その10-2 報讐雪恨
窓の外で落ちた稲光により露わになったその悍ましい容姿を眺め日笠さんは表情を曇らせる。
ただひたすらに、生者の持つ命の輝きを求めて彷徨う彼等の姿は、それまで見た
えぐれた肉の隙間から覗く骨、剣で貫かれた頭部、欠損した腕、ぽっかりと空いた胸の空洞――
恐らく生前の彼等を死に追いやったのであろう致命傷の跡をそのままに、生ける屍の群れはゆっくりと歩み寄って来る。
口から放たれるのは意味を成さないうわ言ばかりだ。当たり前だが彼等にもはや意思などないのだろう。
と――
「
傍らから聞こえてきた声に気付き、日笠さんはエリコを向き直る。
彼女の表情は珍しく強張っていた。何かに戦慄するような、そして反面憤慨するようなそんな表情の強張りだった。
だがそれは彼女だけではなかったのだ。
ヒロシもヨシタケも、そしてサイコまでも。
彼等は一様に目を見開き、こちらへ向かってくるゾンビの群れを見つめ立ち尽くしていた。
「エリコ王女?」
明らかに様子がおかしい――日笠さんは眉根を寄せて彼女の名を呼ぶ。
だがエリコは答えない。唇を噛み絞めたまま正面を凝視し、彼女は微動だにしない。
「おーい、もしかしてあいつらって強いのか?」
見た目は異様で悍ましいが、動きは緩慢そうだし逃げればよいのではないだろうか――
少女に肩を貸していたこーへいも、そしてゾンビから最も後方にまでちゃっかり退避していたかのーも、動揺する四人に異様さを感じ取り訝しげに表情を曇らせていた。
と、言葉を発さないエリコに代わり、サイコは彼等を振り返る。
「あのゾンビが着ている装備はカデンツァのものでございます」
「……え?」
嘘でしょ?――サイコの放った言葉の意味を、無意識に脳が拒否しようとしていた。
三人の少年少女は絶句しながら正面を向き直る。
はたして、彼等が会話を続けるその間もゆっくりとこちらへ向かって来ていたゾンビの群れが纏っていたのは、黒字に赤の軍服だった。そしてその軍服の右腕に付けられていたのは両翼を掲げた紅い鷹の
つまりあのゾンビ達は――
「彼等はヒロシ殿の部下達……その、なれの果てです」
平静を装いながらもその瞳にありあり『不快』の感情を灯しサイコは簡潔に事実だけを述べる。
そのサイコの傍らで、ヒロシが歯を食いしばり掌に爪が食い込むほどに両拳を握りしめた。
そう言う事か――
理解すると同時にこーへいは露骨に顔を顰める。
やけに静かすぎるこの城も、そして争った痕跡があるにも拘わらず戦死者の遺体がまるでなかった事も、全ての理由は目の前の生ける屍達が物語っていたわけだ。
これが
「ヒロシ、ヨシタケ、それにサイコ。アンタ達よくやったわ」
「王女……」
「よくこの屈辱に耐えた。よく心を折らず生き抜いた」
死んだ者から敵に変わる。共に戦ってきた仲間が次の日には襲い掛かってくる。
そんな悪夢と絶望以外の何物でもない地獄絵図の中を三日間よく耐えた。
ヒロシ達の不屈の精神を称え、鷹の国の王女は労いの言葉を投げかける。
だが死者を愚弄し、生者の心を折るこの陰湿な戦い方は許せない。
報讐雪恨。沸々と沸いてきた怒りが、青ざめた顔色とは対照的にエリコの瞳に激昂の色を灯す。
「だから……もう少しだけ私のために耐えなさい。ここは逃げるわよ」
一同はその声に導かれるようにして振り返った。
苦渋の決断。だが後悔はない。紅き国の王女は噛み締めた薄い唇の端に血を滲ませ、威風堂々正面を見据えていた。
貴女様こそよくぞ耐えたのでございます――と、サイコは感心するように口の端に微笑を浮かべる。
撤退。いや『戦略的』撤退。
はたしてエリコの言葉に従い、一同はゾンビの群れに背を向けると逃げる準備を開始した。
「日笠さん、歩けるか?」
「……頑張る」
こりゃダメだ。完全にガス欠だな――
一目見てそう悟ったクマ少年は、ぐったりと自分の肩にもたれ掛かっていた少女を背負うと、準備OKとエリコに目で合図を送った。
「ムフ、オーイクマー早くー! コッチコッチー」
と、既に遥か遠くまで退避していたバカ少年が手を振りながら皆を呼ぶ。
あいつはほんと、逃げ足だけははえーなおい――咥えた煙草をだらんと垂らしながらこーへいはのっしのっしと駆けだした。
「ヨシタケ、アンタもぼさっとしてないで逃げるのよ」
「王女さんよ、けど――」
「倒すべきは
目の前の敵と戦うことがいかに無益でいかに後味が悪いか? それはアンタ達が一番わかってるはずでしょう?――
歯切れ悪く反論しようとしたヨシタケを一睨みで沈黙させ、エリコは踵を返した。
だがしかし――
ただ一人、微動だにせずその場に立ち尽くす人物に気づき、エリコは足を止める。
そしてゾンビの群れをじっと見つめる彼の背中目掛けて、彼女は声をかけた。
「ヒロシっ! 何してるの?
