感動的なドラマ

 毎日のように喫茶店に通い詰めていると、さまざまなことに遭遇する。もちろんカップルの中身のない愛の確かめ合いや、痴話喧嘩もなんかはよく見る光景で、起こっていても特に内容に大差はない。また同様に、凝った化粧で顔を作り露出の激しい服を着た女が集まった会話も、どうせ中身はないし喫茶店においては騒音でしかない。あぁ、言っておくが、僕は俗にいう非リアだ。彼女などはできたことがないし、バレンタインイベントに登場することのない人間だ。しかし、僕は悔やむことなどない。むしろ、色恋沙汰に明け暮れている人間よりも、人生を謳歌しているのだ。あのいかにも遊んでいそうな女たちよりも......と、つい大きく話が逸れた。

 話を戻すが、本当にさまざまな場面に遭遇するのだ。ついさっき、僕がいつも通り珈琲を飲みながら資料作りに没頭していたら、隣に三十代半ばらしいOLの方が座った。それ自身は別に珍しいことではない。昼頃になれば珈琲が入っているであろう小さなお持ち帰り用の紙カップを買っていくOLの方々は日に何人もいるし、三時ごろにケーキをつつきながら悪口を共有しあっている方も、よく見かける。いや、少し良くない例になってしまったが、総じて僕が言いたいことというのは、OLの方自体はよく見る、ということだ。その先の出来事に、僕は驚いたのである。


 彼女はスマホを取り出しイヤフォンを付け、なにかを観始めた。そのあたりは僕もよく確認していなかったから、詳しくは分からない。なにせ、先ほどしつこいくらいに主張したが、OLの方自体は見慣れているのだ。特段、気に留めることもない。

 僕が彼女を次に見たのは、小さな嗚咽が聞こえたからである。彼女のスマホを多少覗くと、なにかのドラマを観ているらしかった。見えた映像から察するに、恋愛系のものらしかった。


 驚いた。駄目だなぁ、とも思った。僕は、感動的なシーンで泣いている人が分からない。


 私は、健太くんの真っ直ぐで、一途で、何事にも一生懸命なところが好きだったのに......


 はっきり言おう。


 ヒロインの身勝手さが目に余る。


 性格等々変わってしまったことに対することへの文句は、どう感動的シーンにつながるのか。


 大体こういうときは、「今の健太くんは健太くんじゃないっ」とかそんな妄言を残して飛び出していく。


 なんと、傲慢ではないか。


 自分の好きな彼とは?


 それだけが彼なのか?


 正解は分からないけれど、間違っている気がしてならない。


 愛というものはそんなに軽いものなのか?


 その程度で愛情は途絶えるのだろうか?


 ふと考え込んでしまう。


 何をもって、感動的なドラマを観ている人たちは感動しているのだろうか。

 あのOLはそのドラマを観終えると、そそくさと席を立ち、飲みかけの珈琲を持って去っていった。あのOLに訊けたのなら、訊いてみたかった。あなたは、なにに泣いたのですか、と。彼女は人前にもかかわらず、もしくはそれを忘れるほどにそのドラマを観て感動して泣いていた。


 僕には、分からない。しかし、それに感動する人は一定数いるのだ。感動できる人を羨ましいと思う感情はないが、僕もあんな風に身勝手に生きても追われ、人から感動されるような人でありたかった。


 喫茶店の天井を見上げてみる。作り物のシャンデリアは空調の風でわずかに揺れていた。


 そうだ。その風を見ながら僕は考えた。


 感動できるようになりたい。


 そして、思う。


 これだけ、この喫茶店に通い詰め、貢献しているのだ。願いを叶えてくれる龍の一つや二つ、僕の前にあらわれてくれたって、いいんじゃないだろうか。

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