ハッピー
真野てん
第1話 器用で不器用な少年
遅れた春がやってきた。
とても儚くて触れるのが怖いくらいの。
そんな眩しい幸せを。
君とハッピーが連れてきた。
①
放課後の校舎というのはとても不思議な空間だ。
授業という本来の役割を終えてなお、そこに学生と教師という関係性があって、しかも授業中では考えられないような親密さを獲得してそこにあるケースも決して少なくない。
それは生徒間でもいえることだ。
運動部の上下関係、文科系クラブの横のつながり。このある種、独特な閉鎖性が昼間の自分を忘れさせ、且つ本当の自分を取り戻したような恍惚感さえあるのはどうしてだろう。
帰宅し家族と過ごす時間とも違う濃密な空間。
それが放課後の魔力。
コポコポコポ――
どこまでも透明な容器の中で太い燃芯がとぐろを巻いている。その上で燃え上がる淡い炎は、ゆらゆらと丸底フラスコの愛らしいお尻を撫でていた。
部屋中を満たす芳醇な香りは、ここしばらく愛飲しているお気に入りのブレンドだ。
フラスコふたつを組み合わせたサイフォンとお手製のフィルターからも分かるように、その道楽ぶりは筋金入りである。
が、しかし。
それを飲むのは人生に苦みばしった私立探偵でも、渋めの高校教諭でもない。
「サコン コーヒー ソロソロ」
少年のような少女のような。滑舌は妙にいいがそれでいてぎこちなく。単調な抑揚で短いセンテンスを繋ぎ合わせてしゃべる『それ』は見事な電子合成音声だった。
「うん……あともう少しだけ……」
と、机に置かれたなにやらごちゃごちゃとした物の塊に向かって左近は生返事をする。よほど作業に没頭しているのか、合成音声のいうことなど耳に入っていない様子である。
机の上にある物といえばサイフォンとアルコールランプがワンセット、ノートPCが一台、そしてなにやら壊れたおもちゃのような物体。それは真ん中から上下に割れたバスケットボールのようなもので、割れ目からは大量の電子部品が覗いていた。幾つかの電子基盤から出た配線は数本に束ねられ、その内の一本はPCのUSBポートへ、また一本は電流計測器へといった具合に繋がっている。
なにもDTM(デスクトップミュージック)を作成しているわけではないのだ。もとよりそんなセンスをこの少年は持ち合わせてはいない。
そう、この
だがしかし、部分的にはより高度な作業をしていることもまた事実である。
コポコポコポ――コポコポ――ぼこっ
「サコン コーヒー モウ ダーメーッ レレレレレッ」
お手製のサイフォン。下側のフラスコにはもうあまり湯は残っていなかった。
合成音声を奏でる壊れたバスケットボールのお化けは、まるで意志を持っているかのように笑う。それはあたかもいまの様子をすべて理解しているような受け答えである。だが後半の「レレレレ」の部分に、果たしていかなる意味が込められているのかだけは、創造主たる左近にもいまひとつ理解できないでいた。
「ああ……。い、いや、コーヒーはこのくらいがいいんだよ。苦味とコクというのは絶妙な立ち位置にあってこそお互いを引き立て合うのであって、どちらか一方にベットリと偏っていてはいけないものなんだ。そう、元来パートナーシップというものはすべからく対等に………………にが……」
「イマ ニガイ ト イッタ ナッ」
「う、うるさいッ。いまのは記憶から削除だ」
「ビッ ビビビッ ビビッ」
どうやら嫌だと言いたいらしい。
淹れすぎたコーヒーを口に含みながら左近のジト目は机上を這う。その視線はいまだ完成には程遠い、自身の研究成果へと向けられていた。
コミュットの愛称で知られている完全自律型コミュニケーションロボット。一時は社会現象を巻き起こすほどの大ブームになったものだが、いまではすっかり廃れてしまい、一部のマニア達が独自のカスタマイズを施して楽しむ類のホビーとなった。
左近もまたその熱心な愛好家のひとりであるわけだが、その腕前は高校二年生にしてすでにプロ級であり、民生品コミュットのAI(人工頭脳)に、より高度なフレンドシップを与えるとして業界では一目置かれている。ある企業などからは、その才能を早期に抱え込もうかという話まで上っていたほどだ。その甲斐あって、学校側でも彼には特別な計らいをしているところもある。
だが、それは一般にはあまり知られていない彼のもうひとつの顔だ。
大体の生徒からは変わり者、もしくは『発明倶楽部』のたったひとりの部員という認識しかされていないはずである。
この実習棟の片隅にある古びた化学準備室もまた、そういった経緯で彼にあてがわれた物のひとつだ。よしんばひとつでも彼の在学中に特許でも取れれば学校側としても鼻が高いと画策しているに違いなかった。
