第33話 そこから母に変化が現れる

「……一会、一会」


 ……僕を呼ぶ声がする。何だかとても懐かしい。

 ジャッ! と言う音と共にカーテンが開けられる。窓から朝日が差し込み僕は目をしぱしぱさせながら目を開けた。


「おはよう母さん」


 そうだ、この人は母さんだ。


「うなされていたけど悪いでも見ていたの?」


 ……悪い夢?

 そうか夢だったのか。

 ……どっちが?


「朝ご飯出来てるよ」

「はーい」 


 そうだ、僕は母と二人でアパート暮らしをしていた。寝ぼけ眼をこすりながら食卓に着く。お皿にシリアルと牛乳を入れて素早く食べ終わる。


「行ってきます!」


 僕は家を逃げるように飛び出した。


「あ、待ちなさい!」


 母と僕は二人暮らしだった。父は僕が生まれてすぐに死んでしまったらしい。母は仕事をしているのでどうしても家事がおろそかになる。それでも僕の健康面をしっかり考えてくれていて、夜のうちに野菜の煮物を作ってくれていて、それを朝に出してくれるのだが、僕はそれが苦手でよく逃げ出すように家を飛び出て小学校へ行った物だった。思い出すたびに後悔する。

 学校での僕はごくごく普通の小学生だった。友達と遊び喧嘩して日常をそれなりに楽しく暮らしていた。

 ただ、どうしても母は仕事で忙しくすれ違いが多くなり、小学生にして反抗期になった僕。

 仕事で疲れてぐったりして寝ている母さんも語彙がきつくなり、僕はギャンギャン泣きながら口答えした。その度に僕は反省して落ち込んでいた。

 落ち込んだ僕を見ると母さんは仲直りするためによくコーヒー牛乳を作ってくれた。

 インスタントコーヒーにホットミルクを注いで砂糖をたっぷり。僕はそれが大好きで飲むとすぐに機嫌が良くなる。うまい事、母親にコントロールされていた物だが、思い出すととてもありがたい。仲良くなるきっかけを作ってくれる母さんが大好きだった。


 僕が小学生高学年になった時、母親が急に倒れた。

 夜遅くに帰ってきて玄関に入った時だった。そのまま救急車に搬送されて以来、何度も病院に通うことになって、僕は家で一人になることが増えてしまった。


 それ以来、僕はなるべく家事を手伝うようになった。母は親戚にしばらく預かってもらうことを考えていたようだが、大人に対して人見知りな僕はそれを嫌がったのだ。だが、流石に長期入院す時が決まったときは、僕は親戚の家に預けられた。

 僕はそのとき何故、母が病院に行っているのかが解らなかった。


 脳腫を患っていたのだ。


 だが、その時はまだ知らなくて良かったのだろう。漠然とした不安の毎日を送っていたが、知っていたら僕はもっと不安になってどうなっていたか解らない。そしてしばらくして、母は帰ってきた。


「ただいま一会」

「おかえりなさい」


 久しぶりに母を見た僕は本当に本当に嬉しかった。

 そんな時だ。

 あいつが現れたのは。


「一会、先生よ」

「こんにちは! 一会君!」


 先生と言われたその男は、突然、家にやってきた。人見知りな僕は先生と呼ばれる男が家に来るたびに自分の部屋に引きこもっていた。

 先生と言われる男は、度々、家にやってきた。母と仲良く会話している声が壁越しに聞こえてくる。僕は何故かそれがとても嫌だった。


 そこから母に変化が現れる。


 何でも食べていた母が野菜中心の食事になった。

 朝昼晩と何かに祈るようになった。

 そして熱心に本を読むようになった。


 本のタイトルは【残り火教の幸せ】と書かれていて、毎月家に届けられてくる。表紙には先生がよく掲載されている。いつも笑みを浮かべているが僕には何故笑っているのかが解らず不気味に感じてしまい、その本が大嫌いになっていた。


「一会君は本は読まないのかい? まだ難しすぎるかな?」


 先生は家にやってきては僕に話しかけてくる。僕はろくに返事もせずに目線も合わせなかった。


「すいません、この子って人見知りで」


 母さん謝らないで……

 僕は渋々、本を手に取って読む。健康の秘訣、幸せの秘訣、体験談、そして何よりも先生に対する感謝状みたいな内容がぎっしりと書かれている。僕はそれを見て単純に気持ち悪かった。自分で自分を褒めさせる本を出版して他人に読ませる行為の異常さをその時にいやも応もなく知ってしまった。


