第3話


 それから三日後、私は久しぶりに会社務め時代の後輩、マリと会った。

 退職してからは中畑以外、会社関係の人間とは会っていなかった。特別会いたくもなかったし、何だかやはり気まずいし、それに現状の説明をするのも嫌だった。

 でもマリは特別で、なんせ彼女は俺よりも遥か昔に会社を辞めているのだ。

 マリは五歳歳下の後輩だった。

 マリが新入社員の一年間、一応OJTリーダーということで私がいろいろと面倒を見た。そして二年目になり、そろそろ独り立ちさせてみるかぁ、なんて考え出していた頃合いに、地元の先輩と急に結婚してそのまま会社を辞めていった。

 あの時、部長、めちゃくちゃ怒っていたなぁ。

 ナメとるなぁ、最近の若いのは、なんてパワハラモラハラセクハラ等、現代社会の秩序を恐れず様々な罵詈雑言を事務所で嫌味っぽく言っていた。

 私はと言うと、まぁ、女の子だしそういうこともあるかなぁ、なんてくらいで。怒るとかいうよりむしろ、四大を出してもらったのにたった一年しか働かず結婚じゃあ親御さんはどう思うだろうかなぁ、なんて逆に心配をしていたくらいだった。今思い返せばマリは確かに一年目の時から子供は三人はほしいんですよ、なんて言っており、私もそれに対して、ええっ、じゃ早めに結婚しないとあかんじゃん、なんて適当なことを言っていた。

 あれ、そう考えたらマリがあんな早く結婚して会社を辞めていったのは私のせいでもあるのか? もしかして。って、考え過ぎか。

 三宮の昼。私はこれまた久しぶりに電車を乗り継ぎ、神戸まで出てきた。マリの家が神戸方面なのだ。今やマリには子供もいるので、少なからず気を遣ったのだ。

 三宮駅の改札を出るとベビーカーを押し、且つ所謂ダッコ紐というやつを上半身に巻いたマリが立っていた。直ぐに分かった。もう数年は会っていなかったのだが、彼女は全然変わっていなかった。昔と同じパーマがかった茶色のロングヘア、猫目。笑顔で手、振ってる。から、俺も手、振った。

「久しぶり」

「お久しぶりです。遠くまですいません」

「いや全然いいよ。思ってたより時間もかからんかったし」

「でも大丈夫だったんですか? こんな平日に。もしかして今日、わざわざ会社休んでくれたんですか?」

「や、そういうわけではないよ。ま、その話はオイオイ」

「……また何か訳ありなんですか?」

「ま、うん。そうだね」

 彼女は私のこと、よう分かっとる。

 近辺の喫茶店に入る。

 何だか懐かしいなぁ。OJT時代、営業の合間によくマリと喫茶店に入った。うだうだと時間を潰したり、誰それの噂話をしたりしていたなぁ。

 金が無いので私は一番安いホットコーヒーを、マリは何だか甘そうなクリームの乗ったやつを注文した。

「まさか仕事辞めてたなんて。びっくりです」

 喫茶店に入るまでに手早くそのことだけは伝えたのだ。

「あ、そう?」

「だって不真面目は不真面目でしたけど、けっこう楽しそうに仕事してたじゃないですか」

「え、そうかな? そんなふうに見えてた? まぁ、確かに嫌いではなかったけど。仕事。って不真面目は余計だろ」

「で、仕事辞めて今は何してるんですか?」

 ほら、来た。痛いとこを突いてくる。まぁ、そりゃそうだわな。会社辞めたってんなら、じゃ、これからどうすんの? てなるわな。

「まぁー、まだ辞めて直ぐだからね。ちょこちょこと仕事を探してるよ」

「ふーん。大変ですね」

「まぁね」

 コーヒーは苦い。

 私はあまりコーヒーが好きではない。

 でも金が無いので仕方がない。

 メニューにあるフルーツのジュースはコーヒーよりもう百円ほど高い。本当はそっちが飲みたいのだけれども。

 同じ苦いでもビールは好きだ。ビール。飲みたいなぁ。マリとも昔はよく飲みに行った。マリは本当にザルで、私もまぁまぁ飲む方だが、多分マリの方が上だろう。

 マリの子供は二人とも大人しかった。ベビーカーに座っている子はおそらくお兄ちゃんで、スヌーピーのぬいぐるみを弄って静かに遊んでいるし、ダッコ紐の中にいた子、弟は今はマリの膝に座ってストローの入っていた袋をこねこねしている。非常に育てやすそうなおおらかな子達だった。

