その5-2 『あいつ』

 現れたエリコのその瞳を見て少年は目を疑った。

 ゆっくりと『統べる者』の威厳と共に馬車から降りたつ彼女の瞳は、昼間見た栗色のそれではなく、紅い光を宿していたからだ。

 闇の中で爛々とまるで紅玉ルビー……いや鳩血紅玉ピジョンブラッドのように真っ赤に、そして禍々しく輝くその眼光。

 なんだあの瞳は――その輝きに、なんともいえぬ冷たさを感じ、カッシーは思わず息を呑む。

 

「姫、危険ッス。中でお待ちください!」


 チョクがすぐさま馬車へ戻るよう彼女を制したが、自分の身を案じて投げかけられたその言葉に対し、エリコは鬱陶しそうに眉根を寄せて一度舌打ちすると、彼を睨み付ける。


「アンタさぁ、こんな獣ごときに何を手こずってんのよ? さっさとなんとかしなさい!」

「トホホ……厳しいッスねえ姫は」


 怒気を含んで放たれた彼女の辛辣な言葉に、眼鏡の青年はやれやれと苦笑した。


「ったりまえでしょ! 狼ごとき三秒で追い払って当たり前!」


 言うが早いがエリコは鞭を振るい、狼二匹を一瞬にして払い除けた。

 空を切り裂き、唸りをあげて繰り出された鞭は、狼の銀色の毛皮を引き裂き血を滲ませる。獣の群れはたまらず尻尾を撒いて彼女から間合いを取りはじめた。


「こんな感じでね?」


 フンと得意げに鼻息をつき、エリコはどうよ?――とチョクを見る。彼女のその瞳は元の栗色へと戻っていた。もう紅い輝きは見えない。

 さっきのは一体何だったのだろう。見間違えではなかったはずだ――

 解せぬ気持ちを抱きながらカッシーは口をへの字に曲げた。


 と、好機と見た東山さんが、割れた窓から外へと飛び出し、エリコの傍らへと着地する。

  

「加勢します王女様」

「助かるわ、エミちゃんだっけ?」


 腕を鳴らしつつ狼達を睨み付けるの隣で、は、鞭を手元へ手繰り寄せ、大きく一回それを引っ張りながら強気な笑みを浮かべた。


 『恐れ』と『畏れ』――それぞれの感情を獣へと芽生えさせた二人の人物が揃い踏み、ずずいと一歩足を踏み込むと、残った狼達は本能的に後退る。


 刹那。

  

「踊れ踊れ道具の精よ――」


 馬車の中から聞こえて来た聞き覚えのある『詠唱フレーズ』と、その少女の詠唱と合わせるようにして奏でられ始めた、重厚で優雅なチェロの旋律に一同は顔をあげる。


 やにわにカッシーの背後で一際火の勢いが増したかと思うと、焚き木が爆ぜる音と共に、狼の苦痛に悶える鳴き声が木霊した。

 生命の息吹を受けた薪の一つが、ぴょこんと跳ねて近くにいた狼に飛び掛かったのだ。

 言うまでもなく、日笠さんの発動したペンダント『魔法使いの弟子』の効果である。振り返ったカッシーの視界では、焚き木の直撃を受け、狼が体に移った火を消そうと必死に転がりまわっていた。


 動揺する獣達の群れの中央で、追撃とばかりに今度は眩い閃光が解き放たれる。

 今のはペンダントの効果ではないはずだ。となると聞こえてくるこの曲の効果だろうか。

 反射的に顔を背けてその閃光を逸らしながら、カッシーはチェロの調べに耳を澄ました。

 

 聞こえてきたその調べの正体は、シャルル・カミーユ・サン=サーンス作曲 組曲『動物の謝肉祭』より『白鳥』――


 チェロの独奏により語られるその曲名をカッシーが脳裏に思い描いた直後、鳥の形をした新たな白色の光が、甲高い鳴き声と共に天から姿を現す。

 例えるならそれは『光の白鳥』。

 上空より舞い降りたその光の鳥は、地すれすれで旋回し、少年の脇を通過して獣の群れへと飛び込んでいった。

 眩いばかりの閃光が再び巻き起こる。閃光に網膜を焼かれ、たまらず狼達は情けない悲鳴をあげながら悶えだした。


「ムフ、チャーンス♪」

 

