その3-2 まさか生きてたなんてね
振動と共に大きく重い物が動き出した音が響く。
え? は? なんで?――振り返ったその先に見えた、閉まり始めた門に気づいて日笠さんは一瞬思考を止めた。
だが彼女はすぐに足を前へと踏み出す。
走れっ!――と、そう少年の声が背中を押したから。
だが雨煙る石橋の上、走り出した少女の身体はすぐに強引に後ろへ引き戻される。
彼女のその手を掴んだ何者かに、思いきりその身を引っ張られて。
それが誰であるかを確認する余裕もなく、訳も分からぬまま日笠さんは転倒し、石橋に水飛沫を跳ね上げた。
刹那。
硝子が割れるような音と共に石橋が揺れ、その身を打ち付けた痛みに苦悶の表情を浮かべていた日笠さんは、何事かと前方を見上げる。
「……うそ」
わかってる、ここは異世界。何が起きても不思議じゃないと。
それでもこれはあり得ない。なによこれ――つい数瞬前、通過しようとしていた場所に今は堂々聳え立つ氷の壁が見えて少女は絶句した。
「平気? マユミちゃん」
と、少女のその手を引っ張っていたエリコは、彼女を庇うように前へ歩み出ると油断なく氷壁を見据えながら尋ねる。
慌てて駆け寄って来たこーへいとかのーが、慌てて彼女の手を取って起こした。
「大丈夫……です」
もしあのまま走っていたら今頃は――そう考えたら今頃になって震えが襲って来た。
ぐっと唇を噛み締め少女は立ち上がると、エリコに答えた。
「まゆみっ! 大丈夫?!」
透き通る程に澄んだ氷壁の向こう側からなっちゃんが手を差し伸べてる姿が見える。
だが門はもう半分以上閉まっている。今から到達することは絶望的だろう。
ごめん、ちょっと間に合いそうにない――そう心の中で返事をした日笠さんの視界から、しかしなっちゃんの姿が突如として消えた。
降りしきる雨に混じり、空から舞い降りた人影によって遮られて――
それは、冷たい輝きを放つ銀色の髪を無造作に束ね、秀麗な顔立ちと雪のように白い肌を持つ長身痩躯の男だった。
すらりと伸びた長い足と、豹のように無駄のない引き締まった肉付き。その身体を覆うのは、身軽さを重視した黒革の胸当てのみだった。
だがその右手には彼の背後に聳え立つ氷壁と同様に、透き通る刃を持った異様な長剣が握られている。
誰よこの人? 一体どこから来たの? 上から降ってきたように見えたけど。
あれ、でもちょっと待って……この顔どこかで見たことがある。いや誰かに似ている。
まさか――
「嘘でしょ……」
と、声が聴こえ、その声色に違和感を覚えた少女は振り返る。
見えたのは『英雄』と呼ばれる女性の珍しく動揺した表情だった。
初めて見た。彼女のこんな表情――日笠さんは目をぱちくりとさせる。
と、現れた男は猫のように細く尖った金色に輝く『獣の瞳』で佇む四人を一瞥し、にやりと不敵に笑う。
敵を発見し、それを駆逐せんと吹雪の如く冷たい殺意を放ちながら。
ぞくりと背筋が冷たくなるのを感じながらエリコは即座に臨戦態勢に入り、氷壁の向こう側に向かって叫んでいた。
「チョクッ! 聞こえる? こいつがいるってことは残りの二人も必ずいるはずよ。わかってるわよね? その子達を絶対護ること……いいわね? こっちは私が何とかする!」
「姫! どうかお逃げ下さい! そいつはまやかしッス、あの時倒したはずじゃないですか!」
「いいから目の前のことに集中しなさい! じゃ、後で合流しましょう。そっちは任せたからね!」
「姫、待ってください! 姫ッ――」
悲痛な叫びをあげるチョクの声を遮り、とうとう扉は大きな音を内堀に響かせながら完全に閉じられる。
失意と絶望を表情に浮かべ日笠さんは閉じ切ったその扉を見上げながら、仲間の名を叫ぼうと口を開きかけた。
だがそんな彼女を威嚇するように稲光が雲間を走り、雷鳴が上空で轟きをあげる。
見事なまでに分断された。これが狙いだったのか、はたまた偶然か。
いずれにせよ、こいつはやべえ――途端にとびっきりの勘が喧しいくらい警鐘を鳴らし始め、こーへいは猫口を引っ込めると男を見据えていた。
と――
