その2-2 『あの日』の私
見覚えのある景色だった。
日はとうに暮れた、夜の闇の中に広がるその景色を私は一望する。
左角に見えるすっかり錆びて古ぼけたカーブミラーも。
右に見える夜だとちょっと不気味な雰囲気の神社も。
正面に見える寂れた工場の跡地も。
そして手に持つ折り畳み傘を心細くノックするように降り続ける雨の音も――
全て『あの日』のままだった。
そう。元いた音瀬町の、通い慣れた寮から高校までの
けれど色がない。一面の灰色。
わかっている。これは夢だと。
『あの日』から私の夢は全ての色を失ったから。
だから記憶は私に訴えている。
早く逃げろ――と。
そこの神社の角を曲がれば、何が起こるかを知っているだろう?――と。
もちろん知っている。何が起こるかなんて。
だがそれでも。
私の足は勝手に前へと進んでいく。引き返そうと必死に拒み続ける私の意思に反して。
練習のせいですっかり遅くなってしまった。早く帰ってごはん作らなきゃ――などと考えながら通い慣れた帰路を歩む、『まるで何が起こるかなんて知りもしない』あの日の私のようにだ。
そして案の定。
神社の角を右へと曲がり、私の足ははたりと止まる。
人気のないその道の、街灯の下佇む人影に気づいて。
下校時刻はとうに過ぎた、十一月末の冷たい雨夜の中。
そいつは傘もささずに目深に被ったアーミーコートに身を包み、『あの日』通りにそこで私を待っていた。
ファー付きのフードが僅かに上がり、中から光のない真っ黒で大きな目が現れる。
その視線が私の身体を舐める様に下から上に眺めているのがわかって、途端に背中に悪寒が走った。
肩にかけたチェロケースのストラップをぎゅっと握りしめ、異様さを感じた私の足はそこでようやく一歩後退る。
けれど私のその挙動に気づいたそいつの表情が、見る見るうちに屈辱と怒りに歪んで行くのが分かり、それ以上私の足が動くことはなかった。
「なんで逃げるの?」
そいつの声が聞こえた。
刹那、そいつは街灯の下から足を踏み出し、足早に私に近づいてきた。
ひっ――と、私の口が短い悲鳴をあげる。
遅い! 本当に情けない! 間に合うわけないでしょ!――やっとのことで足に力を入れて逃げようとした私に、『私』は叫ぶ。
はたして、右手首に衝撃が走り私の身体はガクンと動きを止めた。
持っていた折り畳み傘がアスファルトに落ちる。
途端冷たい雨の感触が頬から、耳から、瞼から伝わって来た。
だめだ、逃げなきゃ――
痛い程に握りしめられた右手首を振りほどこうと、必死に抵抗する私の身体を乱暴に引き寄せて、そいつは興奮しきった荒い呼吸と共にこう言った。
「こんなにも君を愛しているのに、何故君はいつも逃げるんだ」
と――。
なんて透き通るように綺麗な声だろう。私はこんな状況なのに思ってしまった。
けれど、なんて『悍ましく』て『独りよがり』な声だろう――そうとも思った。
フードの隙間から見えた病的なまでに青い唇が放ったその声色は、今改めて聞くと確かに私に対する想いが感じられた。
それはまるで、母親に望んだ期待通りの愛情が帰ってこないことに、駄々を捏ねる子供のような――
やはり何度聞いても決して受け入れることができそうにない、自分勝手で、妄信的で、一方的な狂った愛情だった。
「やめて! 放して! 人を呼ぶわよ?」
右手を引き返しながら、私はそいつを睨みつける。
だがそいつは、訳が分からないといった表情で泣きそうになりながら首を傾げた。
「初めて君を見た時から、君しかいないと思った。君のその長い髪も、白い肌も、綺麗な目も全て僕のものにしたいと思った。だから勇気を出して告白したのに」
「やめてよ気持ち悪い! 私は断ったでしょ? あなたと付き合う気はないって――」
「君は嬉しそうに笑ってOKしてくれたのに……なのに何故……君は逃げるんだ」
「……え?」
「僕たちは恋人同士なのに」
「ちょっと待ってよ……あなた何を言って――」
戸惑うように呟いた私の顔を、訴えるようにして光ない闇のような瞳が覗き込む。