「下の子は今何歳なの?」

「この子は今まだ半年ですよ」

 そう言って膝に乗せた子供の頭を撫でる。

「で、こっちの子は二歳。もう一人上に四歳のお兄ちゃんがいて、その子は今幼稚園に行ってます」

「えっ、もう一人いるの?」

「そうですよ」

「じゃ今子供は三人?」

「ええ」

「うへー、いつの間に」

「えへへ」

「昔から三人ほしいって言ってたよなぁ」

「そうですよ。夢が叶いました」

 そう言って屈託もなく笑う。眩しい。

 会社を辞めて夢を叶えたマリ。

 一方で会社を辞めたのに夢半ばに散りつつある私。

 辛い。どうにも。辛い。

 いや、でもまぁ幸せそうでよかったけどさ。

 それから小一時間喫茶店で他愛のない話をした。で、最後、改札で別れる時、

「私はね、小説家になりたいんだよ」

 言ってみた。

「へぇ、どんな小説を書くんですか?」

「ん、まぁいろいろだよ。人生の諸問題に直に切り込んでいくような難しいものでなく、空気感を重視した。淡いやつだよ」

「ふぅん。よく分からないけど、良いんじゃないですか」

「はは。相変わらず適当なやつ」

「頑張ってくださいね」

「うん」

 そうして私達は別れた。



 決戦は常紋寺文学賞。

 柔らかい陽光。快晴下。縁側から足を投げ出し、向こうの塀の上を歩く野良猫に言ってやった。

 そう。もはやもう泣いても笑っても最後なのだ。常紋寺文学賞。最後に一つ残った賞の名前だ。

 足を投げ出したまま縁側にごろんと寝転んでみる。傍らには缶ビール。煤けた天井と青空が半分半分見えた。ハーフアンドハーフ。てか。雀、五月蝿いくらいちゅんちゅん鳴いてる。

 常紋寺文学賞。この賞は応募した文学賞の中でも一番知名度の高い賞で。小説に特別興味のない人でも名前くらいは知っているような賞だった。賞金額もそれなりに高い。だから経済的にもこの賞を取れればとりあえずは凌げるという状況だった。

 応募した作品は「ほんとのところ」という小説。

 この小説は、シンプルに言うと「堕落していく男」をただ描いただけの小説だった。正直言って今や自分でも良いのか悪いのかよく分からない。

 上手く書けたことは書けた。本当にそう思う。ただ、何というか、あまり難しいことを考えずに自分の思ったことをそのまま書いたなぁ、という感じの小説だった。ストーリーのようなものもしっかりしていない。それがどう捉えられるか、ということが問題で。応募した当初は確かな自信があった。しかし度重なる落選と投稿サイトでの否定的意見、これが私の自信を日に日に削っていたため、イマイチこの小説のことを信じられないでいたのだ。

 缶ビールをぐびっとやり、スマートフォンで小説投稿サイトを見る。

 あれから私は「桃と電気と墜落の夜」を含め、過去に細々と書いていた小説を幾つか小説投稿サイトに投稿していた。が、結果はイマイチ。やはり否定的意見が多い。参りましたよ、これには正直。

