第3話 ウワサ

      ③


 窓際の列、後ろから二番目。それが市川左近の席だった。

 興味のない授業には身が入らないのか、教師が板書する音をバックによく校庭を眺めていた。空気の入れ替えのために開け放たれた窓。薄黄色のカーテンがふわりと舞った。

 どうやら隣のクラスが体育らしい。校庭の半面を使って高跳びの真っ最中だ。

 いくつかに別れたグループの中に和泉もいた。短パン姿にポニーテールがとても新鮮で、左近の目はおのずと釘付けになる。

 なにも考えずにただぼぉっと。ずっとその姿を眺めていたかった。

「じゃあ次の英文の訳を……」

 板書の手が止まる。教師が出席簿とにらめっこをしていると、左近の机の下から電子音が聞こえてきた。

「『ソノ トキ カノジョ ハ ソコ ニ イマセンデシタ デスガ スグニ モドリマシタ』 ナンダ ソノ レイブン ハ ミステリ デモ ハジマル ノカ」

 クスクスと。

 周りから笑い声がもれる。普段はクラスでも浮いた存在で、別段相手にもされない左近だが、これには注目を浴びる。教師も苦い顔。

「市川ぁ! おもちゃを教室に持ち込むなぁッ! 特許を狙うのも大事かもしれんが、学生の本分は勉強だろう。大人しくさせるか、電源切っとけ」

「……ハッピー、うるさいって」

「ビビッ」

「まったく……」

 どのクラスにも扱いに困る生徒というものはいる。分かりやすいヤンチャの方がまだ感情移入もできるというものだ。

 教師は気を取り直して例文の解説を始めた。

「せんせー、いちかわ君がいやらしい目で女子の体育座りを眺めてまーす」

 後ろの席から小声でからかわれる。京平だ。

「……やめろよ。そういうのじゃない」

「じゃあ、どういうのだよ?」

「それは……」

 見ていたいのはひとりだけ。そんなこと言えるわけがない。

「で、実際のトコどうなんよ?」

「え?」

「此ノ花だよ。ちょくちょく顔合わせてんだろ。ふたりっきりで」

「な――」

 なんでそんなことを京平が知っているのか。左近は驚きを隠せなかった。その反応が逆に情報の信憑性を高めてしまうことになろうとも、いまの彼には止められない。まるで犯罪の証拠でも握られたかのように緊張が走る。全身から嫌な汗が噴出した。

「由宇から聞いたんだよ。ホレ」

 といって京平は廊下側の席に座る女生徒に手を振った。それを見た女生徒――冴島由宇は笑顔と共にアカンベーをする。恋を知ってしまった左近にはそれがとても羨ましくて仕方がなかった。

「女の子同士というのは……なんというか……そういうことでも平気でしゃべってしまうんだな……」

「まあそれが女どものコミュニケーションなんだろ? これからお前も気をつけろよ~。下手打つと恐いぜぇ。なんせ繋がりのある女どもから一斉に敵視されるかんな」

「それは……君に落ち度があるんじゃないのか」

「それを言ったらお終いだろうがッ」

「オマエラ ジュギョウ モ キカント オンナ ノ ハナシ バカリ デ イイノカ レレレレレッ」

 ハッピーのセリフにクラス全員が彼らを見る。

 特に教師の顔は鬼の形相になっていた。


 授業の合間の休み時間。

 左近の席には珍しく人だかりができていた。それも大半は女子。慣れない現象に左近は正直、面食らっていた。

 彼女達の目当ては当然ハッピーである。授業中でのハプニングは勿論のこと、その容姿のかわいらしさに皆ノックアウトされたのだ。きょろきょろとするカメラアイ。そしてロボットらしからぬ歯に衣着せない発言が妙に受けていた。

「ねえねえコレってコミュットだよねー。いや~んマジかわいい~。持って帰りた~い」

「ダメダメ~、ちょっと私にも抱かせてよ~。……ウワッ、結構オモッ!」

「…………赤ん坊の体重くらいはあるから……その……気を……つけてね」

 普段、見向きもされなかったクラスメートからの質問攻めにはとても違和感があった。

 ハッピーという仲介があるだけで人はこんなにも雄弁になるものなのかと、他人との付き合い方を知らない左近は素直に驚くばかりだった。

 だがやはり慣れない。後ろの席に京平と由宇が居ることがこれほど心強いと思ったことはなかった。

 ハッピーが一通り女生徒に抱かれ、再び左近の元へ戻ってくる頃。ひとりの女生徒が口を開く。なんてことなく、ただの噂話をするみたいに。

「でも私さぁ。このコミュット見るの初めてじゃないよー」

 左近はその女生徒の方を向き、記憶を手繰る。いや面識はない。クラスメートでありながら面識がないというのも変な言い回しだが。

「ホラ、こないだ此ノ花さんと一緒に歩いてたじゃん。その時見た」

「あ――」

 それは先日、左近の側から申し出て一緒に下校した時のことだろうとすぐに思い立った。

 見られてしまった。なにやらもの凄い罪悪感が圧し掛かる。彼女に迷惑をかけてしまったのではないかと。自分なんかと、一緒に歩いているところなんかを他人に見つかってしまっただなんて。

 そのたった一言がさっきまでの華やいだ雰囲気を急に俗っぽいものに変えてしまった。

 当然のように冷やかされる左近。居心地が悪い。

「でもさ~」

 また違う女生徒がいう。

「あのコも意外とやるよねぇ~」

 なんの話だ?

 左近の胸が妙にざわついた。


 ――まだみなと先輩と別れたばっかでしょ?


