7. 風が吹くその先に
喫茶ケントに着いてまず先輩が口にしたのは、親の転勤の都合で、愛知県の高校を受験してきたというものだった。地元の高校は卒業式の次の日に入試だったので、薄々感づいていた先輩との別れがここではっきり実感できて、寂しさがこみ上げてきた。
次に先輩が口にしたのは、私が中野先輩への告白もどきを実行してしまったことだった。聞くと、湖のほとりを偶然歩いていた知り合いから伝わってきたらしい。
ただ、その知り合いは会話が聞こえる距離までは近づかなかったらしいから、
中野先輩から誘導尋問のようにして詳しく聞き出したらしい。
秋帆先輩は泣きそうな表情をしていた。コンクールの話題を振って会話する分には普通だと思ったけど、ところどころに鼻をすする音や詰まる声があったので、さすがに感情は抑えきれていなかった。
店を出た後、先輩はじゃあまた、と言って、足早に去ってしまった。
私はもう引退式の前後で涙を枯らしたと思ったけど、家までが少し遠かったせいでまたこみ上げてくるものがあった。しかも今度は自分に対しての明らかな憎しみもあった。
気付いたときには、筆箱からカッターナイフを取り出して手を刺してた。
そんなに深く刺さらなかったのを考えると、その日の寒さに感謝しないといけないのかな。
あと、おばあちゃんに言われてた通り、とっさに腕を縛ったのが良かったのかも。
結局、「転んで溝で腕を切った」の言い訳でごまかし通せたとは思ってない。
でも長袖を切ると隠せる位置ではあったから、冬場にカーディガンを手放せなくなった以外は不幸中の幸いだった。
時間が経てば、の言い訳は万能じゃないけど、今回はそれを使っても許されると信じたい。
その後は、体操服や制服は、半袖のシーズンでも長袖を特認してもらうことになった。体育では3年生に水泳が元々ない、それが救いだっただろうか。
私は部活内では何の役職も持ってなかったけど、恵梨香が転校したからパートリーダーを引き継いで、結局次の年のコンクールでは地方大会まで進むことができた。
後日談はもう1つある。いやむしろこっちの方が重要か。
私立高校には早々に受かり、その後年度末に引っ越すことになった。
公立高の入試に見事受かって引っ越してきた先がここ、北咲市。
地元の公立高校は全て県立だったので慣れないけど、市立高の予算は潤沢だと、入学してから噂で聞いた。
ホルン自体には悪い思いはなかったので、文武両道を掲げるその学校の元、吹奏楽を続けることにした。
その後1年下で入ってきた後輩が恵梨香に似ていて戸惑いかけたりもしたけど、中学時代よりずっと多い人数で、ここなら安心して楽器を吹いていられそうだと思った。
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タンスの外に、滋賀より早い桜が舞い始めた。
カーディガンは悪い思い出ではなくなった。
おばあちゃん、あの時体に付けちゃった傷は治りました。
次に戻ったときは、安心してまた着られそうです。
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