その4-1 嗚呼、もう最悪だ


 数分後。

 コルネット古城内堀西側、舟着場。


 豪雨で水嵩を増し、急な流れとなった内堀の西側。

 船着き場と呼ぶには粗末な出板が立て掛けられただけのその端を、水の中からにょっきりと手が飛び出して掴んだ。

 

「ぷはっ」


 やがて水飛沫をあげて水中からひょっこりとこーへいが顔を出すと、彼は背負っていたエリコをその板の上に押し上げて自らも水から揚がる。


「――っ」

「ドゥッフ」


 続いてかのーもその後に続いて水面へ顔を出すと、やはり背負っていた日笠さんの身体を停船場に寄せた。

 先に揚がっていたクマ少年が少女の手を掴み、陸へと揚げる。

 最後にかのーがザバリ――と飛沫をあげながら板の上に飛び揚がった。なお、バカ少年のその髪は水に濡れてパーカスで河に落ちた時のように、真ん中分けしたサラサラ髪になっていたことを追記しておく。

 

「……あいつは?」

「んー、いないみてーだぜ?」


 こーへいはトントンと肩を叩きながら周囲の様子を窺い、苦悶の表情を浮かべ座り込んでいるエリコに答えた。

 堀の中の流れはかなり急だった。少し流されたようだ。

 向かって右手に古城が見えることから考えると、ここはどうやら城の横手あたりか。目の前には円筒状の塔が見えた。物見塔かなにかだろうか。

 雨風に晒されてすっかり朽ちかけた外見となった頂上部は架けられた渡り廊下で古城と繋がっているようだ。

 いずれにせよあの銀髪長身の男の姿は見えない。彼の勘も警鐘を止めている。

 

「日笠さん平気か?」


 と、水から揚がった姿勢のまま、肩で息をしながら動かない少女を見下ろし、こーへいは心配そうに尋ねた。

 息が苦しい、頭もフラフラする。やはり短期間に連続で魔曲を発動させた代償は大きかったみたいだ。けれど、ここで弱音は吐いてられない――髪から滴る雫をそのままに、日笠さんは無言でゆっくり頷く。

 その行為がどうみてもやせ我慢であることは、例えずば抜けた勘がなかったとしても一目見てわかった。

 手負いの王女様に疲労困憊な少女。おまけに全身ずぶ濡れときたもんだ。こりゃどこかで休んだほうがよさげだ――クマ少年は眉根を寄せて再び周囲を一瞥する。


 と――


「ムフ、オマエラこっちこっち! こっから中にハイレルみたいディスヨー!」


 いつの間にか姿が消えていたバカ少年の声が聞こえて来てこーへいは声のした方向を振り返った。

 手を振る彼の姿が見えたのは、先ほど見えた物見塔の下だ。

 どうやら勝手にその場を離れてうろちょろ探検していたようだ。

 あいつは本当に集団行動ができない奴だな――やれやれと猫口を浮かべ、こーへいは小さな吐息を漏らす。

 だが迷ってる暇はない。あの男が追ってこないとも限らないのだ。

 

「王女さんよー、とりあえずあそこに隠れねー?」

「わかったわ」


 と、振り返って肩越しに親指で塔を差したこーへいに対し、エリコは頷きながら立ち上がった。

 だが途端に右足に走った痛みに、彼女は細い眉を歪めて動きを止める。

 

「肩貸すぜ?」

「……ありがとう」


 珍しく素直に礼を述べ、クマ少年の差し出した肩に寄り掛かると、エリコは足を引き摺るようにして歩き出した。

 ようやく呼吸が整った日笠さんも樫の杖にもたれ掛かるようにして立ち上がり彼等の後に続く。

 こちらに向かって歩いてくる三人を確認すると、サラサラヘアーの糸目少年は、やにわに傍らにあった鉄扉を思いっきり蹴りつけた。

 錆びてボロボロになっていた錠前を吹き飛ばし、派手な音を立てて鉄扉はこじ開けられる。

 それを見届けるとかのーはケタケタとご機嫌な笑い声をあげて塔の中へと入っていった。


「あいつは警戒心ってのがねーのか?」

「今に始まったことじゃないでしょ?」


 まったく、もし中に化け物がいたらどうするつもりなのだろうか。

 やれやれと諦観の溜息をつき、二人はぽっかり開いた塔の入口から中を覗き込む。

 中は真っ暗で何も見えない。だが幸いにも化け物はいないようだ。

 どうしよう――日笠さんとこーへいはお互いを見合って小首を傾げる。

 と、先に中に入っていったバカ少年が待ちきれなくなったのか、にゅっと中から顔を出した。

 

