その15-2 傲岸不遜な教育係
カツンとヒールを鳴らし、エリコは一歩前へと出る。
後ろと左右を囲むは紅蓮の壁、そして前方には紅く憤る炎の獣。
出口は生憎奴の背後だ。
そこを通せ――そう言っても、当り前だが話が通じる相手ではないだろう。
もはや書斎は蒸し風呂状態だ。やがて全てが火に包まれる。
額を伝う汗をそのままにエリコは、手にしていた鞭を
残された時間はあまりない。
やるなら短期戦……はたして間に合うか。
否。そこまで考えてから彼女は自戒するように目を閉じた。
間に合うか――ではない。間に合わせてみせる。
約束したのだから。
そう。私は言った。閉まる扉の向こうで心配そうに顔をくしゃくしゃにしたチョクに言った。
わかってるわよね? その子達を絶対護ること……いいわね? こっちは私が何とかする!――と。
一度交わした約束は必ず守らねばならない。
でなくちゃ私は
そのためにもこいつを倒す――
決意と共に目を開き、エリコは紅い瞳で大鼠を見据えると威風堂々身構えた。
と――
「気負い過ぎでございます。貴女様にそのような難しい顔は似合いません」
『天敵』ともいえる相手の、呆れの混じった嘆息と共に聴こえてきた『忠告』が彼女の耳朶を打つ。
途端に額に青筋を浮かべ、エリコは目だけでその声の主を追いかけた。
案の定、左手前方の部屋の角にいたクマ少年の傍らにちょこんとたってこちらの様子を窺っていたサイコの姿が見えて、エリコは不満気に喉を鳴らす。
「サイコ……」
「なんでございましょう?」
「アンタさあ、普通こういう時は主を応援するもんでしょ? せっかく気合入れてたのに」
「今のは応援したつもりだったのでございますが? そもそも貴女様は深慮の上で行動されるようなお方ではないでしょう」
「……こんな時に喧嘩売られるとは思わなかったわ」
やっぱりこいつ絶対私のこと王女と思ってないわね、不遜甚だしいったらありゃしない――
出鼻を挫かれ、引き攣った笑いを口の端に浮かべたお騒がせ王女は、大鼠から視線を外し堪らずサイコへと向き直る。
だがそんな彼女へ、サイコは意外そうに首を傾げてみせた。
違うのでございますか?――と。
「そもそもあんな鼠、真っ向から相手にする必要はないのでございます。いつも通りやればよろしいのです」
「いつも通り?」
「脱出は貴女様の十八番でございましょう。無計画に、気の赴くままに、城の兵士を煙に巻いてしょっちゅう抜け出している癖に。それを今更何を気負ってガチンコやろうとしているのでございますか?」
「……それ褒めてんの? バカにしてんの?」
「両方でございます」
爛々と輝く紅い瞳でギロリと睨みつけてきたエリコに対し、サイコはにやりと笑いピースサインを返す。
まったくこの教育係は本当にやりづらい――なんだか急にバカバカしくなってきてエリコは深い溜息を吐き、眉間に指をあてた。
この新しい教育係が自分の下に使えることになった時、開口一番彼女が言った言葉は今でも覚えている。
私のモットーは『放任』でございます。
城を抜け出し飲みに出かけるのも結構、自由気ままに旅にお出かけになるのも結構です。
自己責任でどうぞ。ただし、私に迷惑をかけないよう上手くやってください――
椅子にちょこんと胡坐を掻き、耳の穴をほじりつつ本を読みながらこの教育係は面倒くさそうにそう宣ったのだ。
そしてそれは冗談でもなんでもなく大真面目の発言だった。
夜部屋を抜け出してもお咎めなし、長旅に出ようと堂々と扉から外に出ても止めようともしない。
お土産は燻製肉がいいのでございます。チューバ地方の名産品でビールに良くあいます故――
などと、行き先を伝えてすらいないのに、エリコがどこへ行くつもりかを当てて手を振って見送る始末。
そんな彼女がたった一度だけ、城を抜け出そうとするエリコを止めた時があった。
女王命令なので仕方なく――
そう前置きして彼女が前に立ちはだかった時、お騒がせ王女はクスリと笑いながら当然全力で逃走を開始した。
止められるもんなら止めてみなさいよ?――と。
だがしかし、結果はわずか一時間でついた。
エリコが何処をどう逃げようと追っ手の衛兵が先回りしており、結局彼女は城下町はおろか、城の外へすら逃げ出すことができず捕まってしまったのである。
人生初の
だから言ったでございましょう? 私に迷惑をかけないように上手くやれと。
遊びに出かけたくば、次からは私ではなく女王にばれぬよう根回しするのでございます。