しかし彼にはそんな学校側の思惑も企業への利益供与も眼中にない。
「ふむ……もうひとつってところか」
自身の知的好奇心を満たすためだけに情熱を傾けているのである。そのせいで生身の人間とのコミュニケーションは、いささか苦手としているきらいもあるのだが。
「モウヒトツ ソレハ コーヒー ノ コトカ ソレトモ ボク ノ コトカッ」
「まったくプログラムもしてないのに、どこでそういうシニカルなトークを覚えてくるんだよ。さては京平の仕業だな? ハァ……対話形式による拡張機能というのも場合によっては考えものだね」
「モンク ナラ セイサクガイシャ 二 イッテクレ ボク ノ セキニン ジャナイ」
「ハッピーうるさい」
「ビッ」
きょろきょろと、カメラアイのレンズを動かしておどけて見せる。その仕草はまるで人間の子供がすねているようでもある。
すなわちこの個体がそれほどまでに成長しているという証拠だ。
「へぇ~……ハッピーっていうんだこのコミュット」
「うん」
自慢げな相づち。
「あ、でも見たことないデザインだね。昔、ウチにもあったけど確か犬型だったわ」
「ああ、アニマルシリーズだね。家庭用のコミュットを普及させようと玩具メーカーが一時期競い合ってたんだ。だけどコミュットって元々、老人福祉や介護の現場で活躍させようと開発されたものだから、僕もそれにならって汎用性を追及したんだよ。だからコイツのボディは既製品じゃなくて僕のオリジナルなんだ」
「ええええええッ! こういうのって個人で造れるものなの!? スゴイスゴイ! 尊敬しちゃう!」
「いやぁ~そんな尊敬だなんて照れ………………アレ?」
「ン?」
彼女はあまりにも自然にそこに居た。机の上に未完成のまま横たわるハッピーに正対し、キョトンと小首をかしげて。
左近との距離はお互いの熱が伝わるくらいに密接で、真隣で。抽出しすぎた不味いコーヒーの香りに中に、ふわっと一瞬だけ甘い香りが溶け込んだのを左近は捉えた。
それは彼の肩口にある柔らかな髪から立ち上っている。その香りを嗅いだ途端、いままで一度たりとも感じたことがないような不思議な気持ちで胸がいっぱいになった。
なんだこれは?
そして彼はこうも思う。
「わッ、ちょ、ちょっと待って! き、君ッ、だ、誰!? いつからそこにッ――」
慌てて距離を取る左近だったが、足を滑らせもんどりうって倒れる。
さらに運の悪いことに、転んだ弾みで床におでこを打ち付けてのた打ち回る。とにかく一度に色々なことが起こりすぎて声も出ない様子だった。
「だ、大丈夫ッ!? もう! なにやってるのよ~。えっとバンソーコー、バンソーコー……」
見かねた少女が左近に駆け寄る。彼女がしゃがんだ時、一瞬だがスカートの裾が左近のズボンと折り重なった。
たったそれだけのことなのに、妙にドキドキしている自分に左近は戸惑う。
しばらく呆気に取られていると、彼女の白い指は左近のおでこにペタンと絆創膏を貼り付けた。
「あ……」
心地よい圧力。暖かい指先。
「ここ――。すりむいてる」
と、自分のおでこを指差して彼女は言う。
「カワイイのしか持ってなくてゴメンね。照れ臭かったら下校する時にでも外して。ちなみにそれはキティちゃんのヤツ」
「ああ……えっと確か体重がりんご三個分で、自分も猫のくせにペットで猫を飼っているというあの伝説の生き物ね……」
左近はおでこを擦って咄嗟にそう答えた。我ながらバカバカしいことを言ったと思った。
だが、予想に反して目の前の少女はケラケラと笑っていた。最初にキョトンと。そしていまでは盛大に。笑いすぎで目から零れる雫を指ですくう。
そんな仕草がまたどうしようもなく素敵に思えた。
「あの……ありがとう……それから…………誰?」
本校指定の学生服を着ていることからも、この学校の生徒であることは間違いない。しかし、ただでさえ他者との接触が苦手な左近に、彼女のような知り合いなんているはずもなかった。ましてやこんな――
「アレ? 由宇と京平君からここで待っててって言われたんだけど、もしかしてなにも聞いてないの?」
「京平が?」
京平とは数少ない左近の理解者にして幼馴染である。そして由宇というのは京平の彼女だ。自他共に認めるバカップルだと豪語しているが、左近には正直どうでもよかった。
「その様子だとホントみたいね。もう~あの子たちは~」
腕を組んでご立腹のスタイル。他の誰かがやってしまえばわざとらしく感じたろうが、どういうわけだが彼女は許せた。そればかりかその一挙手一投足を目で追ってしまいたくなるような。
機械ばかりを相手にしてきたせいか、どうにもやりづらい。
それが左近の嘘偽りない心境だった。
