第4話


 六月が来て。

 意外なくらい毎日晴れていやがる。

 天気予報など見てはいない。けど一応毎日折りたたみ傘を携帯して歩いてる。あ、正しくは飲み歩いている。

 けっきょくあの日、私は配偶者に本当のことを言えなかった。

 だって、あの話の後で、実は仕事辞めました、一応今は小説家って肩書きを名乗ってますが箸にも棒にもかかってません、なんて言えるか。だぼ。

 配偶者は少し不満気に、なんなんですか、もう、なんてボヤいていたが、機嫌は悪くなかった。

 何せ念願の子供。私たち夫婦はずっと不妊に悩まされていた。て、私はあまり悩んでいなかったのだが。子供なんて特別ほしいと思わなかったし、できればできたで、まぁそれは良いことだな、くらいの気持ちだった。でも配偶者は違くて、かなり本気で子供を欲しがっていた。もう何年も。いろいろな本を読んで、かかりつけの医師にも相談したりして、頑張ったんだが、それでも上手くいかなかった。

 それが半年くらい前までのことで、それからは何故だか子供のことはあまり話題にも出して来ず、てっきりもう諦めたのかなぁ、なんて思ってた。そんで、上手くはいっていないものだからこちらから話題に出すのも難なんでこの件はずっと放置状態になっていた。でも、まぁ特別頑張ってはいなかったのだが、それなりに、たまに、やってたりはしてた。やってたり、て下品だな。何か。酔っ払って夜這いというやつ、小説投稿サイトのコメントを初めて見た夜は断られたが、あれが成功する夜もあるのだ。ちゃんと。

 しかし子供か。この私に。

 この人間の屑に。エリート屑に。そういえば月末の給料はけっきょく実家にあった死んだ親父の所有していた絵画を二、三枚売って凌いだ。合計三十万で売れた。だから二十万を配偶者に給料としてわたし、十万をピンハネした。その金でこうして飲んでる。はは。エリート屑万歳。

 子供。しかし考えられぬ。まじで。そりゃ一時は子作りに励んだり、まぁ、やってたりもしていたのだから、可能性はあった。しかしイザ直面すると分からなくなるもので、私は非常に混乱していた。参ったなぁ、ほんまに。

 配偶者はパートタイムを辞め、最近は家で安静にしており、マタニティ運動的な、何だか身体に良さそうな優しい運動をしている。栄養のあるものを食べて早めに寝ている。

 実際、それ自体に問題は無いし、元気な赤子を生んでほしいのだが、問題は経済的なところにあり、つまり配偶者がパートタイムを辞したことで実質我が家の収入は現在ゼロになってしまっているのである。まだ配偶者はその現実に気づいていない。金の管理は全て配偶者がやっているからはっきりしたことは分からんが、貯蓄だってたかが知れているだろう。破滅は直ぐ先にいて我々を手招きしている。

 事態は火急である。

 では何故、私は毎日こんなだらだらと酒を飲んでいるのか。

 答えは簡単。何にもできないからだ。

 無力。文学賞も取れず、かと言って新しい小説も書けない。この状態を抜け出さなければどうにもならない。分かってるよ、そんなこと。

 常紋寺文学賞の受賞作は次週発売の「常紋 夏号」で発表される。いよいよなのだ。ついに。緊張がピークに達していた。最近、夜もまともに眠れない。昼間はめためたに飲んでいても不安が身体を支配していて、夜中にがばっと目覚めてしまう。寝巻きの下には汗。びっしょりと。キッチンで水を飲んでみるも再び眠れず、不安で居ても立っても居られないので書斎のPCを立ち上げ、真っ白なワードプロセッサーに向かい合ってみる。

 しかし何も浮かばない。気付いたら机に突っ伏して眠っていて、朝。でもあまり眠っていないから眠い。てか、しんどい。でも配偶者に対しては会社へ行っている体なので朝八時には家を出る。午前中は駅前の喫茶店に入り一応原稿用紙と向かい合う。しかしやはり駄目で、昼頃には腹も減ってきて、心も折れる。そこからは昼から開いている安居酒屋へしけこみ酒を飲む。で、気付いたら落日。真っ暗になった頃に家に帰るのだ。配偶者は一日を有意義に過ごしているようで、おかえりなさい、なんて笑顔で迎えてくれる。それがまた痛い。たまらなく痛い。