「ムフ、何やってるディスカ。早く入れヨ」

「……う、うん」 

 

 それだけ言って再び中に戻っていったかのーに続き、日笠さんは意を決したように塔の中へと足を踏み入れる。

 少女が入るのを確認してから、こーへいはエリコを背負い直し同じく中へと足を踏み入れると扉を閉めた。

 途端闇が視界を支配する。

 恐らく吹き抜けになっているのであろう塔の上部へ、扉の閉まった音が木霊した。

 上を見れば僅かに外の光が差し込んでいるのがわかるが、灯りと呼ぶまでの光源には至らない。

 中ほどまで進んでいた日笠さんは、何も見えなくなって思わず立ち止まる。


「真っ暗だね……」

「おー、わりーわりーちっと待ってろ」


 と、暗闇の中のほほんとしたクマ少年の声が上下に響きながら聞こえてきた。

 数秒の間、カチカチと音がしたかと思うと、やにわに小さな火が少女の目の前で起こり周囲を照らす。

 ダメ元でやってみたが意外と点くもんだ。流石百円ライター、シンプル故に水にも強い。

 だがこちらに来て一か月と半月、そろそろオイルが尽きそうだなこりゃ――

 灯りによって明確になった半透明のボディの中に見えた心細いオイル残量を眺め、こーへいはこれが尽きたらどうやって煙草を吸うか――と、呑気にもそんな考えを巡らせていた。


 そんな彼を差し置き日笠さんは、明るくなった塔の中を一瞥して感嘆の吐息を漏らす。

 塔の中は小さな部屋だった。

 古いものではあるがベッドや竈、それに机といった生活用品が一式揃っている。

 積もった埃から察するに使われなくなってから随分と久しいようだが、誰かがここで生活をしていた痕跡が見て取れた。


「ひよっチー、クマー! この上シロと繋がってるディスヨ!」


 と、頭上からわんわんと響いた声に対し、濡れそぼった前髪を掻き上げながら日笠さんは天を仰ぐ。

 先刻からの声の響き具合でなんとなく予想はついていたが、やはり天井は吹き抜けとなっており、螺旋状に壁に取り付けられた石階段が塔の頂上まで続いているのが見えた。

 そのいただきからひょっこりと顔を覗かせ、二人を呼んだ声の主であるかのーはやや興奮気味に笑みを浮かべていた。

 灯り無しであそこまで登ったのかよあいつ。目が良いだけでなく、夜目も利くなんて羨ましい奴――

 人一人がやっと通れるほどの小さな階段をちらりと眺め、こーへいは呆れたように眉尻を下げる。


 ま、とりあえずあいつは放っておいて怪我人の介抱が先だ。

 こーへいは傍にあったベッドまでエリコを運ぶとその上に彼女を降ろす。

 そして机の上に置いてあった年代物のカンテラを手に取り軽く埃を払って蓋を開けた。

 徐にライターを近づけカンテラの芯に火が灯されると、塔内はさらに明るくなる。

 僥倖だった、まだ油が残っていたようだ。にんまりと笑い、クマ少年は灯りが付いたそのカンテラをベッド脇に移した。

 

「エリコ王女、足大丈夫ですか?」


 と、こーへいと同じく彼女の傍らに歩み寄っていた日笠さんは心配そうに尋ねた。

 エリコは履いていたヒールを脱いで素足になると痛みを訴える右足を見下ろし、そして苦悶の表情をより険しくする。

 時を同じくして彼女のその足を覗き込んだ日笠さんとこーへいの顔が、途端に剣呑なものへと変わった。

 彼女の右足は膨れ、乳白色に腫れあがっていた。

 見た感じ、軽度ではあるが凍傷を起こしているようだ。


「油断したわ……」


 苦々しく笑いながらエリコは嘆息する。

 日笠さんは肩さげ鞄の蓋を開くと、中をごそごそと手探って水筒を取り出しベッドの脇に置いた。

 持ち物は例外なく浸水してしまっていたが、蓋をしていたおかげで中の水は無事のようである。

 パーカスの商業祭で購入したボトルタイプの木製の水筒だった。

 ボトルは革袋の水入れより多少値段が高めで、中身を飲み干した後も畳むことができず嵩張るが、元の世界で使い慣れていた型のものの方が良いだろうと思い彼女は購入していた。

