その4-1 うまっ!

三十分後。



「なによこれ?! めっちゃいい匂いするじゃん!」

 

 エリコはクマ少年がかき混ぜていた寸胴の中身を覗き込み、ぱっと顔を明るくした。

 

 野宿なんか嫌だ! スイートルームのベッドがいい!――と、駄々をこねていたエリコであったが、しかし流石のお騒がせ王女も、それが避けられぬ状況であるということは薄々感じていた。

 だとしても納得がいかない。そりゃ半分は自分の運転のせいだけど、けどもう半分は私に運転を任せたチョクのせいだ!――と、十割自分の過失であることを棚にあげ、彼女は野営の支度に取り掛かっていた眼鏡青年を恨めし気に睨みながら、子供のように不貞腐れていたのだ。

 

 だが朽木に腰かけブー垂れていた彼女は、やにわに漂い始めた何とも言えぬ芳醇な香辛料の香りに、ものの見事に鼻腔と(ついでに好奇心まで)くすぐられ、こうしてやって来ていたのである。

 先般までの不機嫌さはどこにいったのか。今やすっかり鍋の中身にご執心であった。

 

 寸胴の中身は茶色いスープだった。キノコに干し肉、それに芋と数種の野菜が見える。

 シチューにも見えるが、だが食欲をそそる何ともスパイシーな香りだ。こんな料理は見た事もない。

 

「お、この匂い……もしかしてカレーか?」


 と、薪のおかわりを調達し終え帰って来たカッシーは、目を輝かせながらクマ少年に尋ねた。

 だがそこでエリコがいることに気づき、途端に憮然とした表情を浮かべる。それはエリコも一緒で二人は目が合った途端、ぷいっとそっぽを向き合っていた。

 そんな二人を傍目にクマ少年は猫口の端ににんまりと笑みを浮かべる。


「まあカレーっつーか、スープカレーもどきだけどなー?」


 この世界について早々味わったあのひもじい思い出……あんな思いはもうこりごりだ、と以前このクマ少年は城下町を見物に出た際語っていた。

 だから彼は、ヴァイオリンを出発する前日、準備のために城下町に出た際に、東山さんと二人で市場を回って、保存の利く食材を調達していたのである。


 見るもの全てが新鮮で、元の世界では見た事がないような食材が並ぶその市場で、特にこの少年の目を引いたのは、様々な調味料と香辛料だった。

 長旅となれば、碌な食材も手に入らない事だってある。そういったことを見越して、彼は真っ先にそれらを選んでいたのだ。

 その際、これはもしかしていけんじゃね?――と、持ち前の嗅覚と勘で選んだ数種類のスパイスがこのカレーだ。そしてそのチョイスは見事に当たっていたといえよう。

 まあとろみをつけるには、幾分食材が足りなかったので臨機応変にスープカレーへ変更をしていたが、今彼が掻き混ぜる目の前の寸胴から漂う匂いは、紛うこと無きカレーのそれであった。

 ちなみにこの寸胴や調理器具も、東山さんと二人で購入していたものである。


 キャンプの定番といえばやはりカレーこれ

 カッシーだけでなく、日笠さんやなっちゃんも漂ってくる匂いについつい可愛くお腹を鳴らしてしまっていたのは秘密だ。

 