 帰り道、歩いていると、一月ほど前、五月の最中、縁側で会った猫に会った。行きの道か帰りの道か、すれ違った。よく見ると後ろに子猫を二匹連れていた。

「お前、子供がいたんか」

 思わず声に出していた。

 猫は驚いたようで、一瞬足を止め私を見た。私も猫の目を見た。相変わらずの三白眼。しっかり目が合って。奴は何か言いたそうだった。でも勿論何も言わなかった。やがて子猫を連れてどっか行った。迷惑そうに。

「おかえりなさい」

 帰宅。迎えてくれた配偶者は笑顔で、晴れやかだった。おそらく今日も充実した一日だったのであろう。素晴らしいことだ。それはそれで。

「ただいま」

「ご飯出来てますよ。それか、お風呂先入ります?」

「風呂に入るよ。とりあえず」

「分かりました。ね、あなた、見て」

「何?」

「お腹、少し膨らんできたと思いません?」

 そう言ってエプロンをあげて腹部を見せてくる。成る程。確かに少しふっくらしてきた気がする。

「ほんとだね」

 私はその、ふっくらとした腹部に手を当ててみる。優しい、愛そのものの感触だった。暖かくて、火傷しそうなくらいに。

「楽しみですね」

 そう言って配偶者はリビングの方へ行った。

 風呂に入った後、軽く晩酌をしていたら健康的な配偶者はもう眠りに就くとのこと。洗い物はシンクに置いておいてくださいな、軽く水に浸けて、なんて言って。分かったよ、おやすみ、なんて私言って。

 眠る前に書斎へ行く。どうせ上手く眠れないならハナからここで頑張ろうかと思ったのだ。椅子へ腰を下ろす。

 そういえばこの椅子はサラリーマン時代から使っていたものだったなぁ。急にそんなことを思い出した。会社を辞めた日にあの、優しかった総務課長に貰ったんだった。

 懐かしい。何だかもう、凄く遠い昔みたいに感じる。感じてしまう。サラリーマン時代。普通に電車に乗って、仕事をして、毎日。

 戻りたい。

 もう部長なんてどうでもいいから。

 心が弱くなっていたのか、そんな考えが浮かんだ。普通に働いて、月末にサラリーを貰って、配偶者を、子供を食べさせて、エプロンを買い換えて。健全で、当たり前のことなんだよ。それ。

 駄目だ。心が。弱い。千切れそうで。でも一度決めたことなんだから。小説家に。うん、小説を書きたい。なりたいなぁ。ちゃんと、小説家って奴に。あぁ、でも子供の泣き声。聞こえる。俺の泣き声も、聞こえる。猫が見てる。三白眼で。やめろって、その眼。

 寝室を覗くと、配偶者が眠っていた。健やかな寝顔。おそらく彼女の中にいる子供も同じような顔で眠っているんだろう。

 良いこと。ほんとに良いこと。何よりで。

 これ以上この家にいたら気が狂ってしまう。私はそう思った。



 中畑と季節外れの鍋をつついていた。

 東通りから少し外れた店。美味いあんこう鍋を出してくれる。素晴らしい。熱燗。進むよね。

 それにしても驚いた。

 話したいことがあるから一度会いたい、時間をくれ、と言ったのは私の方で、中畑はいわば呼び出された立場なのだが、彼が分かった、じゃ、店予約しとくわ、なんて言ってくれたのでその好意に縋ってみたものの、まさかこんなにしっかりした料亭的な店を予約しているとは思わなんだ。てっきりいつもの安居酒屋かと思った。

 あんこうって。久々に食った。そんな高級品普段食えないからなぁ。配偶者にも食わせてやりたい。お腹の子供にも。て、それは無理か。まだしばらくは。

 鍋以外で注文しただし巻き玉子、白子ポン酢も非常に美味い。素晴らしいなぁ。まじで。何てパクついていたのだが、フト思った。美味い飯。そんな美味い飯が私のようなドブネズミの手が届くような安価で提供できるわけがないと。これは真面且つ冷静な考えだった。