「こいつの相手は私がやる、アンタ達は下がって」
いつになく真剣な声でそう言い放ち、エリコは鞭を解いて構えると背後にいる少年少女達へ口早に告げた。
それ以上の猶予はもはやなかった。
凄まじいまでの冷気が男の剣に集まり始めたことに気づき、エリコは咄嗟に石畳を蹴り上げ宙へと離脱する。
ほぼ同時にクマ少年とバカ少年は、日笠さんの両脇を持って担ぎ上げると一目散に後方へと逃げ出していた。
経験、勘、本能……いずれも『逃げる』という行動結果に到達した理由は違った。
けれど正しい選択だった。
やにわに男は何の前触れもなく、流れるような動きで手にしていた氷の剣を石畳に突き刺した。
予備動作が見えなかった。
途端に彼等が数瞬前に立っていた石畳から無数の氷の刃が水晶の塊の如く突出する。
「おーい、マジか?」
「ドゥッフ、あんなのムリムリ!」
あのままいたら串刺しだった――現れた氷の刃群を目の当たりにし、二の句が告げずに固まった日笠さんをそのままに、こーへいとかのーは各々愚痴をこぼす。
しかし空中へと離脱していたお騒がせ王女は違った。
回避から即座に反撃へと移ろうとしていた彼女は、宙にて身を捻ると手にした鞭を男の頭上目がけて振り下ろす。
風を切り鞭の先端が正確に男の額を割らんばかりの勢いで迫った。
だが男の金色をした三日月を灯す獣の瞳は、冷静にそして無感情に自分に迫る鞭の先端を捉えていた。
はたして、僅かに身を反らし男は最小限の挙動でエリコの放ったその一撃を躱す。
石畳を鋭く叩きつけた鞭とほぼ同時に着地した彼女は額を流れる雨をそのままに油断なく男を見据えた。
鞭では些か詰め過ぎた間合い。伸ばしきった鞭を引き戻すには不利な間合い。
ここは
それでもエリコは怯まない。彼女は引かない。退かない。
跳躍により詰めた間合いをあろう事かさらに詰めたのだ。
自ら男の懐に飛び込み、間合いを『0』にしたのだ。
意表を突かれた男の剣に僅かに迷いが生じる。
その隙を逃さず、エリコは握りしめた左拳を男の顎目掛けて繰り出した。
小柄な彼女の全身のバネを用いた左フック。
鈍い音と共に、その一撃を頬に食らった男の長身痩躯がよろりと揺らめく。
あの状況で間合いを逆に詰め、しかも咄嗟の判断で徒手空拳での応戦。
なんつー喧嘩慣れした王女様だ。いやここは流石は英雄と褒めるべきか――クマ少年は呆れたように猫口を浮かべる。
「アンタがまさか生きてたなんてね……いや、そんなわけない。確かに私達が倒したはずだもの。ていうことはあれ? 噂の
怯んだ男を深追いせず、その隙に後方へ低く跳躍して再び間合いをとると、エリコは言葉を投げかける。
どういうことだろう、彼女はこの男を知っている?――
明らかに初対面ではないその内容。お騒がせ王女の投げかけた言葉を聞き、日笠さんは違和感を覚えながら彼女を見ていた。
対して、問いを投げかけられた銀髪のその男は、口の端から流れ出た赤い血を指で拭い、唾を吐いたのみだ。
彼女の問いには答えず、やはり無感情な
「だんまりってワケ? ならいいわ、そのからくりを喋りたくなるまでやってやろうじゃない」
強気な笑みを浮かべ、繰り寄せた鞭をパシンと両手で撓らせるとエリコは指で手招きする。
そうだ、やってやる。私だってあの時とは違う。強くなったはずだ――と、内心、自分に言い聞かせるように繰り返しながら。
「ふっ!」
先手必勝。間合いは
だが、先刻と同様に男の金色の瞳はその鞭の一撃を捉えていた。
見越していたように首を軽く動かし、男はやはり最小限の動作で鞭を避ける。
そして豹の如くしなやかな動きで俊敏にエリコへと迫った。
地すれすれを這うように駆け抜け、男は直進する。
残念、その行動は予想済みだ――エリコは軽く手首を返して鞭を操る。
途端伸びきっていた鞭の先端が大蛇のように撓り、クルリと行き先を返して男の背後から襲いかかった。
男は背後から迫るその気配に気づき、素早く跳躍して鞭を躱す。そして、剣を逆手に持ち換え、串刺しにしようと真上からエリコに襲い掛かった。
ぞくりと、背中に悪寒が走る。