 ここぞとばかりにバカ少年が投げた松ぼっくり弾が頭上に降り注ぎ、狼の群れはますますもって統率を乱す。


「エリコ王女! 恵美! 援護します!」

「やるじゃない! これが噂の『楽器の奇跡』ってやつ?」


 今が好機だ。一気に片を付けてやる。

 初めて見た噂の奇跡に興奮と賞賛の声をあげていたエリコは、日笠さん達の粋な援護に背中を押されるようにして、狼の群れへと飛び込んだ。

 間髪入れず、紅いコンバースが地を蹴る小気味よい音がその後に続く。言わずもがな東山さんだ。

 

 形成は一気に逆転した。

 日笠さんの『魔法使いの弟子』となっちゃんの『白鳥』の効果で攪乱された狼達は、瞬く間に大混乱に陥り、連携もままならず、逆にエリコと東山さんの息の合ったコンビプレーによって各個撃破されていった。


 そんな女性陣の活躍を眺めつつ、カッシーとこーへいはやり切れぬ思いを抱きながら、がっくりと肩を落とす。


「……なんかよぉ? 俺らイイトコなしじゃね?」

「……いうなこーへい、わかってる」


 なんだってこう、うちの女子部員は偉く肝の据わった子達ばかりなのだろう。

 前は冗談のつもりだったが、今は心底こう思う。

 やはりうちの部はマジで『女は度胸、男は愛嬌』かもしれない――と。

 

 と、一際よく響く、見事な一音が森の中に木霊する。

 先刻も聞いた群れのボスらしき狼の遠吠えだった。

 混乱に陥っていた銀色の獣達はその一吠えで我に返ったように一斉に動きを止め、ボスを振り返る。


 周囲の狼より一回り大きいそのボスは、仲間の視線を余所にただひたすらに森の奥一点を見つめ、耳をピンと立てていた。

 だがやにわに『彼』は仲間を振り返ると、短くもよく通る遠吠えをもう一度奏でたのだ。


 獣の群れはその声を聞くや一斉に後退り、カッシー達から距離をとる。

 そして彼等は現れた時と同様に、見事な引き際で茂みの中へとその姿を消していった。

 訝し気にその様子を眺めていたカッシーは、不意に自分を見つめる視線に気づき、最後まで残っていた『ボス』へと向き直る。


 勝負はお預けだ――


 まるでそう言いたげに小さく吠えると、『彼』は踵を返しゆっくりと森の奥へと走り去った。

 再び森の静謐が焚き火の周りに舞い戻る。

 とりあえず危機は去ったようだ。


「に、逃げたのかな?」

「そうみたいだ……」


 けど、なんだあの最後の遠吠えは?――なんとなく違和感を覚え、カッシーは口をへの字に曲げつつ、憮然とした表情でブロードソードを鞘へ戻す。


「もう、何なの突然……」


 『たまらず逃げた』にしては、引き際がやけに潔ぎよ過ぎる。混乱に陥っていたとはいえ、それでも狼はまだまだかなりの数が残っていたのだ。


 にもかかわらず彼等は撤退した。そう、


 エリコはカリカリと眉間を人差し指で搔きながら、納得のいかない様子で舌を鳴らす。それは東山さんも同じであったようで、彼女も未だ怪訝そうに狼達が消えていった森の奥を見つめ続けていた。



 と――

 


 気のせいだろうか。

 微妙に地が揺れた気がしてカッシーは眉根を寄せる。

 

「……なんか揺れてね?」


 やはり間違いではなかったようだ。

 我儘少年の表情に気づいて、こーへいは火をつけようと咥えていた煙草をプラプラさせつつ、動きを止める。


 いや、彼らだけではない。

 馬車の中にいた日笠さんとなっちゃんを除き、外にいた全員が確かに地が揺れたこと感じ取り、周囲の様子を窺っていたのだ。

 