 中畑は私の同期だ。そして同い年。今までの会合の会計は百パーセント割り勘だった。中畑の奴、私の貧乏を見抜いていないのか? お前ももういい歳なんだからあんこう鍋食うくらいの蓄えはあるだろう、なんて。安易。まぁ、正論ちゃあ正論なのかもしれないけど。

 私はバレないように机の下で財布の中身をこっそり盗み見た。千二百十一円。あかんやろ。確実に足りてないやろ。過去の経験上、この店のクオリティからして、おそらくだし巻き玉子と白子ポン酢だけでこれくらいの値段はいってるはず。まずいよね。お金足りないていうのも格好悪いし。

 ある程度食った後、病気を装って、くわっ、急な腹痛だぁ、ごめん先帰るわ、何て言って店を出て行こうか。それとも、あ、仕事の電話だ、なんつって席を立ち、ごめん急な仕事が入ったわ、なんて素早く、スタイリッシュに消えようか。本気で考えた。

 でも駄目だろなぁ。仮病は過去にも使った方法で、そん時もあっさり見破られた。仕事を装うにしても無職なことはバレてる。しかも相談事の件もある。そのために今日は中畑を呼んだのだ。

 しかしまぁ、情け無いよなぁ。二十代そこそこで金が無い、なんてのはまだ笑えるけど、三十を越えて、所帯を持ってそれやっちゃあなぁ。しかも今、手持ちが無い、てわけじゃなくて、まじで、口座にも、どこにも無いんだから。

「悪かったな。鍋なんて」

 中畑がおたまで豆腐を掬いながら言った。突然話しかけられ、私はびくっとした。

「あぁ、うん。いや全然いいよ」

「季節外れだよな。でもどうしても食べたくなっちゃってさ。ほら、俺まだ独身だろ? 食生活が偏っちゃって。駄目なんだよ。野菜とか全然食べなくて」

 そう言って中畑が苦笑いを浮かべる。

「鍋にしたら野菜、美味いよね」

「うん。あんこうも美味いだろ?」

「美味い、美味い」

「たまに接待に使うんだよ。ここ」

「あ、接待ですか」

 敬語になってた。いつのまにか。

「最近、接待も増えててさぁ。さらに食生活が乱れてるんよ」

「それはまた。大変ですよね」

「何で敬語なんだよ」

「ですよね」

 で、また暫く沈黙。すると豆腐を食べ、出汁を少し啜った後、中畑が、

「会計は気にしなくていいよ。経費で落ちるから」

「あ……そう。そうなんだ。そっか。そっか。ほんなら遠慮なく。ありがとう」

 私はバレないように胸を撫で下ろした。とりあえず逃走する必要はなくなったのだ。

「さっきこっそり財布見てたから。だから気にしてんだろうなぁ、と思って」

「別にそういうわけじゃないよ」

 最低限のプライドだった。私の。屑なりの。

「無理すんなよ。金無いんだろ」

「あるわけではないね」

「強がんなって。俺等の関係だろ」

 馬鹿ヤロ、お前との関係だから強がんだろ。情け無いったらありゃしない。

「今日の話ってのも金絡みなんだろ?」

「いや、それはな。ちょっと違うんだ」

「何だよ」

「うん、あのさ、会社の福利厚生でな、何か旅館とかホテルとかに安く泊まれるやつがあったろ?」

「あぁ、まぁ正しくは福利厚生じゃなくて得意先絡みの割引なんだけどな。うち、旅行会社との取引多いし。場所によっては半額近くなるよ。それが何?」

「宿を取ってくれないか? 一週間くらい。できれば明日からでも」

「またえらい急な話だな」

「頼む」

「いいけどさ、別に。理由くらい聞かせろよ」

「集中したいんだ。小説に。一週間くらい閉じこもってじっくり向かい合って考えたい」

 中畑は煙草に火をつけて私の目をじっと見た。

「所謂、カンヅメってやつ?」

「まぁ、そうなのかな」

「ふぅん」

 そう言うと中畑は席を立って外に出て行った。私は一人席に残された。熱燗に手を掛けるも、何故か今は、あまり飲みたいと思わなかった。気持ちが沈んでて。あぁ、これ、今、勝負所だな。そういう状況だな、と思った。

