その5-1 おちおち寝てもいられない
冷たい月光のような見事な銀色をした毛皮が、焚き火の光に照らされて僅かに朱色を帯びている。
「……おーい、なんだぁ?」
「ドゥッフ!? なんディスカーアレー!?」
寝起きにも拘わらず最悪のものが見えてしまい、勘弁してくれと言わんばかりにぼやいたこーへいとかのーを背に、カッシーはブロードソードを抜き放つ。
実物見るのは初めてだが、狼って結構でかいんだな。
犬より一回りはでかい。けど顔つきが全然違う。
犬は優しい。とっても優しい。犬は大好きだ。
けど、狼はなんつーかあれだ。
あれは殺し屋の顔つきだ。
やっべぇ、超怖い。友達にはなれないな――
こんな窮地にもかかわらず間抜けな感想を思い浮かべ、一頭、また一頭と茂みからその姿を現わす狼達を見据えながら、カッシーは剣の柄を握りしめる。
「狼は知ってるッスか? そっちの世界にも?」
「ああ、いる」
「なら説明はいらないッスね」
よしと頷いて、チョクも
獣の群れはゆっくりと円を描くように少年たちの周りを囲んでいく。
そして今にも飛びかからんとする勢いで前肢を折って屈み、黄色い牙を剥き出しにしながら喉奥で低く唸り声をあげだした。
逃がしはしない――
あちらさんの準備は完了のようだ。まるでそう言っているように見える。
「おーい、まずくねー?」
毎度のことながら、言葉とは裏腹にまったく緊張感のない口調でそう呟きながら、こーへいもやむなく腰に下げていた
かのーといえば、一応やる気の姿勢を見せて棒を構えてはいるが、その視線はキョロキョロと包囲の手薄な部分を抜け目なく探しているようだった。
逃げる気だ。こいつ絶対逃げる気だろ!――カッシーはそんなバカ少年を牽制するようにギロリと睨みつけていた。
両者準備完了、まさに一触即発。
と――
やにわに一際立派な毛並みを持った狼が、天高く遠吠えを放った。
森の中に木霊する、見事な獣の咆哮。
それが戦闘開始の合図だった。
弦より放たれた銀の矢と化し、狼達は一斉にカッシー達へ襲い掛かる。
「あとヨロシクディース!」
言うが早いが、かのーは手に持っていた棒を地に突き立て、棒高跳びの要領で狼の頭上を飛び越える。
そして見事に獣の群れの背後に着地すると、超人的な瞬発力を発揮し、あっという間にひょいひょいと樹木の上へとよじ登っていった。
あいつは本当に人間か?!――止める間もなく瞬時に戦線離脱していったバカ少年を、カッシーは悔しそうに歯噛みしながら眺めていた。
だがそんな場合ではなかったと、彼は慌ててブロードソードを構え直し、目前に迫った狼達を見据える。
獣の恐ろしさはその俊敏さだ。そしてはっきりいえば人間より手強い。
ど素人のこの少年はそんな事知りもしなかったが、身をもってその手強さを味わうこととなった。
「うおっ!?」
一瞬にして間合いを詰め、喉元目がけて迫る真っ赤な口と黄色い牙に、慌ててカッシーは防御の姿勢をとる。
間一髪でブロードソードが牙を遮り、なんとか
強かに強打した背中が痛む。だが構っている暇はない。執念深く咽喉を食い千切ろうと押し迫る牙を、カッシーは必至にブロードソードで受け止め押し返す。
「おい、カッシー!」
こりゃやべーな――こーへいは慌ててカッシーを助けようと足を踏み出した。
だが真横から別の狼が迫っていることに気づき、やむなく足を止める。
彼の勘が警鐘を鳴らし始めたのだ。
下に避けろ――と。
ほいほいわかってんぜ、
「あらよっと!」
そのまま彼は身を捻り、飛び掛かって来た相手の勢いを利用して獣を地に叩きつける。喉元を押し付けられ、かつ背中から勢いよく叩きつけられた狼は、悲鳴と共にぐったりと動きを止めた。
とどめとばかりにトマホークを振り上げたクマ少年はだが僅かの思案の後、命を取るまではないかと構えていたそれを下げる。
しかし今のは紙一重だったぜ、あぶねーあぶねー――ふぅと息をつき、だが彼はすぐさま襲われていた我儘少年のことを思い出して向き直った。
と、視線の先に歯を食いしばり、ブロードソード越しに銀狼を押し返すカッシーの姿を見つけて、こーへいはにんまりと笑う。
「おーいカッシー、平気かー?」
「ぐぎぎぎ……平気じゃないっつの……! 早く助けてくれ!」
喉の奥から絞りだした震え声でカッシーは返事する。
状況はあまりよくないようだ。狼は観念しろといわんばかりに低い唸り声をあげ、後肢で地を蹴って少年の咽喉を食い千切らんとガチガチと何度も咬合させていた。
「へーいへい……」
無駄な殺生はしたかねーがこの際しかたねーか――