 

「凍傷の場合は患部をお湯で温めるといいんだけど――」

「おー、よく知ってんな?」

「保健体育の授業で習ったでしょ? 千晶先生言ってたよ?」


 応急処置の授業で受けたはずだ。ちゃんとテストにも出てたし――

 と、感心したようににんまりと笑ったこーへいに冷ややかな視線を送った後、日笠さんは周囲を見渡す。

 水はある。けれど、温めるには火を起こさないと。何か術はないだろうか――と。

 

「んー、こいつで温めるってのは?」


 と、彼女が何を捜してるのかを察して同じく部屋の中を一瞥していたクマ少年は、やにわに部屋の隅にあった石竈へ歩み寄る。

 元の世界で言う所の西洋式の竈だった。上部に開いた穴から火を取って調理するタイプのものだ。

 大分長い年月使っていなかったようで埃まみれだが見た感じ損傷もなくまだ使えそうだ――

 ぽんぽんと竈の上部を叩き、こーへいは日笠さんを向き直った。

 

「でも薪が――」

「ムフ、燃やすモンならあったヨー」


 竈の中は空っぽだった。燃料がなければ火は起こせない――そう言おうとした日笠さんの言葉を遮り、頭上より降ってきたバカ少年が軽快に着地を決めるとドヤ顔で彼女の顔を覗き込む。

 途中で階段を降りるのが面倒臭くなって飛び降りたのだろう。

 と、かのーのその両手一杯に抱えられていたのは――

 

「……松明?」

「上のローカに一杯あったディス」


 まじまじと山ほどの松明を眺め、日笠さんは呟く。

 古城へ繋がる渡り廊下に立て掛けられてあった物を拝借してきたものだった。

 夜目が利くこの少年は部屋に入るなり竈の存在に気づいていたようだ。上に向かっていたのももちろん好奇心はあったのだろうが、薪の代わりになるものを捜しに行った故だったのである。

 まあもっとも、この少年の場合は自分が暖を取りたいという自己欲求のためであったが。


 かのーが抱えていた松明の束を一本手に取り、こーへいはカンテラに翳すようにしてそれを見つめる。

 やはりこの松明も部屋の中と同様に年代物のようだ。

 若干時化ってはいるようだが、湯を温めるくらいの燃料には使えなくもないだろう。

 

「んー、やってみっか?」

 

 点かなかったらその時また考えればいい――

 と、未だ懐疑的に松明を見つめていた日笠さんを振り返り、こーへいはにんまりと笑った。

 

♪♪♪♪

  

 三十分後。

 結果としてこーへいの思惑は見事成功していた。

 松明に巻かれた布に染み込んでいた松脂はまだ生きていたようで、着火当初は火の点きが悪く煙が部屋に充満してしまっていたが、しばらくして火が大きくなるとそれ以降は順調だった。

