その25-2 全然知らなかったっつーの!

 あの日、音楽室で光に包まれ、そして意識を取り戻した少女が目の当たりにしたものは悠久の如く流れる大河であった。

 彼女がこの世界で飛ばされた場所は、パーカスの街からおよそ数キロ南に位置するリード河の東側だったとのこと。

 ここはどこだろう? みんなはどこだろう? 何故私はこんな所に?――

 様々な疑問は彼女をパニックに誘い、突如として訪れた孤独は彼女を絶望へと突き落とした。

 やがて何もできず、ただただその場にへたり込むしかなかった彼女の目の前で、無情にも陽は河の向こう側に沈みかけ、周囲は闇に包まれだす。

 だがこのままではだめだ。なんとかしないと――

 ようやく落ち着いてきた彼女は、唯一傍らにあったトロンボーンをケースに仕舞い、人気を求めて歩き出した。

 

 すっかり日は暮れ、闇夜に包まれた河沿いを怯えながら歩くことおよそ数時間、視界の先に見えた灯りに彼女は安堵の吐息を漏らす。

 そう、パーカスの街だった。

 だが、街に入ったアイコを待っていたのは、さらなる落胆だった。

 見た事もない街、行き交う人々は日本人と似ているが着ている服はまるで違う。

 ここは日本じゃない?では一体ここはどこなのだろう――と。

 それまで身体を支えていた『希望』という感情がこと切れ、彼女は思わずその場に座り込む。

 

 大丈夫かい君? どうしたの?――

 

 そんな彼女に投げかけられた男の声。

 空腹と疲労と絶望に打ちひしがれた少女には、救いの声に聞こえたのだ。


 だが、それが不運の始まりだった――

 


「人攫いだったらしいわ、その男」


 不機嫌そうに眉を顰め、エリコは持っていたティーカップを煽るようにして紅茶を飲み干す。

 『大陸の玄関』とも称されるパーカスは、それゆえに様々な人種が日々出入りしている港町だ。

 様々な物が売りに出される商売の街では何でも売れる。そう……たとえ『人間』でも。


 優しい言葉にまんまと釣られた彼女は、案内されるがまま男の後についていき、そして人気のない路地裏で待っていた複数の男達に囲まれて捕まった。

 恐怖で気を失った彼女が、目を覚ましたのは翌日。

 猿轡をされ、後ろ手に縄で縛られた状態で馬車に揺られ、男達の下卑た笑い顔に舐められるように見下され――

 そしてついた先は、とある奴隷商人の問屋だった。

 そこでようやく彼女は悟る。

 自分は売り飛ばされたのだ――と、


「こういうのは何だけれど、彼女『運が良かった』としか言いようがないわ。下手すれば、異国に売り飛ばされていたかもしれないし」


 それに、売り物にならなければ手籠めにされていた可能性だってあるのだ。

 何もされずに、しかも売り飛ばされたのがこの街の奴隷商人であったことは不幸中の幸いといえよう。


「なら、私も本当に運がよかっただけだったんですね……」


 自分もこの世界に飛ばされ、当てもなく彷徨っていた所を奴隷商人に捕まったのだ。話を聞いていたハルカはつい数週間前に体験した恐怖を思い出し、白い顔で震えながら俯いた。


 それを言うなら私なんか相当ラッキーだったのかもしれない。

 まったく未知な世界にたった一人放り出されたハルカやアイコと比べて、自分にはカッシー達が傍にいた。

 今思えば、それがどんなに心強いことだったのだろうと実感できる。

 そして他にも彼等同様に、一人この世界を彷徨っている仲間がいるはずなのだ。

 みんな無事だろうか。大丈夫だろうか――

 日笠さんは一人心の中で懸念を抱え、沈痛な面持ちで溜息をついた。


「それで、その後アイコちゃんはどうなったの?」

「彼女、しばらくの間奴隷市に出されてたらしいわ。でも、ある日男の子に声をかけられたらしいの」


 と、なっちゃんに先を促されエリコは話を続ける。

 奴隷として売りに出されることとなったアイコは、その後しばらくの間奴隷市に出され、買いに来た者達の、『物を見るような目』に晒されることとなった。

 そして碌な食事も与えられず、夜は寝床とも呼べない床の上で一晩を過ごし、絶望に涙を流す日々を送ることになる。


 そんな日々を過ごし早十日。

 丁度カッシー達がヴァイオリンを巻き込んだ陰謀劇の中で奮闘していた頃。

 

 きっと私はもう戻れない、でも……帰りたい――

 もはや涙も枯れ果て、生気のない顔つきで奴隷市場に座り込む彼女を呼ぶ者が現れたのである。


 ゆっくりと顔を上げた少女の瞳に映ったのは、港で声をかけてきたような怪しい輩ではなく、自分が良く知る少年だった。

 いつもはあまり表情を変えないその少年は、珍しく動揺を顔に浮かべ、そして彼は、もう一度はっきりと自分の名前を呼んでくれたのだ。

 

……井口? 井口だよな? ――と。

 

