第2話 おそろいのカップ
②
市川左近にとって校舎の廊下というのは下足場と教室、そして『発明倶楽部』の部室であるくたびれた化学準備室とを往復するためだけのものだった。
本を片手に黙々と歩く。周りで聞こえる生徒たちの、昨日見たネット動画の内容がどうだとか、流行りの芸人のネタがどうだという会話はただの雑音でしかなかったのだ。
望まざるとも鼓膜を振動させられる煩わしさ。
うんざりだった。
生温い人いきれの中に、彼女の声を見つけるまでは。
ハッとして左近が本から顔を上げると、教室をふたつほど挟んだ人ごみの向こうに、友人たちと談笑する此ノ花和泉の姿を見た。その笑顔は先日、自分へと向けられた笑顔と同質のものだった。そして彼女の居る輪の中には複数の男子生徒の姿も見える。
ああ、なんだ。
彼女にとってそんなことは別段、特異なことでもなんでもなかったのだ。
自分が感じたような特別な感情など、彼女には必要のないものだったのだ。他人と触れ合うことなど、彼女にしてみれば造作もないことなのだ。
そんなことを考えていると、左近の胸裡は突然の孤独感で満たされた。
大衆の中にあって、独り逆方向へと踏み出せる彼をしてかつて経験のない寂寥感。
これは一体なんだろう。
左近は自分の胸に聞いてみる。だが答えは出ない。いや、知ってはいるがいささか承認しがたい事実であった。そんな説明のつかないものなんて。
ふと彼女の顔が見たくなって、もう一度そちら向いた。するとどうだろう。彼女もこちらに気付いたのか左近に向かって手を振ってくれている。
しかも自分たち以外には分からないように、とても小さく。ひらひらと。
その後、彼女は友人に呼ばれ、すぐにその場を離れてしまう。だがその去り際、彼女の唇がこう動くのを左近は見た。
またね――
その笑顔は、他の誰と話している時よりも輝いて見えた。
***
ここ最近コーヒーの消費量がただごとではない。多い時で通常の四倍は早く減る。その原因は他でもない、左近に人間らしい交流を教導するという名目で『発明倶楽部』の部室に入り浸っている者達がいるからだ。
別段、それを疎ましいと思っているわけではない。ただ慣れていないので対応に困るだけ。さらにその傾向は、特にコーヒーの減りが「二倍」の時に顕著になる。
「こんにちは」
「あ……」
此ノ花和泉である。このところどんなに作業に没頭していても、彼女の声だけには反応できるようになった。
その声を聞くと、左近は自分でも不思議なくらいに胸が踊るのだ。
「えっと……今日は? その……なにか……」
ただ慣れない。彼女とふたりきりという状況には未だに現実感がなかった。
まるで夢の中にいるようで。
「ん? 別に。ただコーヒー飲ませてもらいにきただけよ。左近君特製のビーカー入りコーヒーをね」
左近君――聞き違いでなければ確かにそう言った。よほど間抜けな顔をしていたのだろう。それを見て彼女がまた笑う。
「だって市川君よりも左近君の方が言いやすいんだもん。イヤ?」
身長差約十五センチ。上目遣いに見つめてくる彼女の瞳に抗う術などありはしない。
――そんなことないよ。
軽く潤んだ大きな黒目。あれにはきっと魔力があるんだ。理系の左近をしてそこまで思わせる。照れ隠しに机上のサイフォンへと目を伏せた。
「よかった。私のことも和泉でいいから」
此ノ花和泉は……和泉はそういった。
「イズミー レレレッ」
「こんにちはハッピー。あ、もしかしてもう完成? かわいい~!」
ハッピーに先を越され、和泉を名前で呼ぶチャンスを逃した左近。がっくりとうな垂れながらも机上にあるバスケットボールのお化けをねめつけた。
球体のボディの底面に、同じく球体をした移動用の車輪が四つ付いていて、白と黒をメインにしたいわゆるパンダカラー。そしてボディの大半を占めるサイズで赤々と輝いているのがカメラアイ。まるで一つ目の妖怪のようにも見えるが、上下左右にと、レールの上を移動してキョロキョロと愛らしく動く。
それが市川左近の手による傑作コミュット、ハッピーの外見的特長だった。
「わあ~ッ。なんかおめめがピカピカしてるッ! マーブルチョコみたい。ヤバイ! かわいい!」
「オマエ ノ ホウガ カワイイ ヨ イズミ」
「まッ、お上手ね」
「レレレレッ」
そんな小粋な話術を一体どこで……?