たちまちのうちに、恐怖が爪先から髪の毛の先まで昇り詰めて来るのが感じられた。
やはりだめだ。わかっているのに。夢だからこいつが何を言うかもわかっていたはずなのに。
私の言葉が聞こえていない……いや、聞こうとしない相手がこんなにも怖いなんて。
そして、この後の言葉もわかっている。
でももう大丈夫――
「でももう大丈夫」
これからはずっと一緒だから――
「これからはずっと一緒だから」
そう言ってそいつは、ポケットの中からサバイバルナイフを取り出してニコリと私に笑いかけるのだ。
二の句が継げず立ち尽くす私を、狂った愛情を灯した瞳で見下しながら。
だけど落ち着いて私。諦めてはいけない。
もしこれがあの日の出来事なら、きっと助けが来る。
あの日同じく居残って練習していた、音高最強の風紀委員長と我儘少年が偶然通りがかって――
そしてこの危機的状況はギリギリであったが、何とか未遂で幕を閉じることになるのだ。
あと少しの辛抱だ。
凍えるような十一月の雨により、すっかり冷え切った髪も肌も身体もあと少しで開放されるはずだ。
そう。あと少し――
「残念だけど助けは来ないよ」
ぞくりと背筋が冷たくなった。
『あの日』と異なって聴こえてきたその声は。私の思考を見透かすようにして放たれたその透き通った声は。
私の思考を問答無用で停止させたのだ。
ゆっくりと顔をあげた私の目に見えたのは、余裕すら感じられるぞっとするほど嗜虐に満ちた表情を浮かべたそいつの笑い顔だった。
「僕と君の愛を邪魔をする奴等は何人たりとも許さないから」
そう言ってそいつは向き直る。そいつがついさっきまで立っていた場所を。
そいつの視線を追って私が見つめた街灯の下には――
いつの間にかよく知る少年と少女が雨に打たれ、横たわっていた。
全身をめった刺しにされ、
私を見つめるようにして見開かれた親友の少女のその瞳は、既に光を失っていた。
その横にうつ伏せに横たわる我儘で意地っ張りな少年も動かない。
「恵美……カッシー……?」
灰色の世界を鮮やかに染める色が見えた。
嫌だ、どうして? 久々に見ることのできた夢の中の色がこんな色だなんて――
二人を中心にじわりじわりとアスファルトを染めていく『紅い』雨に気づき、私は絶句していた。
胸が苦しい。呼吸がうまくできない。
嘘、嘘よどうして? 『あの日』と違う! こんなのおかしい!
恐怖から自然と歯がカチカチと鳴りだす音が身体の中に響いてくる。
情けない程何も考えられない。
怖い。助けて。誰か助けて――
けれど、そんな私の想いに応えるように返って来たのは、優しい言葉でもなく。
そして、新たな救いの手でもなく。
ずぶり――と鈍い音を立てて、私の鳩尾に侵入する鋭い何かの衝撃だった。
「え……?」
何だろうと見下ろした私の胸元に見えたのは、ダッフルコートの上から深々と突き刺さった、ついさっきまでそいつが持っていた
気管を逆流してくる熱い物が、一瞬にして口の中を鉄の味でいっぱいにする。
堪らず吐き出したそれは、やはり先刻見えた灰色の中に唯一存在する艶やかな色――即ち『紅』。
ようやく痛みが追って来た。涙が出てくる。
痛い、痛い、苦しい、嫌だ死にたくない――
縋るようにして私が見上げたそいつの顔は、そんな私をうっとりと満足気に眺めながら自らの余韻に浸っているようだった。
「逃げるような『中身』は要らない。美しい『器』だけずっと
これからはずっと一緒だよ――
金属のように耳障りな笑い声が雨夜に響き渡る中、私の意識はそこで途絶えた。
「いやっ!」
バネ仕掛けの玩具のように跳ね起きて、なっちゃんはヒューヒューと荒い呼吸を繰り返す。
そして慌てて周囲を見回して、ぼんやりと見えたその光景を確認するようにまじまじと眺めた後、ようやく深い溜息を吐いた。
灰色の世界は終わっていた。再び舞い戻った色のあるその光景が酷く久々に思えた。
視界に広がったその光景は、通いなれた元の世界の通学路でもなく、ましてや音高の寮の自室でもなく。
昨夜ベッドに潜り込んだ、寂れた村の宿屋の寝室だった。