戻って来た鞭を手繰り寄せ、空中の男を叩き落そうと鞭を振りかぶったエリコは、しかし直感的に動きを止めて後ろに跳躍していた。
男の体重を乗せて突き落とされた氷の刃は、しかし王女の身体を貫くことなくまたもや石畳に侵入する。
刹那、紙一重でその刺突を躱したエリコの身を強烈な冷気が襲った。
石畳を難なく貫いたその氷の剣は、またしても巨大な氷柱を周囲に生み出し、降り続ける豪雨を一瞬にして凍り付かせる。
祈る様にして二人の戦いを見守っていた日笠さんは、吹きつけてきた冷気から身を護るようにして顔を覆った。
着地したエリコは、しかし冷気を帯びた自分の足元に気づき、ちらりと見下ろした後舌打ちをした。
完全には躱せなかったようだ――凍り付いた旅用のドレスの裾を仕方なく破き捨てると、お気に入りの服を汚された怒りから眉を吊り上げ、彼女は男を睨みつける。
やはり強い。一筋縄ではいかなそうだ。
鞭と剣、リーチの長さならこちらが有利だが、こうも簡単に間合いを詰められるようでは得意な間合いを維持しつつ戦うのは難しい。
懐に潜られれば鞭の方が明らかに不利。先程のような
考えれば考える程疑念は大きくなる。
そして疑念は弱気を生む。はたして勝てるだろうか――と。
あの時五人でやっと倒せたこいつをたった一人で――と。
否。それでもやらなくてはならないのだ。
無理でも勝たなくてはならない。約束した、この子達を守ると――
獣の金に対するは禍々しき真紅。
一際鮮やかに、その瞳が紅色に輝き始める。
攻めあるのみだ。立ちこめる冷気を振り払うように鞭を一振りすると、エリコ姫は勇壮にヒールを踏み出した。
訂正しよう。
彼女は踏み『出そうとした』。
しかし、それは無理だった。
踏み出したヒールで石畳をさらに蹴り上げ、跳躍しようとした彼女の足はそこから前にも後ろにも、そして右にも左にも、それ以上動かすことは無理だったのだ。
しくじった――
右足に激痛と共に広がった尖った冷気の感覚に、エリコが顔を歪めた時はもう遅かった。
それは石畳の中をじわじわと広がっていた、冷気の罠――
未だ橋の中央に突き刺さったままとなっていた氷の剣は、気づかれぬよう身を伏せて獲物を狙う豹の如く、冷気を石畳の中からエリコへと仕向けていたのだった。
「やってくれるじゃない!」
ヒールごと凍らされた右足を見下ろしながら、お騒がせ王女はしかし精一杯の強がりを口にする。
羽根は潰したぞ紅き雌鷹――得意の瞬発力を殺されたエリコを金色の獣の瞳が捉えた。
石畳から剣を抜き取り男はそれを水平に構えると、狙いすました牙を放とうとする猛獣のように身を屈める。
もはや回避は不可能。しかし剣を鞭で受け止めるのは難しい。
悔しそうに細い眉を歪めながら、エリコ姫は今にも飛び掛からんとする男へ目を向けた。
と――
「不意打ちクラーーーッシュ!」
小馬鹿にしたようなケタケタ笑いが聞こえたかと思うと、間合いを詰めようとした男の眼前に棒の先端が割り込む。
途端に男は跳躍を中止し、眉間に迫ってきていたその棒を剣を翳して受け止めた。
棒の先を包む鉄板と刃の交じりあう甲高い剣戟の音色が一つ鳴り響いた。
「カノー!?」
アンタ何やってんのよ!――
無謀にも割って入って来たツンツン髪の少年に向けてエリコは叫ぶ。
だが投げ掛けられたその声に対して返事を返す余裕は少年にはなかった。
不意打ち失敗。ならば、手を休めればそこで終わる。本能のままに生きる少年はその事を身体でわかっていた。
着地と同時に間髪入れずに棒を横薙ぎに振るい、かのーは男の反撃を牽制する。
またもや響く金属の音色。
と、反対側の柄を素早く引き戻し、渾身の力を籠めてかのーは再び突きを放つ。
難なく男は受け止めてその突きを右へと捌いた。
刹那、ニヤリと逆三角形の口を歪ませて、少年はハードル飛びの要領で棒を飛び越え、男のこめかみ目掛けて浴びせ蹴り続けざまに繰り出した。
パーカスでカナコから食らった変則的な足技だ。ちゃっかり会得していたとは、抜け目ない。
意外な連撃に男は僅かに眉を顰める。