 でもさぁ。こういうサイトもよく分からんよね、正直。

 何かを否定をしたくてウズウズしているような奴らが、所謂クレーマー的な奴が多いような気もする。別に否定的意見が集まったから負け惜しみで言っているのではなくて。

 確かに、あぁそうだなぁ、って凄く納得させられるコメントもあるし、親身になって話を聞いてくれるユーザーもいる。

 しかし中には否定的なコメントばかりを述べて悦に入り、自分の小説は公表しないようなよく分からん奴等もいる。そんなことをしてちょっと有名になってる奴もいる。

 所謂荒らし、とでもいうやつなのだろうか。よく知らんが。でもそれって何なんだろうなぁ。どういう心境でそんなことやってんだろうか。しかもそういう奴は無駄に口が上手い。弁が立つ。だからだろうけど、たまにカチンと来たユーザーと喧嘩していたりする。この小説、やたらとコメント入ってんなぁ、と思って閲覧してみると、「読んでみたけど糞小説ですね。(以下、糞小説な理由を述べてる)」「それはこうこうこういう理由でこうしているんです」「いや、だからそうじゃなくて、こうこうこういうことだから、やっぱ糞小説だよね(以下、再度、糞小説な理由を述べてる)」「いや、それはそうとも言い切れなくてこうこうこうだから」「まぁー、俺はこうこうこういう気持ちでこういうことを言って、君はそれに対してこう言った。よって君の理論は正しくないよね。てか君、下手なんですよ。もうちょっと勉強しなさい(けっきょくそういうところに落ち着く)」「ふざけんなよ」「そっちこそ」「やんのか」「かかってこいや」なんてやっている。溜息。これはマジで。

 否定的でも真摯な意見はいいんだけどね。まぁ言い方ってものもあるし。で、そんな言うならテメーの書いた小説見せてみろってね。こんなとこに載せるメリットがない、なんてカッコつけてないで。評論家になりたいなら評論家サイトにでも行きゃいいじゃん。あるのか知らんけど。

 てかさ、思想があって書いてんだから「糞小説」なんて存在しねぇよ。バーカ。

 あ、そうだ。あと、たまに何か自分でキャラ作ってる奴もいるなぁ。何とかでござるよ、なんて語尾統一でコメントしてきて、ユーザー名見ると何とか兵衛、なんて名前で。ほんまに阿保なんちゃいますのん、と思いましたよ。私は。

 なんかさぁ、少なからずみんな小説家になりたいからこんなサイトに来てるんだろうけど。小説を書いて、それを更に良いものにしていくために、小説家になるためにこういうサイトで意見を募ってるんだろうけど。そんな荒らし的な要素もあるし、何とか兵衛もいるし、最早、意見を聞けば聞くほど何が正しいのか分からんくなる。

 じゃ小説投稿サイトなんて使うなよ、と言われると、それはそれで小説を披露する機会がぐっと狭まる。文学賞に応募して、落選して、駄目で、そんで、終わりって何だか虚しい。

 まぁ、つまりは受賞して売れれば何も問題ないんだけどね。

 私は半身起き上がり煙草に火をつけた。さっきの猫はまだ塀の上にいて、こっちを見てる。三白眼な感じで。無性にやりきれなかった。

 ちょっとさ、疲れてる。頭を空っぽにして。リセットした方がええんちゃいますかねぇ。売れ筋のミステリー小説でも読んでさ。新聞の一番下の広告欄で紹介されてるようなやつ。十数年前に犯した犯罪が今、新たな殺戮を生む……! 的なね。頭を空っぽにして。コーラでも飲んで。ぼぉっと読みたい。

 嘘。読みたくない。書きたいんだよ。私は。良いものをただひたすらに。



 昼間から酒。

 それが私のライフワーク。最近の。アイデアの出ない頭にはこれが一番です。ぐびぐびっつって。めためたに酔っちゃって。さすればそのうちアイデアもポンっなんて音出して次々に飛び出して。ポップコーンみたいに抑えきれなくなって。

 ってなわけあるかい。この、ボケ。

 なんて恥ずかしげもなく自分に突っ込みを入れられるくらいには酔ってる。午後二時。ガード下の立ち飲み、熱燗。

 もちろん私だってサラリーマンをしていた頃にはそんなことはしなかった。むしろそんなことをしている人々を軽蔑してた。定食屋で人が日替わり定食を食してる横で、昼間から瓶ビールなんかを煽ってげらげら笑ってる親父連中を心から憎んでいた。こいつ等、昼から何するつもりなんだ、て、思ってた。