 中畑はなかなか戻って来なかった。私は一人、煙草を喫ったり、おしぼりで顔を拭いたりしていた。店員さんがもう殆ど空っぽの我々の鍋を見て、締めの雑炊をお持ちしましょうか? と気を利かせて聞いてくれた。まだ若い、大学一、二年くらいの可愛い女の子だった。ユニフォームなのであろう桃色の着物を着ていた。よく似合ってる。私が、連れが離席しているので、また後で声を掛ける旨を伝えると、分かりました、と、にっこり笑ってバックヤードへ下がって行った。感じの良い子だった。

 私は基本的に喋りすぎるお節介な店員が嫌いだ。コンビニの店員が嫌いだ。ポイントカードはありますか? とかレシートは要りますか? とか温かいものと冷たいものは分けますか? とか。

 でも彼女は非常に感じが良かった。ああいう子が頑張ってほしいよなぁ、なんて思っていたら中畑が帰ってた。

「一つだけ空いてた。熱海だけど。いい?」

「ありがとう。助かるよ」

「熱海の温泉旅館。明日から一週間。一応、朝晩食事付き」

「恩にきる」

 中畑は席に着くとまた煙草に火を点けた。

「ただな、お前さ、いい加減奥さんに仕事辞めたこと言えよ」

「まぁ、それはそうだけど。いろいろ事情があるんだよ。それに小説が軌道に乗れば……」

「そんな直ぐに軌道に乗らんだろ。賞がどうだとか知らんけど、閉じこもって考えたいとか言ってる時点で上手くはいってないんだろ」

「まぁ、上手くはいってない。てか書けないんだ。最近、全然。賞も取れてない。二つ駄目だった」

 私は正直に言った。

「そんなことだと思ったよ」

 返す言葉が無かった。中畑の言う通り。私だっていつまでもこのままでいいなんて思っていない。どこかできちんと配偶者にも話をしなければならないと思っていた。

 だから今回のカンヅメはケジメのつもりだった。この一週間で納得いくものが書けなかったらきっぱり辞める。帰ったら直ぐ職に就く。システム開発でも営業マンでも何でもやったる。そして家族に美味いおまんまを、あんこう鍋を食わせてやる。それくらいの覚悟だった。

「まぁ飲めよ」

 中畑が私のお猪口に酒を注いでくれる。

「ありがとう」

「旅館の金はとりあえず俺が出しとく」

「えっ」

「馬鹿、やるんじゃないよ。貸すんだよ。熱海までの旅費も。どうせないんだろ? 貸しといてやるよ。絶対返せよ」

「いいのか? 中畑、お前、どうしてそこまで……」

「同期だろ。友達だろ。そりゃ少なからず困った時は助けるよ」

「ありがとう」

 泣きそうだった。友情に。その思いに。

 情けねぇ。会社を辞めた時、小説家としてやっていけると自信を持っていた時、私は心のどこかで会社に残った中畑を見下していた。それが恥ずかしい。今、とても。

 中畑は大人だなぁ。同期入社なのに何故に、どうして、ここまで差がついた。鍋にしてもそう。中畑の前の敷き紙は綺麗なのに、私の前の敷き紙は出汁なんかが溢れていて、べしょべしょだった。

 この借りは必ず返すぞぉ、早めに、直ぐに、きっと、返すからね。私は何度も何度も中畑にそう言った。

 夜のうちに荷造りは全て済ました。

 と、言っても大した量ではない。PCと最低限の着替え。それくらいだ。いつも旅行に行く時に使うボストンバッグに入れた。配偶者の顔を見たら何だか辛くなりそうで、朝方早め、まだ彼女が眠っている頃合いに家を飛び出した。

 外はまだ、闇。行く道は暗かった。

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