浮かべた笑みを取り消して、こーへいは手にしたトマホークを振りかぶる。
刹那。
遥か頭上から拳大の物体が飛来したかと思うと、測ったように狼の頭部へと直撃した。
意表をつかれた狼は獣特有の悲鳴をあげて思わず身をのけ反らせる。
「ふっ!」
一瞬ではあるが隙が生じる。カッシーは渾身の力を込めて狼の腹部を蹴り飛ばすと馬乗りされた状態からかろうじて脱した。そして急いで跳ね起き、残心と共に剣を構える。
派手に吹っ飛んだ狼はすぐに起き上がると、口惜しさと怒りに満ちた表情でカッシーへと唸り声をあげた。
助かった。危うく餌になるところだったぜ。けどなんだったんだ今の?――
背筋が冷たくなるのを感じながらも、カッシーは安堵の吐息をついた。
「バッフゥー、ブルズアーイ!」
だが頭上からケタケタと人を小ばかにするような笑い声が聞こえきて、少年は全てを悟る。
ああなるほどな。あいつだったのかよ――と。
「かのーっ!」
油断せずに狼を見据えながら僅かに顔を上げ、そこに見えた太い枝の上で野球ボール大の松ぼっくりをお手玉するバカ少年の『したり顔』に向けて、カッシーは叫んだ。
「ムフ、よろこべカッシー。このオレサマが援護してやるディス」
「何を偉そうにっ! お前も降りて来て戦えっつーの!」
「エー? コワイからヤダー」
「この薄情者! 一目散に逃げやがって、後で覚えてやがれ!」
そんな我儘少年の怒りもどこ吹く風。かのーは余裕の表情で再びケタケタと笑い声をあげた。
なるほど、相手の
怒れる我儘少年とは裏腹に、こーへいは感心しながらかのーを見上げていた。
だが、言い争っている場合ではないこの状況。
「おーい、カッシー『おかわり』きてんぜ?」
こーへいの声が聞こえて来て(相変わらず内容と裏腹に緊張感のない声であったが)、カッシーは再び正眼の構えをとる。やにわに一気に三頭もの狼がほぼ同時にこちら目がけて飛び込んでくるのが見えて、彼は思わず顔を引きつらせた。
一匹であれだけ苦戦したってのに三匹同時かよ!? どうする? 避けるか? 迎撃するか?――
「んー、俺が『1』の、カッシー『2』な?」
「はぁ?! ちょっと待てこのクマ!」
きたねーぞ!?
そう声を発する時間はもはやなく、カッシーはやぶれかぶれでブロードソードを振り上げる。
刹那。
少年と狼の間に割って入った影が、手にしたレイピアを振るってあっという間に獣を無力化させた。
瞬きするほどの、ほんの一瞬だった。
的確に狼の眼に向けて放たれた剣先が、凪ぐようにしてその視力を奪い、獣の群れは瞼から血を流しつつ、悲鳴に近い咆哮をあげてその場に蹲ったのだ。
「遅くなったっス、怪我はないっスか二人とも?」
影の主――即ち、チョクはそう言ってカッシーとこーへいを庇うように前に立つと、油断なくレイピアを構え直す。
倒すのではなく、視力を奪えば獣は怯えて抵抗しなくなる。先の冒険でこの青年はそれを学んでいる。普段お騒がせ王女に散々無理難題をけしかけられ、べそをかいているあの青年とは同一人物とは思えぬほど、彼が振るったレイピアの軌跡は流麗にして的確であった。
ちなみに彼が当初相手をしていた狼の群れは、既に一掃されその身を地に伏していたことを追記しておこう。
「チョクさん悪い。助かった」
「どういたしましてッスよカシワギ殿」
彼も『英雄』と呼ばれる一人だったっけか。人は見かけによらないものだ――カッシーはほっと安堵の息を吐きつつ、傍らに立つ頼もしき青年の背に向けて礼を述べる。
「あとそのさ、チョクさん。
「ハハ、それじゃカッシー、よく聞いてほしいッス」
よろよろと前線を離脱していく手負いの狼の後ろで、新手の獣達が虎視眈々と隙を伺っているのがわかる。
その中の数匹が視界の端で馬車と馬を狙っているのに気づくと、チョクは眉根を寄せつつカッシーに向かって言った。
「狼の怖いところはその連携ッス。相手にする時は決して死角を作らないよう、周りにも気をつけて戦うッス」
「わかった」
「俺は馬車を護るっス、ここは任せてもイイッスか?」
「……やってみる!」
もちろん自信なんてないが、やるしかないのは重々承知だ。
チョクの言葉に頷きながら答えると、カッシーはグッとブロードソードを握る手に力を込めた。 緊張は感じられるが、覚悟を決めた歯切れの良い返事だ――チョクは少年の横顔をちらりと眺め、微笑を浮かべるとそのまま踵を返して馬車へと走り出す。
そして、今にも白馬に飛びかかろうとしていた狼達へレイピアを突き出した。
「てあっ!」