 絶望に耐えるために殺していた感情が彼女の心の奥底から込み上げてくる。

 途端に瞳に光を取り戻し、爆発したもろもろの感情と共にぽろぽろと涙を流し、アイコは思わずその少年に抱き着いていたのだ。


「男の子……」

「話からすると、そいつもオケの部員だよな?」


 アイコちゃんの名前を知っていた。

 それに彼女が反応したってことは、その少年も部員だろう。

 一体誰だ?――話を聞いていた日笠さんとカッシーは、同時にエリコを向き直り、そう表情で尋ねた。


「えっとね、確か……名前何だっけ?」

「『スズムラ君』ッスよ姫……」


 と、助け舟を出したチョクの言葉を聞いて、カッシー達は一斉にお互いを見合い、ぱっと顔を輝かせる。


『モッキー!』


 やにわに、同時に少年少女達の口から飛び出したその名前を聞き、エリコはトラウマを思い出しつつ、眉を顰めた。


「モッキーって、確かあのカジノで会ったいけすかない奴でしょ? やっぱりあいつ、アンタ達の仲間なワケ?」

「ああ、多分。あーその……まだあいつがモッキーかどうかはわかんないけどさ――」

「んーにゃ、あれはモッキーだぜ?」


 まだあいつがモッキーかどうかは確証がない。

 もしかするといわゆる『そっくりな人物ドッペルゲンガー』の可能性もあるのだ。

 だがあいまいな返答をしたカッシーに被せる様にして、こーへいは確信に満ちた表情で断言していた。

 まあ、どうせまた勘だろうが――


「ふーん、まあいいわ。それでそのモッキーって彼、アイコちゃんを助けようとしたらしいんだけど、奴隷商人と口論になっちゃったみたいなの――」

 

 なんとかアイコを奪い返そうと、強引に彼女の手を引っ張りモッキーはその場を去ろうとしたが、そうは問屋が卸すわけがない。

 慌ててやってきた奴隷商人と、その用心棒らしき屈強な男達が少年の前に立ちはだかり、当然ながら連れ出そうとしたモッキーを制したのだ。


 この娘は俺の仲間だ。奴隷なんて冗談じゃない――

 普段冷静な少年は、この時ばかりは執拗に商人に食い下がり、実力行使に出てまでアイコを奪い返そうとした。

 しかし騒ぎを聞きつけた警備隊の登場により、彼はやむなくその場を去る事を強要されることとなった。

 

 待っててくれ、必ず助けに戻るぴょん――そうアイコに言い残して。


 話を聞いてカッシー達は感心したように、各々を息を吐いていた。


「モッキーかっこいい!」 

「おーい、やるじゃん?」

「でもあいつ、そんな熱い奴だったっけ?」


 普段から無表情だし、不愛想だし、女の子とあまり絡まない硬派な印象だったのだが――

 後輩である面長な少年のことを思い浮かべ、カッシーは意外そうに口をへの字に曲げる。

 と、そんな我儘少年を、残念な子を見るような生暖かい視線で一斉に見つめ、他の五人はどう説明すべきか――と、言葉を探っていた。

 

「な、なんだよみんな。なにその目?」

「いや別に……カッシー知らないの?」

「なにが?」

モッキーとアイコちゃんあの二人が『そういう仲』ってことをよ」

「そういう仲――って、ちょっと待てボケ! あいつら付き合ってんのか?!」


 ようやく言葉の意味に気付いたカッシーは、吃驚して目をまん丸しながら思わず声を荒げる。

 憐れむような表情のまま日笠さん達はコクンと頷いてみせた。

 勿論皆、直接本人達から聞いたわけではない。

 だが、あの二人の様子を見ていれば、普通わかりそうなものだろう。

 鈍い奴だと思っていたがここまで鈍感だったとは――

 なっちゃんはやれやれと肩を竦め、日笠さんは溜息を吐き、各々呆れたように我儘少年を見ていた。


「マジかよ!? いつからだ?」

「うーん、去年の今頃くらいですかね、日笠先輩?」

「多分それくらいかな」

「一年前じゃねーかボケッ! 全然知らなかったっつーの! あいつそんなこと言わなかったし」

「普通は言わないでしょ。私だって別に聞いた訳じゃないよ?」

「こーへい。お前、知ってたか?」

「いやー、そりゃなー? てか普通わかんだろ?」

「うっ……知らなかったの俺だけかよ」

「柏木君大丈夫よ。多分かのーも気づいていないはずだから――」

「あのバカと一緒にしないでくれ! 余計傷つくだろ!」

「もうそれくらいにしてあげたら? カッシー泣いちゃうから^^」

「だ れ が 泣 く か ボ ケ ッ !」


 ノルマ達成。

 案の定ブチ切れたカッシーを見つめ、なっちゃんはクスクスと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 どこの世界も恋話ってのは盛り上がるものね――と、ワイワイ脱線しだした少年少女達を眺めつつエリコは苦笑を浮かべていた。