「……」
僅かに俯いた巨漢の武人のその背中には葛藤がありありと見て取れた。
エリコは彼のその心中を察しながらもさらに声を張り上げる
「ちょっと聞こえてる? 逃げるの!」
わかっている。冷静にならねばならぬのは重々承知だ。
部隊の長たる者として私情に流されてはいけない――
背中越しに聞こえてくるエリコの声を受け、わなわなと拳を震わせながらヒロシは顔を上げる。
徐々に間合いを詰めつつある
隊長逃げて下さい。どうかここは我等にお任せを!――
貴方さえ生き残れば
「これが人のすることか……」
脳裏に蘇る部下達の声に、ヒロシは思わず呟いた。
迫る
同じ釜の飯を食らい、時にお互いの背中を預け、時に互いを信じ、どのような困難にも立ち向かってきた誇るべき部下達を。
蔑み、冒涜し、嬲る行為……これが許されてなるものか――
「ヒロシッ!」
刹那。切羽詰まったエリコの声が聞こえて来て彼は我に返る。
同時に右腕に激痛が走った。
既に間合いまで迫っていたゾンビの一体が彼の腕に噛みついたのだ。
「ぐっ!」
不覚、敵を前にして集中を切らすとは何たる愚行――
低い呻き声をあげつつも、ヒロシはその剛腕を勢いよく振るいゾンビを振り払った。
彼の腕に噛みついていたゾンビはその膂力によっていとも簡単に振りほどかれ壁に激突する。
激突したその屍がぐしゃりと潰れ、熟れたトマトの如く肉塊を周囲に飛び散らせた。
ゴロリ――と。
飛び散ったゾンビの頭部がヒロシの足元に転がり落ちる。
その頭部は、彼を慕っていた隊で最も若い兵『だった』もの。
活動を停止し、今は何も映していない真っ白に濁ったその瞳が彼を見上げていた。
それが我慢の限界だった。
武人の誇り高き精神が抑えていた、理性の
「俺の部下を……おのれ、おのれっ!」
「ヒロシッ!」
「ヒロシさんっ!」
エリコの制止も、ヨシタケの案ずる声ももはや彼には届かなかった。
腕から流れ落ちる血をそのままに、ヒロシはあらん限りの大声で叫びながらゾンビの群れへ突撃する。
その怒号に反応し、ゾンビ達は一斉に彼へと襲い掛かった。
だが生前の精鋭ぶりはもはやなく、緩慢な不死者と成り果てた兵士達に、鍛え抜かれた剛拳を躱す術などあるはずもなく――
ゾンビの群れはヒロシの繰り出した正拳づきによって次々と吹っ飛び、倒れ、或いは『肉塊』と化していった。
「死霊使いよ聞こえるか!? これが人間のする事かっ! 潔く戦って死んだ武人を愚弄する権利が貴様のどこにあるっ!」
ぐしゃりぐしゃりと腐敗した肉が潰れる音が木霊する中、返り血と肉に塗れた拳を振り上げヒロシは叫ぶ。
たちまちのうちに酸鼻を極める腐臭が周囲に立ち込め始め、神妙な顔つきで彼の暴走を見つめていたエリコは眉根を寄せた。
「どうしたの?」
「見るな」
背中から聞こえてきた弱々しい少女の声に対し、こーへいは即答する。
いつもの彼からは想像もつかないその真剣な声色に、日笠さんは思わず目を閉じ彼の背中に顔を埋めた。
その間もヒロシの暴走は続く。
「許すまじっ! 出て来いっ死霊使いっ! 殺してやる! 必ず殺してやるっ!」
悲観、怨恨、怒り、そして殺意。
あらん限りの負の感情を腹の底から吐き出しながらヒロシは叫んだ。
と――
猛り狂う武人の後頭部に空を切って何かが飛来したかと思うと、それは甲高い硝子の割れる音を通路に生み出しながら砕け散る。
途端に頭上から冷ややかな赤紫色の液体が降り注ぎヒロシの理性を呼び戻した。
噎せ返るような
「秘蔵のパインロージン産特上ワインの味はいかがでございましょうかヒロシ殿?」
刹那、聞こえてきた物臭そうな女性の声にヒロシは振り返った。
そんな彼の視線を受け止めながら、肘を抱えるようにして腕を組みサイコは小首を傾げてみせる。
「サイコ殿……」
「冷静になりなさい。一時の感情に流されず、今すべきことを思い出すのです」
ぽかんとするヒロシにそう言い放ち、サイコは口の端に得意げに笑みを浮かべながらピースサインを突き出していた。
唖然としながらそのやり取りを見ていたエリコは、我に返ると慌てて彼女を向き直る。
「サイコっ!」
「少しは上に立つ者としての自覚をお持ちいただけたのかと思いましたが、まだまだでございますね。本来は貴女様が諭すべきことです」
「……ごめん、ありがとう」
「礼はワインの弁償で手を打ちましょう。今はサッサと逃げるのが先決でございます」
言うが早いがクルリと踵を返すとサイコは走り出した。
去りゆく教育係の後ろ姿を見つめ、エリコは感謝するようにクスリと笑う。
だがすぐにその表情を真剣なものへと変えると、彼女はヒロシを振り返った。
「ヒロシ、約束するわ。アンタの部下の仇は私が必ず取る」
「王女……」
「だから今は逃げるわよ。さあ早く!」
射貫く程に自分を見つめるエリコの瞳は決意を秘めた紅い輝きを放っていた。
濡れそぼった髪をそのままにヒロシはその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
やがて武人の足が床を蹴り、撤退を開始したのを見届けると、エリコは満足そうに笑ってみせた。
かくして一行は脱兎の如くその場の離脱する。
ゾンビの群れはしばらくの間彼等を追いかけていたが、次第につき始めた差から無駄だと悟ったのか、やがて諦めたように歩みを止めた。
すまぬ、仇は必ずや!――
通路を走る彼を呼び止めるように聞こえたかつて部下だった者達の喘ぎ声に対し、巨漢の武人はそう心に誓うと拳を握り締める。
古城に夜が訪れようとしていた。
不死者の縄張りに足を踏み入れた、生ある者達の苦難はまだまだ続く。
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