面倒くさいので二度と私に指示が来ないようによろしくやって下さい――
衛兵に両脇を抱えられ部屋に連れ戻されたエリコに対し、彼女はピースサインを突き出しながらそう言った。
そしてそれ以降も。
サイコ=イマイという新教育係は一事が万事この調子であった。
普段はまったくもって我関せずでいるのに、そのくせ実際のところはエリコの行動と思考を完全に把握しており。
王女を王女とも思わぬ傲岸不遜で歯に衣着せぬ言葉を吐き出す、人を食った態度の持ち主であり。
そしてエリコ=ヒラノ=トランペットという、大陸一のお騒がせ王女を唯一掌で転がして弄べる女性だった。
思い出したらなんだかますます腹がたってきた。
エリコは捕まったあの日の屈辱を胸に蘇らせ、一人悔しそうに口を尖らせる。
けれど。
眉間をカリカリと軽く掻いた後、エリコは自嘲気味に苦笑を浮かべ腰に手を当てた。
おかげで何をすべきか見えてきた――と。
「敢えてお尋ねしましょう。貴女様はこのサイコの追跡から逃げ切る事と、ただでかいだけの脳みそが足りない鼠から逃げ切る事、はたしてどちらが容易いとお思いで?」
「決まってるでしょ、そんなの!」
まあ、聞くまでもないでございましょうが?――サイコがその口元に何食わぬ顔で浮かべた微笑がそう語る中、エリコは手にした鞭で床を打ち付け、心底楽しそうに大鼠を見据える。
「こんな鼠の相手、アンタと比べたら楽勝よ!」
やってやろうじゃない――
声高らかにそう言い放ったエリコの表情にもはや気負いはなかった。
代わりに浮かんだのはお騒がせ王女の無邪気な笑顔――
「わかっているならさっさとしてください。そろそろこの暑さも堪らなくなってまいりました故」
「簡単に言ってくれるわ……アンタさあ、いい加減少しは敬う気持ち持ったらどう? 主従関係ってわかってる?」
「教育係とかかたっ苦しいから、友達感覚でよい――そう仰ったのは貴女様でございますが?」
「……あーもう、わかったわよ! たくっ、せっかくカッコよく決めようと思ったのに、アンタのせいで台無しだわ」
パタパタと首元を手で仰ぎながら、眠そうな目をさらに細めたサイコに対し、エリコは大袈裟に肩を竦めてみせた。
何という緊張感のない会話だろう。
周りを火に囲まれ、絶対絶命の窮地だというのに世間話のような口調でお互い軽口を叩く二人を見て、日笠さんは目をぱちくりとさせる。
だがそんな彼女に気が付くと、エリコは彼女を安心させるように一度頷いてみせた。
そして小さな声で囁くように傍らにいた二人へ話始める。
「マユミちゃん、カノー、いい?」
「はい?」
「ムフ、何ディスカー?」
「私が合図を出したら、サイコの傍に走って」
「え?」
「あとはアイツがなんとかしてくれる。いいわね?」
「あ、あの……エリコ王女、一体何を――」
何を考えているんです? 一体何をするつもりなんですか?――
しかし日笠さんがその疑問を口に出すことはなかった。
痺れを切らした大鼠が再び威嚇するように、甲高い嘶きを書斎へ響かせる。
刹那、その嘶きに呼応するかように、新たな炎の壁が内側へと出現する。
もはや迷っている暇はない。一回り狭まった書斎を一瞥し、日笠さんは息を呑む。
「走って!」
カツンとヒールが一際大きく床を鳴らし、途端彼女はトップスピードに達すると大鼠へ突撃を開始した。
待ってましたと言わんばかりに大鼠も後脚で床を蹴り上げエリコ目掛けて突進を始める。
「ヒロシ、ヨシタケっ! 退路をこじ開けるっ! 私を援護なさい!」
「御意っ!」
「退路だぁ?! おいっ、弔い合戦じゃあ――?!」
口火を切ったと意気込んでいたヨシタケは、エリコの思いがけないその言葉に思わず彼女を向き直った。
しかしその背後で心配そうにこちらを見つめる少女の姿に気づくと、出しかけていた言葉を飲み込み不承不承に大鼠を振り返る。
「くっそ、わかったよ王女さんよぉ!」
「ありがとっ! 後で必ず付き合ったげるから!」
「エリコ王女っ!」
「ドゥッフ、ひよっち行くディスヨ!」
制止するように彼女の名を呼んだ日笠さんの手をかのーが掴み走り出した。
勿論、目指すはエリコが示唆した彼女の教育係の下だ。
別れ際の一瞬、こちらを振り返り、強気な笑みと共にパチリとウインクをしてみせたエリコのその姿が、何故だかとても頼もしく見えた。
♪♪♪♪
「こーへいっ!」
と、名を呼ばれクマ少年はにんまりと笑うと、咥えていた煙草の先からぷかりと紫煙を吹き出した。
「怪我ねーか日笠さん?」
かのーに手を引かれ、こちらへと駆けてきた少女を出迎えるとこーへいは尋ねた。