 誰だ……それ……


「ウブな振りしてさぁ。結局あーゆーのが男に受けるんだよねー」

「ねえねえ、市川君もあーゆーのがいいの? ハッピーくれるんなら私もがんばろっかなぁ~」

 罪の意識は感じない。彼女達にしてみればホント、なんてことない会話だったのだろう。だがそのなんてことない一言は、左近の胸を深く抉った。

 遠くで耳鳴りがする。

 見かねた由宇が彼女達を諌めているが、左近にはもう何も聞こえてはいなかった。ひとり深い闇の中へと堕ちてゆく。

 光さえ這い上がることが叶わない重力の井戸は、人間の心の中にもあるのだろうか。


  ***


 勝手な落ち込み方だというのは自分でも分かっている。だがそれでも左近には、その事実は受け入れがたいものだった。

 左近にとって誰が誰と付き合い、愛し、結ばれ、別れようとも、正直どうでもいいことだった。無二の親友である京平と由宇との関係すらあまり興味はない。

 ましてやもう終わってしまった他人の恋など知ったことではないのだ。

 だがそれはちょっと前までの話。

 相手は此ノ花和泉なのだ。


 自分の知らない彼女の顔を知る男がいる――


 ただそれだけで死んでしまいそうなくらいに狂おしかった。そしてそんな考え方をしてしまう自分自身が、あまりにも惨めで醜くて仕方がなかった。


「――でね、由宇とふたりでお揃いの買ったんだよ~」

 彼女が同じ部屋に居る。いつものように左近の淹れたコーヒーを飲み、手には色違いのペアカップ。身体はこんなにも近くにあるのに、心の居場所があまりに遠い。

 彼女の笑顔が目に入るたび、胸がチクリと痛み出す。

 一緒に居ることが辛かった。

「左近君? なんか今日いつもと違うね。あ、もしかして邪魔だった?」

「……そんなこと……ないよ」

「そう? でもハッピー完成させるのに徹夜とかしてたんでしょ。疲れるのも無理ないよね。結局、なんにもお手伝いできなかったなぁ~」

 そんなことはない、左近は心の中で呟いた。あの日、君と出会ったからこそ早く完成させたかったんだ。もっと君と話がしたかったから。ハッピーという共通のもので、君と繋がっていたかったら。ペアカップにしてもそう。

 左近はずっと俯いたまま、そんなとり止めもないことを考えていた。

「やっぱりおかしいよ左近君。なんかあったの?」

 するとなにも言えない左近の代わりに、ハッピーが躍り出た。

「サコン イズミ ノ モトカレ ノ コト シッテ ショック ビビッ」

「ハッピー!」

 左近のどう喝に対してハッピーが初めて動きを止める。カメラアイに灯る赤いランプがフッと弱まっていった。部屋が静寂に包まれる。左近は和泉の顔をまともに見られない。ただ床の合わせ目をジッと睨みつけていた。

「あ……」

 和泉もまた、一瞬にして表情を曇らせた。なんと言ったらいいのか分からない、そんな表情。怒りや戸惑いといったものよりも、ただ気まずさだけがその場を支配していた。

「そっか……知られちゃったんだ」

 疑いは可能性でしかない。だがそれは、いまはっきりと肯定された。よりにもよって和泉本人の口から。嘘だと言って欲しかった。そんな淡い期待が、左近にはあった。

「でも、もう終わったことだから……ホントよ、もうお互い連絡も取ってないし」

 そうか。もう終わったことなんだ。

「ボクは……」

 だったら気にすることなんかないじゃないか。これからも昨日までと同じように、ふたりでここでコーヒーを飲んでから一緒に下校して。

「ボクは……」

 そうだ。君の好きなアーティストも覚えたよ。今度カラオケでも行ったら歌ってあげられるかもしれない。だから――

「ソイツの代わりなの?」

 いうな。

「次の相手が見つかるまでの繋ぎなの?」

 だまれ。

「ヒマだから……一緒にいてくれたんじゃないの」

「なにをいってるの」

 彼女の声が聞こえる。とても淋しそうだ。心なしか震えているようにも感じる。そうさせてしまったのは自分なのにと、いまさらながら左近は思う。もう遅い。

「……アイツと別れてまだすぐの時……由宇たちが言ってくれたのよ……とっても面白い奴がいるから紹介するって。ソイツならあんな男のことなんかすぐに忘れさせてくれるよって。だから……会ってもいいなって。アイツと終わってから男の子と話するのホントは恐かったけど、そういう人なら大丈夫かなって。だから……それなのに……」

 すべては京平たちの計らいだった。

 ささやかなサプライズで友人に笑顔を取り戻させると共に、しがないメカオタクの少年に夢を見させるために仕組んだ優しいお節介。

 左近は改めて京平との友情に感謝した。ありがとう。そしてゴメンと。

 もう自分では止められない感情が胸を焦がしている。怒り、情けなさ、寂寥感、プライド、彼女への想い。

 機械だけを相手にしている時は楽だった。こんなにも色んなことを考えなくてよかった。努力の末に手に入れたものは、一生なくならない知識だけ。

 なのに彼女と出会って知ってしまった。

 この世には失うことが恐くて手が出せないものもあるんだということ。

 もっとそばへ行きたいだけなのに、裏返ってしまった愛情ではお互いを傷つけることしかできない。だから左近は自分の呪うことしかできなかった。

「ソイツと――したの?」

 乾いた音が部屋中に鳴り響く。

 開けられたままドアからは廊下を遠ざかる足音がした。

 頬がジンジンする。鏡を見ればきっと、鮮やかな紅葉模様になっていることだろう。滲む視界のわけはぶたれた跡が痛いからだけだろうか。それとも……もっと痛い心のせいだろうか。

 床に転々と続く雫の跡。すぐに乾いてしまうのだろうか。彼女も僕も。

 左近は手にしたブルーのコーヒーカップを思い切り壁に投げつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る