「えと、市川君……だよね? はじめまして……でもないんだけど、
「コノハナ……さん?」
「そっか覚えてないんだ。ふーん。市川君、いつも本読んでたりしたからね~。そうそう、京平君が言ってた。『アイツは何かに集中しだすと回りが見えなくなるんだ』って。さっきも私が部屋に入ってきたのに全然気がつかなかったし。アレってホントだったんだ」
なるほど。
これで美女出現の謎は解明できた。突如、三次元空間にひずみが生まれたわけでも、大宇宙の因果律に綻びができたわけでもなく、ただ自分が気付かなかっただけ。
なぁ~んだとホッとした反面、一体いつから居たのだろうという不安にも似た思いが左近の頭をよぎる。
「あッ……あの、改めまして。市川……左近、です」
しどろもどろってこういうことを言うんだろうなと自分でも思う。
すると、
「ボク ハ ハッピー サコン ノ トモダチ タダ ヒトリ ノ ユイイツムニ ノ マブダチ サコン ハ ホカ 二 トモダチ イナイ」
「う、うるさいなッ。居るよ友達くらい。京平とか……」
他に名前が挙がらないのがくやしいが。
そんなやり取りを見て、また此ノ花和泉が笑う。よく笑う子だ。
ゆっくりとした不思議な時間が流れる。楽しいとも愉快ともつかない曖昧な感覚だ。ただこの場にふたりで居ることはなんら苦痛ではない。
彼女の方もそうであればいいなと。
左近がそんな詮無いことを考えていると、部屋の入り口からけたたましい音が聞こえてくる。勢いよく開けられるドア、そして明朗な笑い声。
「おいコラ左近ーッ! お前はまたコーヒーなんか淹れやがってなんだ! 今を生きる高二男子がそんなもん飲んでんじゃねーッ! コーラ出せ、コーラ!」
さらにその後ろから。
「あ、和泉いたいた。うぇーい」
「うぇーい」
キャアキャアとやかましく。
どうして顔合わすだけでそうも騒げるのかと不思議に思うが、どうやらそれが女子という生き物なのだろうと左近は結論付ける。
やってきたのは
「……君らはここをファミレスか、コンビ二の店先と勘違いしてはいまいか。コーラが飲みたければ自販機にでも行って来いよ。まったくいつも突然押しかけては我がまま千万。今日にしたって待ち合わせに使うのなら、前もって一声掛けてくれればいいじゃないか……びっくりした」
と、左近ははしゃぐ女子たちを横目で見やる。
此ノ花和泉と冴島由宇。一見して丸きり正反対の個性を持つふたりだ。由宇の方はどちらかと言えばボーイッシュだが、身体のつくりは実に女らしい。京平曰く、彼女のバストがあとひと回りでも小さかったのならば、彼らの交際はなかっただろうとのことだ。まあそれを口にする都度、鉄拳制裁を食らっているところを見ると、彼女の性格は推して知るべしではあるが。
一方、此ノ花和泉といえば。
名は体を現すとでも言うべきか、可憐な小輪の花を想起させる。ことさら派手さはないが、女性的で。かといって大人しいという表現ともまた違う。活発で賢い女性。
そしてその飾らない人当たりの良さが、対人経験の極端に乏しい左近をして、彼女を魅力的に思わせていた。
「お前はなー左近。毎日機械とばっかり遊んどらんと、もちっと生身の人間との付き合い方も覚えやがれ。だからこそこうして俺たちが遊びに来てやってるんじゃないか。もっと感謝せーよ」
そんなことは重々承知だ。
お調子者ではあるが、そういう奴なのだ。西野京平という奴は。でなければ彼らの友情はとうの昔に破綻している。口にこそしないが、左近は京平に感謝していた。それは出会ったばかりだった幼少期から変わらない。
「ゴメンね、市川君……」
そう。こうして彼女とも会えた。
意味もなくニヤニヤとする京平。その隣でスマホを弄くっている由宇。
そして本当に申し訳なさそうな顔をする此ノ花和泉の三人が、左近の頭の中を亜光速でグルグルと駆け巡る。
溜息ひとつに、笑顔がよっつ。
「コーヒーでも淹れるよ」
たまにはこんな日があっても悪くないと左近は思う。
「市川君」
振り向くとそこには此ノ花和泉の顔があった。それは昨日まで市川左近の人生には、なかったものである。
「今度は火加減間違えないようにね。ね~ハッピー?」
「レレレレレッ」
コポコポコポ――
身体のどこかで血液が沸騰する音がした。
左近の視線は、まるで逃げるようかのに此ノ花和泉から離れていった。耳の先まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。
とにかくいまはサイフォンを沸かしすぎないように――
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