傍らを見ると、日笠さんも、東山さんも、エリコもまだ眠っているようだ。三人の寝息が聞こえてくる。
やはりまだ異世界。それが残念でもあったが、しかし心底安心できた。
よかった、やっぱり夢だった――と。
全身汗でびっしょりだった。心臓もまだドキドキ鳴りっぱなしだ。
落ち着かせるようにして寝間着の上からぎゅっと胸を掴み、少女は体育座りになりながら顔を埋める。
目を閉じて深呼吸を繰り返す。落ち着け、落ち着け私――と。
そこで少女は気づいた。さっきまでと変わらない音が外から聞こえて来ていることに。
水の音。水がノックする音。
この世界に来てから久しく聞いていなかった、しかしついさっき聞いたばかりのあの音だ。
「……雨?」
そう呟きながら微笑みの少女は顔をあげて傍らの窓を見上げる。
薄ぼんやりした夜明けの白みを採光していたその窓の外に見えたのは、悪夢の続きのように音を立てて降る雨景色だった。
本で読んだ限りでは今は乾季だったはず。珍しい――そう思いつつこの世界で初めて遭遇した自然の恵みをよく見ようと、なっちゃんはベッドから身を起こそうとした。
だがしかし――
そんな微笑みの少女の右手首を誰かが掴む。
途端、背筋を冷たいものが伝っていった。
ありえない。そんなはずはない――だって三人は寝ていたはずなのだ。
では私のこの手を掴む……それも忘れたいほど覚えのある程力強く掴む――
この『氷』のような手の主は誰だというのだ。
嫌な汗が再び吹き出す。収まりかけていた心臓も高鳴りだした。
左に位置する窓辺を見つめていたなっちゃんは、やがて意を決したように自分の右手を向き直る。
刹那。少女は息を呑んだ。
ベッドの傍らに祈る様に屈みこみ、そして彼女の右手を握りしめながらこちらを見つめるアーミーコートの『そいつ』の姿を発見して。
目がなかった。
代わりに見えたのは全ての光を吸い込むほどにどす黒い闇だった。
いや、目だけではない。口も鼻も耳も、穴という穴全てが暗い闇で覆われていた。
なっちゃんにはわかった。わかってしまった。
『そいつ』が心底嬉しそうに『狂った愛情』を口とおぼしき闇の穴に湛えたことにだ。
「ヤット見ツケタ……ドウシテ逃ゲルノ?」
虫の羽音のように甲高い、もはや人間の声ではないほどの不快な
目を見開き、石のように固まる少女に対し『そいつ』は闇を揺るがせた。
♪♪♪♪
「―――っ!」
詰まった悲鳴と共に微笑みの少女はパチリと目を開ける。
見えたのは昨夜と変わらないホルン村の宿屋の天井だった。
途端、嗚咽交じりの呼吸を何度も繰り返しながら、彼女は涙でいっぱいになった目じりを隠すようにして右腕で擦り拭く。
そしてそのまま目の前に手を持ってくるとまじまじと眺めた。
最悪だ、夢のまた夢なんて。しかもあれ程望んでいた『色付き』――
何の変哲もない、いつもの自分の右手。しかし手首に冷たさと痺れが生々しく残っているような錯覚を感じ、なっちゃんは深い溜息を吐く。
「なっちゃん……」
やにわに自分を呼ぶ声が聞こえ少女は顔を向ける。
「恵美……」
「大丈夫? うなされてたけど」
「無事でよかった」
ベッドの中からこちらを心配そうに窺う親友の顔が見えて、なっちゃんは安堵と共に思わずもう一度溜息を吐いた。
無事で?――と、訳が分からず東山さんは起きて早々眉間にシワを寄せていたが。
「平気? どこか具合悪いの?」
「ううん。大丈夫……ごめん」
ベッドから身を起こし、ゆっくりと首を振るとなっちゃんはいつも通りの微笑を浮かべる。
そして彼女は確認するように窓辺に歩み寄り、外の景色を眺めた。
外は相変わらずの晴天だ。
雲一つない青空の下、小鳥の囀りが聞こえてくる。
先刻まで耳朶を打ち続けていた、あの雨の音色はもう聞こえてこない。
心の整理は付けたはずだったのに、どうして今頃――
胸元に翳した右手をまじまじと眺めた後、少女は気持ちを切り替えるように、静かに目を閉じた。
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