弾む息を抑えながら日笠さんは顔を上げその問いかけに弱々しく笑いながら頷いてみせる。
「ご無事で何よりでございます、マユミさん」
「あの、サイコさん……それでこれから何をすればいいんでしょうか?」
と、クマ少年と同じく二人を出迎えたサイコへ、日笠さんは開口一番そう尋ねた。
しかしサイコは少女のその疑問を受け、意外そうに僅かに目を見開くと小首を傾げる。
「何の事でございますか?」
「え? で、でも王女はここへ逃げてくればサイコさんが何とかしてくれるって――」
「そんな事をおっしゃっていましたか……」
途端に呆れたように息をつき、サイコは書斎の中央へと顔を向けた。
視界の先では件のお騒がせ王女が大鼠を挑発し、意気揚々、縦横無尽に移動しながら大鼠へ挑んでいるのが見える。
どういう事?――否定的な反応を見せたサイコに気づき、訳が分からず日笠さんは表情を曇らせた。
「何ともあのお方らしい、行き当たりばったりの無責任な発言でございますね」
「へ? ちょ、行き当たり……って、それじゃ――」
「私は何も聞いておりませんのでございます」
といいつつ、びしっとキレのいいピースサインを日笠さんに付きだし、サイコはドヤ顔を浮かべる。
威張る意味が分からん、と傍らで二人の会話を眺めていたこーへいは眉尻を下げていたが。
う、嘘?! 何も聞いていないって、えっとそれはつまり――
「じゃあ作戦なんてないってことですか?! エリコ王女、さっきそれはもう凄い頼もしい笑顔浮かべてたんですけど! なのにまさかノープランってことですかぁー?!」
一体どうするつもりなの!?――
途端血の気が引いていくのを感じながら、日笠さんは目を血走らせサイコへと詰め寄る。
「まあとりあえずあのお方のことは置いておいて、我々は逃げる準備を致しましょう」
「逃げる?」
「さようで。鼠をご覧ください。徐々に出口から離れて来ているでしょう?」
そう言ってサイコはちらりと鼠の後方へ目を向ける。
はたして、彼女の言う通りエリコ達との戦闘で夢中となった大鼠は徐々に移動し書斎の中央へと寄りつつあった。
少しずつではあるがその後方の空間が広がりだし、その先に見える書斎の出口から離れつつあるようだ。
言われてみれば――と、少年少女達は感嘆の声を漏らす。
「流石といいますか……鷹の王家は生来勝気でドSが多い故、ああいった挑発はお手の物のようでございますね。あそこまでやれと私は言ったつもりはないのですが」
「ド、ドSって、いいんですか? そんな事言っちゃって?」
「聞こえなければ何言ってもOKでございます。それに事実でございますし。まあそれはさておき、恐らくあのお方はあの鼠を揶揄いに揶揄って皆が逃げる隙を作るつもりなのでしょう」
「おーい、囮になったってことか?」
「あのお方は、こと逃げる事に関しては誰よりも長けておりますので、心配ご無用でございます。それより今は我らが『すべきこと』に集中すると致しましょうか」
そう言ってサイコは戦況を見極めるように目まぐるしく瞳を動かし、エリコと大鼠の戦闘を注視する。
そして彼女は『すべきこと』の好機を待つように徐に右手を掲げた。
「よろしいですか。あの鼠が王女の誘いに乗ってもう少し出口から離れたら、皆様は全力で出口へ走ってください」
「私達だけ先に逃げるってことですか? それじゃあエリコ王女やヒロシさん達が――」
「それも王女が何とかするはずでございます。心配ご無用です」
「……」
「マユミさんもう一度言いましょう、今何をすべきか――それを各々が考え行動すれば、それはもう立派な『作戦』なのでございます」
そして今我々が何をすべきか。
それは王女が作った隙を無駄にせず逃げる事――
未だ納得がいかない様子の少女へ諭すようにそう言ってサイコは不敵に笑う。
「よろしいですか? 皆さん、覚悟をお決め下さい」
「……わかりました」
「あいよー」
「ムフ、オッケー」
少年少女は異論はありえど、サイコのその言葉に従い不承不承ながら合図を待つ。
やがて。
サイコの目がさらに細まった。まるで遠くを見定めるように中央で繰り広げられている戦闘を眺めていた瞳が、勢いよく跳ね上がり、エリコに襲い掛かった鼠の姿を中央に捉えた。
「……今です!」
刹那。振り下ろされた合図に従い、日笠さん達は出口目掛けて走り出したのであった。
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