! 頼むからそんなわかりきったこと聞かないでよ!」
途端炎の向こうから聞こえてきた、クマ少年とバカ少年の声に日笠さんはヒステリックに返事をする。
そんな少女に向かって露骨なまでに怒りを露にし、大鼠は前脚を踏み出した。
何ヲシテイルコノ人間メ! 逃ガスカ! 絶対ニ逃ガスカ!――
表情から感じとれる大鼠の追及に、日笠さんは思わず後退る。
だがその侵攻を拒むかのように空気が弾ける乾いた音が響いたかと思うと、獣の前脚へ皮の鞭が絡みついた。
「もしもーし? アンタの相手はこの私よわ・た・し!」
その娘に少しでも触れてみろ? ただじゃあおかない――
面倒くさそうに短い鳴き声をあげ、顔だけで振り返った大鼠に対してエリコは必死の形相で叫ぶ。
忌々しい! 鬱陶しい! やはりこの雌を先に屠るか――
それとも逃げようとしたあっちの雌を消し炭にするか――
獣の思考の中で獲物を吟味するかの如く天秤が揺れた。
だがその秤は僅かの思慮の後、一瞬にして傾く。
やがて一方へとその身を向けて、ぎょろりと見開かれた紅い獣の瞳は。
その中央に真っ青になりながら佇む日笠さんの姿を映し出していた。
「このネズ公! 私を無視するんじゃないっ! アンタの相手は私って言ってるでしょ!」
ウルサイ黙レ、チョコマカト鬱陶シイ雌ガ――
「マユミさん、そちらに迂回できる道はございませんか?」
「こっちにはなさそうです! あの、サイコそっちにはやっぱりなさげですか?!」
「お待ちください」
「お願いします、というかあんまり時間はなさそうです!」
逃ガスカ雌メ! 諦メロ!――
あのお方に害をなす者は皆殺してやる。
そうだ。
焼く!
焼く!
焼く!
焼き尽くす!――
ガッシリと四肢を落とし、大きく開いた大鼠の口腔の中で特大級の火炎弾が生み出されていく。
その熱に、そしてその光に、気づいた少女が怯えながら両手で杖を握りしめるのを眺め、紅き獣は愉悦の感情に浸っていた。
ドン――
と、空気が弾け、灼熱の業火は少女目がけて放たれた。
迫りくる火炎弾を前に、身を竦ませた日笠さんは諦めたように目を閉じる。
無情にも『絶望』へと傾いた運命はそのまま時を刻むかに見えた。
刹那。
炎の壁を突き破り飛び出した影が、少女と凶弾の間に立ち塞がると、彼女の身体を強引に押し倒す。
「伏せろっ!」
確かに聞こえてきた覚えのあるその声に、再び床に伏せた少女がはっと目を開くと。
業火に包まれていた書斎は一瞬のうちに、幻想的な水の輝きに支配されていった。
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