 あーぁ、しかし退屈だなぁ。今から何しようかぁ。そう思って立ち飲みの安暖簾を出て、太陽の下伸びをする。

 今にして分かる。あの定食屋でビールを煽っていた親父連中、別に午後からやることなんて一つもなかったんだ。分かるよ。だって、俺がそうなんだもん。現実的に今。

 ふらふらと、駅前通りを歩く。この愛はまだ始まってもいない的なテンションで。顔付きで。既に酔いは俺の中核まて達していた。ふらふら。真っ直ぐ歩けねぇ。買い物中のおばはん主婦や自転車のテスト期間中高校生とぶつかりそうになる。皆、迷惑そうな顔で私を見ていた。おい、こら、そんな目で、そないな目で私を見るな。

 賞に対するプレッシャー。それは確かにあった。だって、そりゃそうだろ。次駄目だったら私はいよいよ終わるのだから。それに加えて小説が書けない。会社まで辞めてきたのに。何故だろう。そういうダブルパンチ。無しだぜ。駄目。本当に苦しかった。今の状況、小説家としては屍同然だった。

 何千何万という生活の交差の上で私は生きている。

 例えばあそこにいるおばはん。また、無理矢理パチンコ屋の前に自転車を停めようとしてる。無理だって。もうぱんぱんじゃん。あ、ほら倒れそう。山のようなママチャリ。ペダルが絡まってるって。あー、ほら言わんこっちゃない。倒れた。けっこう倒れたよ? ばたばたんて。そんなん。あーあ、そんながっかりした顔して、あかんかった的な顔して。そりゃ貴方が悪いよ。無理矢理押し込んだんだから。あ、言うてる側から、そのまま放置して行くんですか。マジですか。駄目よ、駄目、駄目。そんなん。そう言えば昔そんな芸人がいたな。駄目よ、駄目、駄目。何て人等やったかな。顔は浮かんでるんだけども。最近見ないなぁ、あのコンビ。て、あー、行ってしまった。糞。おばはん、お前の顔、忘れへんぞ、私は。直接的な恨みはないが、憎む。なんて思っていたら向かいのカラオケから出てきた女子高生の三人組。晴れ晴れしく歌いきった顔で出てきて。はははー、もっと歌えたねぇ、そうだねぇ、なんつって笑って。あ、テスト期間だから早く学校が終わるんだな。きっと。だからカラオケ行くんだな。けらけら笑ってたんだけど向かいの倒れきった自転車の屍を見つけるや、顔、曇り。誰よー、こんなことしたの、なんて倒れた自転車をひとつずつ起こして行く。三人で。自分達が倒したわけでもないのに。順番に。そんなことをしているうちに、だんだん彼女等はまた笑顔になっていく。迷惑な話よねー、もーう、なんて。何だか心温まる光景だった。煙草を喫いながらそんな光景をじっと見ていた。

 つまり、私はそんな生活のすれ違いで咲く花を書いていきたい。

 人々が良い顔してたりとか、陽光のプリズムが綺麗だったりとか。停留所とか。食べ物の温気だとか。

 私の小説とは、それだけだ。他には何もない。

 再び歩き出すと、急にそれは、小説を書くということは、途方のない、果てしのない作業のようにも思えた。人の心、愛。

 私と配偶者はたまに喧嘩をする。すると配偶者はいつも、話せば話すほど分からなくなってきましたわ、なんて言う。うん、確かに。てか、そんなん当たり前だ。人間の脳は複雑で、思考は幾度となく絡み合い、そんなものが更に二つぶつかり合うのだから。分かるはずがない。ないじゃん。

 しかし、私はそんな複雑なものの絡み合いを、それを照らす月明かりを、文字だけで表現しようとしている。生活のすれ違いで咲く花。急に自分のしていることが底のない絶望的なことに思えた。

 ふらふらな足取りで家まで歩いた。タクシーに乗る金も、バスに乗る金も、財布にはなかったので。気付いたら辺りは闇。夕刻を越え、日は陰っていた。



 家に帰ると配偶者は既に帰っていた。レタスをちぎってサラダを作ってる。

「あら、おかえりなさい。今日も早いんですね」

「あ、うん」

 配偶者はまだ私が会社勤めをしていると思っている。不思議なタイミングと運が重なり今もまだバレていないのだ。もうすぐ二カ月になるのに。

「最近は帰りが早いんですねぇ。去年の残業続きが嘘みたい。それにお酒もよくお召しになって」

「あぁ、そうかな。うん」

 私はそう言ってダイニングの椅子に座った。

 心が痛んだ。

 多分、酒を飲んでいなかったらもっと痛んだだろうなぁ。なんて思った。

 配偶者が作りたてのシーザーサラダと取り皿を置いてくれる。レタスにトマト、クルトン。その上に粉チーズがぱらっとふりかかって、流動体の白濁としたドレッシング、煌めいていて、とても美味そうだった。