 薪代わりにくべられた他の松明に火が移り竈に無事火が燈ると、こーへいはこれまた部屋の中で見つけた鍋を竈の上に乗せ、日笠さんから預かった水筒の中身を注ぎ入れる。

 松脂の臭いが若干気にはなるが、料理をするわけではないのだからこの際それは気にしない。

 こまめに水に指を付け一肌程度の温度になったのを確認すると、こーへいは日笠さんを振り返りコクンと頷いていた。


「ちょっと沁みるかもしれないです」


 そう言ってエリコの足元に鍋を置いた日笠さんは、エリコを見上げる。

 無言で頷き、彼女は白く腫れた右足をその鍋へと浸した。

 途端にエリコは顔を歪め、声を殺すようにして息を吸う。

 しばしの間動きを止めて足から上がってくる痛みに耐えていた彼女は、やがて落ち着いたのか表情を和らげ、ふうと息を漏らした。


「そのまましばらくの間、浸しててください」

「ありがとう、助かったわ」

「いえ、守ってもらったのは私達のほうですし……あ、痒くなっても患部は掻いたり揉んだりしない方がいいそうです」


 聞いた話で実際見た事はないんですけどね――そう付け加えると、日笠さんはエリコに向かって照れ臭そうに笑って見せる。


 その後はなし崩し的に休憩となった。

 そして今に至るというわけだ。

 竈の火を暖炉代わりに、暖かくなってきた円筒形の部屋の中で四人は思い思いに身を休めていた。

 古い毛布に身を包みながら、鍋に張られたぬるま湯に右足を浸し、エリコはぼんやりと火を揺らめかせる石竈を眺める。

 竈の煙で敵に見つかることを懸念していたが杞憂だったようだ。あの男や骸骨兵スケルトンの襲撃は今のところはない。

 前かがみにベッドに腰かけながら、お騒がせ王女は悔しそうに頬杖をつく。


「あーあ、煙草がしけちゃったぜ……」


 こりゃ乾くまで吸えねえな――

 そんなエリコの傍らで、椅子に腰かけ一服しようとしたこーへいは、水に濡れてしまった煙草を眺めながら残念そうに呟いた。


「フンガー! あのヘビヤローのせいでずぶぬれディスヨ!」


 かのーも着ていたサマーパーカーをTシャツごと乱暴に脱ぐと、ぎゅっと絞って水を切りながら、プンスカと頭の上から湯気を飛ばしていた。


「そういやさー、日笠さん携帯は無事なのか?」

「さっき気になって調べてみたけど、ちゃんと動くみたい」


 と、部屋の一画に掛けられた布の向こうから日笠さんの声が返ってくる。

 彼女がベッドのシーツを使って作った急場の間仕切りだ。

 余談ではあるがつい先刻、覗かないでよね?――と、念を押して中に入って行った少女に対し、クマ少年はへいへーい――と、肩を竦めていた。

 そんな恐ろしい事したら人生が終わることを彼はよく知っている。


 閑話休題。でも何で無事だったのだろう。もしかしてササキが防水改造をしてくれていたのか、それとも林檎製の最新七番だからなのかわからないが、内堀の中を泳いで移動したにも拘わず、携帯は特に問題なく少女のタップに反応して待ち受け画面を表示させていた。

 ああ、けれど簡易音響装置ペンダントはどうだろうか。ちゃんと動くかテストするわけにもいかないし、こればかりは壊れていないことを祈るしかない――

 灰色の長衣をいそいそと脱ぎながらそんな事を考え、少女は困り顔を浮かべる。


「あ、ところでエリコ王女」

「ん……?」

「さっきの男のことですけど……あいつのこと知ってるんですか?」


 アンタがまさか生きてたなんてね――

 あの時彼女はそう言っていた。今考えてみれば初対面ならあり得ない会話なのだ。だからあの時、日笠さんは違和感を覚えていた。二人は過去に何か関係があったのだろうか?――鞄の中から取り出したタオルを固く絞って水気を切り、肌に着いた水滴を拭き取りながら日笠さんは気になっていたことを尋ねる。

 はたしてしばしの間を置いて、お騒がせ王女の声が仕切りの向こう側から聞こえてきた。



「そりゃもうよーく知ってるわ。なんせ十年前私が倒した相手だもの」



 すっかり落ち着いたいつも通りのエリコの声だったが、その声の根底に僅かに動揺が感じられた。

 だがそれよりも何よりも、彼女があっさり放った衝撃の返答を聞いて、日笠さんは身体を拭いていたその手を止めると目をぱちくりとさせる。

 

「……倒した?」

「そう、私とマーヤ達五人で総がかりでね。私がトドメを刺したから間違いないはず」

「おーい、マジか?」


 どういう事だ? トドメを刺したんだよな? それが何で今ここに?

 話のつじつまが合わない――そう言いたげに咥えていた生乾きの煙草をプラプラさせながらこーへいはエリコを向き直る。

 クマ少年の懐疑的な眼差しを受け止め、エリコは神妙な顔つきで深く頷いてみせた。



「あいつの名前はキシ。通称『氷使いのキシ』……三羽の黒鴉トリニティ・レイヴンズの一人よ」


 

 刹那。エリコの口から飛び出したその名前を聞いて、日笠さんは深い溜息をつきながら天を仰ぐ。


 なるほど、それで既視感があったわけだ。合点がいった。

 そう、合点はいったが……嗚呼、もう最悪だ。

 よりによってなんで彼をモデルにしたの舞ちゃん――と。

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