 再度地が揺れる。

 今度はズン――と、まではっきりと聞こえた。


「これって――」

「――足音?」


 まさしく言おうとしていたことを代弁してくれた東山さんを向き直り、カッシーはコクンと頷く。

 だが時間にしておよそ二秒。 

 少し離れた場所から何かが衝突したような激しい音が響き渡ったかと思うと、メリメリと嫌な音をたて大樹のシルエットが傾いていくのが見えた。

 間を置かずして、それはそれは大きな倒木音が森の中に木霊し、少年少女は思わず身を竦める。

 驚いた鳥の群れが鳴き声をあげつつ一斉に夜空に飛び立ったのが見えた。


「……おーい、なんかさー? すっげーやべー気がすんだけどよー?」


 途端に勘が大きな大きな警鐘を鳴らし始め、こーへいは珍しく神妙な顔つきで皆を振り返る。

 だが勘などなくても、やばいことくらいすぐわかった。

 嗚呼、冗談だろ? この展開、前映画かなんかで観た事があるぞ。

 しかもあろうことか『恐竜映画』だ――月光の下、飛び立った鳥群の影を見上げ、カッシーはごくりと生唾を飲み込んでいた。

 

「チョク、逃げるわよ!」

「わかってるっス!」


 即座に響き渡った『お騒がせ王女』の緊迫した号令と、既に逃げ支度を始めていた眼鏡の青年の間髪入れない返事が少年の思考を現実へと引き戻す。


 再びの再び、地響きが起こった。

 今度は先刻よりも近くでだ。

 明らかにこの足音の『主』は、こちらへと向かって来ている。


「アンタ達もぼさっとしてないで、早く馬車に乗って!」


 馬車の階段に足をかけ、こちらを振り返ってエリコが手招きした。

 少年少女は一斉に馬車へと駆け出す。


 足音はもはや地震と見紛うばかりに大きく、そして鮮明になっていた。


 何かがそこまで来ていた。


 そう。

 

 それは確実に巨大な『何か』――

 


「早く早く! 乗って乗って!」 

「あのエリコ王女、逃げるってどういうことですか?」


 馬車内にいたせいで、外の様子をいまいち把握できいなかった日笠さんは、駆け込んできたエリコへ不安そうに尋ねた。


「そのまんまの意味よ。流石に『あいつ』の相手はムリ」


 続けざまにカッシー、こーへい、東山さんが馬車に乗り込んで来たのを確認した後、エリコは珍しく日笠さんを真顔で覗き込むと、胸元でパタパタと小さく手を振ってみせる。


「あ、『あいつ』?! あいつってなんd――」

「――出発するッス! みんなしっかり掴まっててください!」


 だがエリコの返事を待たずして、チョクの掛け声と共に、四頭の白馬は嘶きをあげて走りだした。

 馬車は急発進し、その身を揺らしながら茂みを掻き分け森の中へ突っ込んでゆく。

 

「ドゥッフ!? チョット待って! オイテかないデー!」


 ズシン!――と何かが体当たりをし。

 メキメキと軋みをあげて、倒壊を始めた樹に気づくと、かのーは助走をつけて枝の上からダイブする。


 バカ少年が青ざめた表情と共に、進みだした馬車の屋根にギリギリで着地すると同時に、『あいつ』は姿を現した。


 ズシンと地響きをあげ、大樹のような脚で焚き火をもみ消し。

 山のような巨体をのっそりと月光の下、悠々と掲げ――


 『あいつ』は一際巨大なギョロ眼を左右バラバラに動かし、一目散に逃げていく馬車を捕捉した。

 

 

 途端、森の中に響き渡る大咆哮。

 壊れたチューバが何台も同時にフォルテッシッシモを奏でるかの如く。

 聞いた者の本能から身を竦ませる『敵意剥き出しの叫びフェルマータ』を腹の底からあげながら――


 

 その『二足歩行のカメレオン』という表現がぴったりな巨大トカゲは、馬車目がけて追走を開始した。

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