 後から僕は何故母がその本を読んでいたのか知った。


 癌にならないため。

 癌を再発させないため。

 癌で死なないため。

 僕を独りぼっちにしないため……


 母は母なりに必死で頑張っていた事を。


 学校から家に帰ると母はテーブルで泣き崩れていた。僕が声をかけても、何でも無いと帰って来るばかりだ。

 その日から、先生の態度が変貌した。

 たまに家にやってくると、母に厳しい言い方をするようになった。


「ちゃんと野菜を食べています?」

「言われた運動はしています?」

「お祈りは捧げていますか?」


 そんな先生に対しても母はなるべく機嫌を損ねないように受け答えする。厚かましくもご飯は食べて帰って行く。これも後から悟った事だ。先生は男と女の関係を母さんに求めて拒絶されたのだ。


「こんな物、子供に飲ますな! 一会君が死んでもいいのか! コーヒーは体を冷やして免疫力を下げるんだよ! 砂糖も体に悪い! 牛乳も血液を固まらせる!」


 日曜日の昼間、母親とのおやつの時間にそいつはやってきて、そう言い捨てた。

 母親は涙を浮かべながら平謝りした。

 僕をだしにして母親を罵声する先生と言われる男。

 心にどす黒い物が広がっていく。

 だが、僕が嫌悪感を表そうとすると、母は逆に僕を叱るようになった。

 それでも母は先生と呼ぶ男を信じようとしていたのだ。

 架空の健康状態を保つため母自身も信じようとして。


 誰のためでもない。生きるため、死なないため、僕のために。


 僕が中学に上がる頃、母が再度倒れて、救急車に搬送された。

 今度はなかなか家に帰ってくる事が出来なくなっていた。

 僕は家から離れることが嫌だったので、家事を一人でこなし中学に通い始める。

 時間があれば母のお見舞いに行った。


 僕が顔を出すと母はとても嬉しそうにする。

 だが、足を運ぶたびに弱っていく母を見て、僕は泣きそうになるのをこらえるのがやっとだった。


「メロン切るね」


 母の好物のメロン。スーパーで格安の時を狙って購入することが出来たら僕はすぐに病院に持って行った。果物ナイフでそれを切り分けて、母の口に運ぶ。そのときは母手にしびれが来て物を持つことが困難になっていたのだ。


「おいし」


 母は満面の笑顔を見せて、そう言ってくれる。僕はその笑顔を見て嬉しくてそして悲しくてまた泣きそうになった。


 そんな時、またあの男がやってきた。


「何を食べているんだ! メロン? 熟した果物は体に悪いんだよ。あんた死んでもいいのか!? 一会君が一人になってもいいのか!」


 それ以来、メロンを持って行っても母は食べなくなった。僕は涙も涸れた状態でメロンを持って帰って一人で食べた。


 学校に行っている間、僕は呼び出された。

 すぐに病院に駆けつける。


 たった今、数秒前まで生きていたお母さん。

 僕は間に合わなかった。

 手に触れる。

 まだ暖かい。

 人形のように全く動かない。


 そんな時、病室にあの男が数人の男と共に病室に入ってきた。


 医者と何度か話し書面を見せやりとりした後、突然、母をベッドごと搬送し始めたのだ。僕は訳もわからずについて行く。

 搬送車に乗せられて、大きな会館に着く。中には人がぎっしり詰まっていた。

 男は会館の中の全員が衆目するマイクが並べられた場所に立つ。

 母は会館の中の人間によく見える場所にベッドごと置かれる。顔に白い布も被せられていない状態で。


「残り火の幸せ教の皆さん!」

「本日、集会の日に一人の信者が亡くなりました!」

「何故だと思いますか?」

「この者は私の言いつけをまったく守らず自分勝手な行動ばかりをしていたからです!」


 なんだそれ。

 なんだそれ。


「ですが私はこの者が天国に行けるよう尽力を尽くします! 私は皆さんの幸せを祈っております! でも皆さんはこうならないように気をつけてくださいね!」


 な ん だ そ れ。


 今までため込まれていた感情が暴発する。暴発した感情は全身を支配する。体が勝手に動く。理性も感情も一つになりただ一つの命令をこなすロボットのように僕をつき動かした。


「え?」


 男が呆然とする。頬に手をやる。そこでようやく気がついて悲鳴を上げた。僕が手にした果物ナイフで切られたことを。


 男は腰が砕け、這いつくばるように逃げる。

 僕は追いかける。

 誰かが邪魔をしようとする。

 僕はそれを排除しようとする。

 ……しばらくして、僕は力尽きるより先に、怒りで脳がオーバーヒートして気を失い倒れていた。

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