掛け声と共に繰り出されたレイピアの切っ先は、白馬の首に食らいつこうとしていた牙主の前肢付け根を正確に穿つ。
ギャウン!――と悲痛な鳴き声をあげて、狼は肢体を宙へと跳ね上げ背中から地に伏した。
「おうおう! 落ち着くっス! 大丈夫」
驚いて暴れだした白馬達の首を撫でて宥めつつ、チョクは油断なく残る狼達へとレイピアを向ける。
直後、背後でガラスの割れる音が響いた。同時に馬車の中からあがる少女の悲鳴。
チョクは慌てて馬車を振り返る。
窓を割り、激しく威嚇の咆哮を繰り返しながら侵入を試みる狼の下半身が見えて彼はしまった、と舌打ちした。
「日笠さん!?」
「おーい、平気かー?」
今の悲鳴は聞き覚えがあった――焚き火を背に、お互いを庇う様にして狼達を迎撃していたカッシーとこーへいも、聞こえて来たその悲鳴に剣呑な表情を浮かべる。
だがしかし――
少年達の呼びかけに対して、返事の代わりに聞こえてきたのは狼の悲痛な鳴き声だった。次の瞬間、馬車の中に首を突っ込んでいたはずの獣の体は派手に吹っ飛び、不幸にも焚き火の中へとその身を突っ込ませる羽目になった。
傍にいたカッシー達は獣によって舞い上がった火の粉に吃驚しながら後退る。
慌てて火から飛び出した狼が、悲し気な鳴き声をまき散らし、火だるまのまま森の中へと逃げていくのを目で追いながら、訳が分からず呆気に取られていたカッシーとこーへいはややもって馬車を振り返った。
見えたのは窓の中からにょきっと飛び出た女性の左手と、威風堂々焚き火の灯りを反射して光る『風紀』の腕章――
「まさかな……」
「いやー、あのお方しかいねーだろ?」
おいおい狼を殴ったのか? 咬まれるかもしれないってのに、まったくもって大した度胸だ――カッシーとこーへいは呆れと感心、半々の入り混じったため息とともに、突き出していたその拳をまじまじと眺めてぼやく。
「柏木君、中井君、そっちは無事?」
ひょいっと拳が引っ込み、代わりに窓から身を乗り出した鉄拳の主――東山さんは二人を見つけて一息つくと、表情を和らげる。男子二名は、返事の代わりにコクコクと畏敬の意と共に頷いてその問いかけに応えていたが。
と、彼女の傍らから先刻の悲鳴の主である少女も顔を覗かせる。幾分青ざめた表情ながらも、日笠さんはカッシー達の姿を視界に捉えると健気に笑って見せた。
「日笠さん平気か?!」
「大丈夫、恵美が守ってくれたから」
よかった。特に怪我もなさそうだ。カッシーはほっと息をつく。
「でも一体なんなのこの騒ぎは? 中井君、ちゃんとカレー片付けた?」
「おーい、俺のせいかよぉ? エリコ王女が全部食っちまっただろ?」
さて無駄話もここまでだ。
勘弁してくれと眉尻を下げたこーへいに対してクスリと笑うと、東山さんは一転臨戦モードに入る。
「まったく……おちおち寝てもいられないわね」
ギロリと。
威嚇するように眉間にシワを寄せて少女は狼達を一瞥した。
途端全身を走り抜けた正体不明の『悪寒』に怯え、獣の群れはしきりに吠え始める。
やはり獣といえど、いや獣だからこそ、彼女の怖さがわかるのだろうか。『クマ』少年は怯える狼達に同情するようにその光景を眺めていた。
どうなる事かと思ったが、何とか無事のようだな――一方で馬を守りつつ様子を窺っていたチョクは、安堵の表情を浮かべると丸眼鏡を指で押し上げる。
だが刹那。
バン!――と、乱暴に馬車の扉が蹴り開けられ、温厚な眼鏡青年の顔は再び不安の色に染まったのだった。
ある程度予感はしていた。そう、
はたしてチョクの予想通り、カツ、カツとヒールの音を響かせながら馬車から降りて来たあのお方=『お騒がせ王女』は、寝起きの不機嫌さを隠すことなくその端正な顔に露わにし、獣の群れへと
「ギャンギャンギャンギャン喧しいこの犬っコロ! 今何時だと思ってんのよ?!」
途端、森の中に乾いた鞭の音が響き渡る。
音高無双の少女が放つ凄まじい威圧に怯え、吠え続けていた狼達はたちまち水を打ったように静まり返った。
『恐れ』、いや『畏れ』と表現したほうが近いだろうか。
獣の『第六感』がこう訴えていたのだ。
抗うな、逃げろ。
さもなければ死ぬぞ?――と。
「覚悟できてんでしょうね畜生ども!! アタシの眠りを妨げた罪は重いわよ……覚悟しなさい!!」
再度響く、鞭の弾ける音。
額にいくつもの青筋を浮かべ、手に持つ愛用の鞭を撓らせ、エリコはギラリとその瞳を輝かせたのであった。
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