「ビール、飲まれます?」

「そうね。一杯いただこうかな」

 配偶者は直ぐに冷蔵庫から缶ビールを一本持ってきてくれた。その時だ。私はフト、彼女の身に付けたエプロンがぼろぼろなことに気づいた。

 赤と白のストライプなのだが、布は摩耗して、はげはげで、腰元に二つ、劣化が原因と思われる見窄らしい穴が空いていた。なんてったって配偶者はこんなぼろぼろのエプロンを使っているのだ? 普段は配偶者が料理をしているところなんて見ないので気がつかなかった。

「君、そんなエプロンってないよ。新しいのを買いなさいよ」

「あ、これですか。そうなんですよ。ぼろぼろでしょ? 結婚前から使ってましたからね。もう大分長いですわ。そもそもそんなに高価なものでもありませんし」

「もっと良いやつを買いなよ。明日にでも一緒に買いに行こうか」

「あら、プレゼントしてくださるの? 珍しい」

「まて、まて。こんな月末、私は手持ちがないよ。家の金で買おうよ。日常品なんだからさ」

「あらあら、家のお金だってありませんよ。今月も赤字だったんですから。エプロンの一枚も買う余裕、ありません」

「え、そうなの?」

「そうですよ。二人とも別に稼ぎが良いわけではないんですから」

「それは確かにそうだけど、エプロンの一枚も買えないなんてことはないだろ」

「そりゃ、間に合わせの安物なら買えるかもしれませんけど、どうせ一度買ったらまた何年も使うんですから。ちゃんとしたものを買っておかないと。安物買いの銭失いになってしまいますわ」

「それは分かるけど。でも、エプロンだろ? エプロン一枚。たったの一枚。駄目なんか。買えないんか?」

「そんなに落ち込まないでくださいよ。来週になったらまた御給料が入ってくるんですから。そしたら一緒に選びに行きましょう」

 そう言って配偶者は屈託もなく笑う。焼いた鶏肉を盛り付けて私の前に置いてくれた。

 私は途方もなく悲しくなった。

 配偶者の言う給料なんて入ってこない。月末になっても来年になっても。だって私はもう仕事を辞めているのだから。サラリーを貰える立場ではないから。

 突然、自分はどうしようもない人間の屑のような気がしてきた。それも屑の中の屑のような気が。エリート屑のような気が。駄目だわ、もう。

「君、ちょっと話があるんだ」

「何ですの?」

「ん、まぁ、いいから座ってくれ」

 全てを言おうと思った。

 二月前に会社を辞めたこと、小説家になるつもりだったが箸にも棒にもかからないこと、サラリーなどもう貰えないこと。そしてそんな状況に美しく、純粋な貴女を陥れてしまったこと。

 配偶者が私の前に座った。

「実は私も一つ話がありますの」

「え、何?」

 意を決した瞬間、これは意外なカウンターパンチだった。

「いえ、あなたからどうぞ」

「や、気になるよ。先に言ってくれないか?」

「私だってあなたの話が気になるわ」

「そうかもだけどさぁ」

「まぁ、いいですわ。先に言います。できたんですよ。やっと」

「できたって何が?」

「何が、ってあなた。鈍い人」

 そう言って配偶者は軽く腹をさする。まさか。これは。まさか。

「子供か?」

「そうですわ」

「父になるのか? 私が」

 配偶者、そっと頷く。

 その瞬間、泣き声が聞こえた。

 どこから? これは多分、私の中から。そして多分、これは私の子の。おぎゃあ、なんて。配偶者には聞こえていないようで、うっとり笑ってる。

 ぶっ飛んでしまいそうだった。

「父か」

 そう繰り返すと配偶者は優しげな手つきで腹をさすり、ええ、と言った。

 その後ろ、五月の月、窓から見てた。ぎりぎりの三日月。消えそうになって。磨り減って。摩耗して。

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