「で、鈍いカッシーはほっといて話続けていい?」

「あ、すいません。エリコ王女お願いします」

「鈍いって言うな! 結構ショック受けてんのに」

「どこまで話したっけ? えっと、モッキーが逃げて行ってその後、アイコちゃんはしばらくモッキーが戻ってくるのを待っていたらしいんだけど――」


 必ず戻る――そう言い残してモッキーが去ってから三日後。

 アイコの身に転機が訪れる。

 そう、遂に買い手が現れたのだ。

 彼女を気に入ったらしい、身なりの良い男が奴隷商人と何やら商談を始めたのに気づき、アイコは青ざめた。

 しかし無情にも商談は成立し、彼女はとうとう売り払われることとなったのだ。


 明日また来ると市場を去ったその男を見送り、奴隷商人はご機嫌でアイコに身体を洗い、服を変えろと命令する。

 このままで鈴村君と会えなくなる。

 いやそれだけじゃない。きっともう元の世界には戻れなくなる。そんな気がしたのだ。

 何とかしなければ――

 そう決心したアイコは、気弱な彼女には珍しく大胆な行動に出たのである。


 その日の夜、彼女は風呂に入ると見せかけ、商人の監視が緩くなったその隙を狙って、奴隷商人の家から逃げ出したのだった。

 まさに着の身着のまま、麻の布一枚で――


 結果は奇跡的ではあったが見事成功。

 彼女は西地区にある奴隷市場を抜け出し、当てもないままがむしゃらに走り。

 そして、いつしか街の外れも外れまでやって来た所で精根尽き果て、倒れるようにして身を隠したところが街外れの馬車屋の裏手――

 つまりトッシュの店だったのだ。


「トッシュさんも最初は吃驚したみたい。急に音がしたから泥棒かと思ったらしいわ」

 

 夜中に家の裏で物音がしたから出て行ってみたら、そこにいたのは布一枚で身を包み、寒さと恐怖に震える少女――

 ランプの灯りで照らされた彼女は、赤髪碧眼の自分を怯えた眼差しで見ていたが、やがて消え入るような声でこういったのだ。

 

 お願い……助けて下さい――と

 

 その怯える瞳には見覚えがあった。

 そして何となくだが、彼女がどういう境遇から逃げてきたのかトッシュには感じ取ることができた。

 ややもって。

 膝を抱えて諦めたように再び俯いた少女の肩に、自らが羽織っていたベストをそっと掛け、彼はにこりと穏やかに微笑んでみせたのだ。


 それがおよそ一週間前のこと。

 そして今に至るというわけだ。

 

「逃げ出した奴隷を匿うのって罪になるの」

「そういえばウエダも言ってたな……」

「だからトッシュさんも迷ったと思う。でも結局彼女を匿った……相当の覚悟だったはず」


 この大陸では奴隷制度は合法なのだ。

 売り物として扱われている奴隷を、持ち主に黙って匿うということは、この大陸では違法に当たる。

 それでも私を匿ってくれたおばさんも、トッシュさんと同じ気持ちと覚悟だったのだろうか――

 ハルカはふとノトの心境を慮り、感謝するようにぎゅっと手を握る。


「なあ、エリコ王女さ。何とかしてこの制度変えられないのか?」

「私一人じゃ無理。奴隷が必要と考えてる者はまだまだ大勢いるわ。そう言った者達がいる限り制度を撤廃するのは難しいわね」


 奴隷制度なんてカビの生えた化石のような制度と思っている。

 とてもじゃないが好きにはなれないし、なくなればいいのにとも思っている。

 けれど、王族の身といえど一人の力では、大陸に根強く染みついたこの制度を撤廃することは難しい。

 奴隷に代わる画期的な労力が普及すれば話は別だが、それはいつの話になるだろう。

 エリコは悔しそうにカリカリと眉間を擦りつつ、カッシーの問いかけに答えた。

 

「ま、そういう訳でアイコちゃんは今トッシュさんが匿っているのだけど、奴隷商人は今も彼女を捜しているみたいなの」

「なるほど。それでアイコちゃんを見つからないように連れ出してほしいと――そういうことか」

「んー、そんじゃあさ? 運んでほしいもう一人の少年ってのは、やっぱ――」

「そ、モッキーのこと。トッシュさんはスズムラ君、っていってたけどね」


 コトリとティーカップをテーブルに置きながらエリコはこーへいの問いかけに答えた。

 これで合点がいった。カッシー達は、納得したように各々うんうん、と頷く。


「これでいい? アイコちゃん達を密かに運ぶ理由はなぜか? それにもう一人の少年が誰なのか? わかってもらえた?」

「ええ。ありがとうございますエリコ王女」

「……一つ確認したいことがあるんだけど、いいかしら?」


 と、日笠さんが代表で礼を述べると同時だった。

 話を聞き終え状況を整理していた微笑みの少女が、ピンと人差し指を立ててエリコを向き直る。

 


 どうぞ――と、エリコが手を差し出して先を促すと、なっちゃんは話を始めた。

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