だが技量に差があり過ぎた。英雄も苦戦する謎の強敵。所詮は付け焼刃の俄か棒術で応戦できる相手ではないのだ。
かのーが放った乾坤一擲の浴びせ蹴りを半身を捻って躱し、男は右手に握っていた剣を振り上げる。
空中で大きくバランスを崩したかのーに避ける術はない。
絶好の的と化したツンツン髪の少年を仕留めようと氷の獣は牙を剥く。
だがしかし。
諦めの悪い少年達の『嫌がらせ』は終わらない。
「んっふっふ。いやー、ナイスだったぜかのー♪」
刹那、男の胴を背後からぐわし――と何者かが掴み込む。
はっとして背後を振り返った男の目に見えたのは、にんまりと笑うクマ少年の姿であった。
「ドゥッフ、奇襲完全にシッパイディース! 早くシテークマァー!」
「あいあーい」
滑稽で陳腐な反撃だと思い油断した。
不覚を悟った男は即座にこーへいに向けて剣を振り上げるがもう遅い。
「あーらよっとぉっ!」
何とも呑気な掛け声と共に、こーへいは上半身のバネを最大限に活用して身を捻り男を投げた。
クマ少年が繰り出した裏投げの変形ともいうべきその投げによって、長身痩躯の男の身体は宙へと放り出される。
こんなガキどもに――
『屈辱』という感情を初めて表情に浮かべ、空中で猫のように体勢を整えた男の視界に映ったのは、ほぼ同時にもんどりうって石畳に倒れた二人の少年の、してやったり――という得意満面の笑みだった。
「ムフ、ザマァァァァー!」
「今だぜ日笠さーん!」
うちらの攻撃はまだ終わっていない――
バカ少年とクマ少年は叫ぶ。
「其は自由を求める英雄なり……そは戦いの女神なり――」
刹那、橋の中央で集まりつつある膨大な魔力と共に、聞こえ始めた声に男は獣の瞳を見開いた。
はたして、雷雨の下目を閉じ、魔力の籠った樫の杖を水平に構え詠唱を続ける少女の姿を発見し、男は手に持つ氷の剣に力を籠める。
「我等が手に集えその力よ、裁きの大砲となりて敵を射抜け――」
煌々と熱と光を放つ『光の砲弾』が空に現れ、降り頻る雨を一瞬にして蒸発させていく。
照準を男に定めなおも膨張しながら陽炎を放つその弾は、少女の号令を今か今かと待つように身を震わせていた。
本日二度目の『1812年』。
精神的に厳しいがなりふり構ってはいられない。
カッと目を見開き、日笠さんは杖を男へと翳す。
「我らに勝利を! 響け自由の鐘よっ!」
轟音と共に光の砲弾は放たれた。
空中で無防備となった男に避ける術はなく、少女が放った渾身の魔曲は男に直撃――
するはずだった。
ザクリ――と。
少女の号令と共に、男の手を離れて石橋へと投げ付けられた氷の剣は、彗星のように石畳に衝突すると見事にそれを突き貫いた。
同時に剣を中心に冷気がガスの如く噴き出したかと思うと、途端巨大な氷壁が石畳を割いて天高く聳え立つ。
刹那。
勢いよく放たれた光の砲弾とそれを防がんと聳え立つ氷の絶壁は激突した。
腹を突くような衝撃波と、その後を追うようにして轟音が響き渡り、そして発生した水蒸気が霧のように周囲を覆っていく。
「くっ!」
吹きつけてきた水蒸気に、エリコは堪らずバランスを崩しその場に尻もちをついた。
と、その手を誰かが握る。
敵か味方か?――訝し気に目を凝らす彼女の手を引っ張って起こすと、その手の主はにんまりと笑った。
やがて。
僅か数十秒という短い間ではあったが、お互いの視界を遮っていた蒸気が霧散していく。
粉々に砕かれた氷壁の根元に跪くように着地していた男は、ゆっくりと立ち上がった。そして、鮮明になってきた視界を一瞥し獲物の姿を探す。
しかし、そこに標的の姿を見つける事はなかった。
見えたのは、戦闘によりボロボロとなった石橋の成れの果て。
そして聞こえるのは、つい先刻同様に鳴り響く豪雨と雷鳴の音色――
姿を消した獲物の残り香を追うようにして、男は手摺から橋下を流れる内堀を覗き込むと、金色に光る獣の瞳を細める。
そして先の割れた長い舌で、血の滲む口の端をぺろりと一舐めした後、彼は静かにその場を去っていった。
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