左近は自らの発明品に向けて羨望の眼差しを、そして手元では真新しいペアカップに淹れたてのコーヒーを注いでいた。
「アレ? そのカップどうしたの?」
いつも通りのビーカー入りコーヒーを期待していたのだろうか。和泉はカップにすぐ気付いてくれた。だが左近はその質問に対して、ただ気恥ずかしそうにして顔を綻ばせるだけだった。
青とピンクのペアカップ。それは誰のためでもない。和泉のために用意したものだ。だがそんな照れ臭いことを、朴念仁を地でいく左近が口にできるわけもなく。
「ちょっとね」
それが精一杯だった。あとは和泉がカップを見て、自分のセンスのなさに幻滅でもしたらどうしようということだけを考えていた。
彼女の真っ白い指が薄紅色のカップを包む。白とピンク。そのコントラストが左近にはなによりも美しく見えた。春に舞う桜のように。月明かりに照らされる珊瑚のように。
下校途中――
ふと通りがかった雑貨店のショーウィンドウに、まるで寄り添うように陳列されていたカップふたつ。その時それが自分と彼女に見えただなんて。
そんなこと。左近に言えるはずもない。
「ふ~ん……ビーカー入りもいいけど」
だから、
「やっぱりかわいいカップで飲むと一味違うね」
だから無性に嬉しかった。
誰かのために買い物なんてしたことなかった。ましてやそれが喜ばれることなど、彼にとっては生まれて初めての経験だった。
自然と顔が緩む。ニヤニヤが止まらない。やはり変に思われないかだけが心配だった。
「ナニ ニヤツイテ イルンダ サコン ヘンダゾ」
「なッ! おまッ」
「レレレレレレレーッ」
ハッピーが机上を走り回る。それは左近から逃げるようでもあり、ただふざけて踊っているようにも見える。その動きはとても滑らかで俊敏で。自律型のロボットとしては、すでに芸術の域にまであった。
そして左近は気付いていた。ここ最近、ハッピーのAIがいままでにない成長を遂げていることに。ハッピーの成長型自己拡張機能は、左近だけとのコミュニケーションでは絶対にありえなかった性能を獲得している。
それを個性と呼んでしまうのは、いささかロマンチストが過ぎるだろうかと左近はこの頃思うようになっていた。
「あははは。ハッピーかっこいい! 『ロミオ』みたい!」
「……『ロミオ』って?」
「アレ? 知らない? ダンスユニットの?」
こと若者の流行にはとんと疎い左近が生真面目な顔を横に振ると、和泉はスカートのポケットからスマホを取り出した。彼女によく似合うピンク色のボディだ。左近はカップのチョイスがあながち間違いではなかったことに満足した。
和泉はスマホを取り出すと手馴れた様子でいくつかの操作を行い、続けてニットのポケットから小さく収納されたイヤホンを出した。それを手早くスマホに繋いだ彼女は、片一方を自分の耳にはめ、もう片方を左近の顔へと近づけた。
「はい」
「え?」
「『え?』じゃなくて、耳」
みーみ、と自分の耳を指差しながら微笑む和泉。左近はそれに抗う事なく従った。片耳にイヤホンを入れる。普段は彼女の耳にはまっているだろうこの物体。ただそれだけのことなのに、左近にはとても生々しく感じた。どこか背徳にも通じる焦り。
耳の奥がジンジンする。火照っていくのが恥かしいくらいに分かる。
否応なしにイヤホンに集中していると、次第に音楽が鳴り響いてくるのが分かった。軽快なリズムと電子的なサウンド。そして澄んだ声色をした男性ヴォーカルの歌声。
ふと和泉の方を見ると、首でリズムを刻みながら左近の反応を窺っている。「どう? いい曲でしょ?」口には出さないがきっとそう聞いているのだろう。
確かに悪くない。普段音楽をあまり聴かない左近にもそれぐらいは分かる。でもどう言っていいのかは分からなかったので。
とりあえず左近も彼女を真似て、首でリズムを刻むことにした。
放課後の化学準備室。このふたりがひとつのイヤホンを分け合って、同じ時間、同じ曲を共有し。そしてダンスを踊るようにして首でリズムを刻んでいたことなど誰も知らない。ふたりだけの秘密ができた瞬間だった。
「レレレレレレレッ」
ふたりと一体の秘密だ。
「さて……と」
楽しい時間は永遠ではない。別れはいつも突然やってくる。
「コーヒーも美味しかったし。ありがと。そろそろ帰るね」
そのセリフを聞くのがいつも嫌だった。まだ出会って間もないというのに。彼女と自分との間には、お互いの時間を束縛できるような繋がりなどありはしないのに。
なのに。切なくて仕方ないから。左近はガラにもないことを言ってしまう。昨日まではできなかったことが今日はできてしまう。それは日に日に増していく彼女への想いがそうさせるのか。
「……家まで送らせてくれないかな」
「え?」
それがどういう意味の反応だったのかまるで理解できなかった左近は焦った。とにかく変に思われないよう取り繕うために、右脳全開の理系思考を総動員して、つき慣れていない「いい訳」を考えはじめる。だが彼の才能は雄弁とは程遠いところで開花しているので、巧いウソなど瞬時に思いつくわけがない。
「あ、あの、その、えと、えーッと……」
切羽詰った挙句に口からこぼれ出したのは。
「ハ、ハッピーに内蔵したGPSの性能テストがしたいんだッ! だから、その……別に変な意味じゃなくって、その……」
情けない……左近はボサボサの髪をかき回しながらそう思った。
「ソレジャ ストーカー ト イッショ サコン ヘーンーターイーッ レレッ」
「ハ、ハッピー! なんてことを……」
終わった。なにもかもが。
好奇心、猫を殺すとは誰の言葉だったか。
嫌われた。そう確信した左近は、恐くて和泉の方を見ることができなかった。机上のペアカップが恨めしい。どうしてお前達だけ寄り添っていやがるんだと。
――恋は理詰めにはいかない。
重大な失態を犯して初めて自分の気持ちに気付いた。ああこれは恋だったんだと。いや、認めるのが恐かっただけだ。一目会ったその時から左近は和泉の虜になっていた。
そんなことは知っていた。
絶望に打ちひしがれる左近。だがその寂寥感漂う薄い背中に、優しい笑い声が降り注いだ。いつものクスクスと我慢した笑い声。そして堪えきれなくなって吹き出す盛大な笑い声が。
「和泉……さん?」
「ハァ、ハァ……あ~おかしい。もう、いつも考えすぎなのよ左近君は!」
「え、ええ?」
「いいわ。お願いする。その代わりしっかりガードしてよね? ナイトさん」
「ナイト…………あ、はい」
「もう~大丈夫かな、この人」
そういってまた笑う。
いま「この人」って呼んだ。コイツとか、名前じゃなくて「この人」と。なにかとても特別なものに感じてならなかった。そう思わずにはいられなかった。
だって市川左近にとって、此ノ花和泉は。
もう特別な人になってしまったのだから。
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