「へぇー、カレーっていうんだ」

「いい匂いッスね。どこの料理ッスか?」


 初めて見る料理に興味津々といった様子のエリコとチョクに尋ねられ、さてどう答えたものか――と、こーへいは困ったように眉根を寄せる。


「んー……そうだなあ、うちらの故郷のソウルフードってか?」

「それは楽しみッスね」 

「そういやアンタ達ってさ、どこから来たの? やけにハ・オン語がうまいけど、この国の生まれじゃないでしょ?」


 この子達はどこから来たのだろう――と。

 ついさっきまで険悪であった間柄であることもすっかり忘れ、エリコはずずいとカッシーの顔を覗き込んで尋ねた。


 こんな料理は見た事もないし、彼等は『オクターブ』というこの国の尺度も知らなかった。

 おまけにとにかく地理に疎い。大陸の人間なら誰でも知ってるくらい有名なこのオーボエの森も知らないようだったし。

 だが『無知』だからというわけでもなさそうなのだ。

 世間知らずというか、おのぼりさんというか、まるでこの大陸に初めて来た異国人のような雰囲気がこの少年少女らからは感じられるのだ。


「あーそれはその――」

「姫、詮索するのは失礼ッスよ。彼等には彼等の事情が――」


 と、問いを受けたカッシーが困ったように目を逸らしたのに気付き、チョクは助け舟を出す。

 彼もそれとなくこの少年少女らがこの国の者ではないと勘付いていたが、彼らがそれを話そうとしない限りはあえて聞かないでおいたのだ。

 だがエリコは真顔で首を振って応える。


「いいじゃない、これから一緒に旅するんだもの」


 お互い隠し事はなしだ――そう言いたげにお騒がせ王女はカッシーに指を突きつけ先を促した。


「どこの国から来たの?ツェンファとか?」

「ツェ、ツェンファ?」

「違うの? じゃあ、スタインウェイ?」

「なんだそりゃ? ピアノか?」

「ピアノ? 何それ? あ、それじゃエド国?」

「う……えーっと」


 どうやら国の名前らしいことはなんとなくわかるが、初めて聞く上にちんぷんかんぷんな名前だ。

 これは誤魔化すのも逃げるのも難しい――カッシーは困ったように日笠さんを向き直り助けを求める。

 そんな少年の視線を受け、日笠さんは吃驚したように目をぱちくりとさせていたが、エリコの懐疑的な眼差しが、今度は自分へと向けられたことに気が付くと、アハハと苦笑を浮かべた。


「エリコ王女、その……私達のこと、マーヤ女王から何も聞いてないですか?」

「どういうこと? 仲間を捜してるってことは聞いてるけど?」


 あとはせいぜい彼等をよろしく――と、出がけに頼まれたくらいだ。

 意図するものが分からず、エリコは益々訝し気に顰め面を浮かべてみせる。

 その反応を受け、さてどうしたものかと日笠さんは思案を始めた。


 どうやらマーヤ女王は、私達が異世界から来たことについては彼女に伝えていないようだ。たとえ親友だとしても、おいそれと話すことではないと気を遣ってくれたのだろうか。

 まあ日笠さんだけでなく、この場にいる少年少女達は彼女マーヤが信用に足ると判断したのであれば、話してもらっても構わないと思っていたのだが。

 

 とはいえ、ここはチェロ村の時と一緒であろう。下手に隠すよりは正直に話した方がいい――

 日笠さんはそう判断し、同意を求めるように皆を一瞥した。

 少女のその目が求める問いを理解して、一同は即座に頷いて応える。

 

「エリコ王女、実は私達は――」

「――まゆみ」


 と、真実を打ち明けようと口を開きかけた日笠さんの言葉を遮って、やや嬉しそうな風紀委員長の声が制止した。

 

「丁度できたわ。話は食べながらにしない?」


 こんがりと焼けとろけたチーズをパンに挟みながら、渾身の出来!――と言わんばかりに強気な笑みを浮かべ、東山さんは日笠さんへと小首を傾げてみせる。


「ムッフォー、ウマソー! イインチョーこれもう食っていいディスか?」

「ダーメ。もうちょっと待ちなさいよもう! 中井君、そっちはどう?」

「んーナイスタイミングだぜ委員長? こっちもいい具合だ」


 つまみ食いをしようとしていたかのーの手をぴしゃりと叩きながら東山さんが尋ねると、味見をしていたクマ少年もにんまりと笑って頷く。

 どうやらスープカレーも完成のようだ。


 えっと、どうしますか?――と、日笠さんはエリコを振り返った。

 エリコはしばしの間、憮然とした表情のまま、とろけるチーズの乗ったパンとスープカレーを交互に眺めていたが、やがて可愛らしい音を立てた自分のお腹をさすり、誤魔化すように咳払いをする。


「し、仕方ないわね。でもちゃんと話してよね?」

「はい」


 日笠さんは苦笑の混じった微笑みともに頷いてみせた。



 という訳で――


 本日の夕食はオケ随一の料理愛好家二人が作った、『特製オラトリオスープカレー』と『ラクレットチーズサンド』だ。


『いっただっきまーす♪』


 配膳が終わると待ってましたとばかりに手を合わせ、皆は食事にありついた。


「……うまっ! 何これ? こんなのトランペットでも食べたことない!」


 数種のスパイスの絡まった初めて体験する辛さだ。

 茶色いスープを匙で掬ってしげしげと眺めていたエリコは、やがて意を決したようにそれを口へと運んだが、途端目をまん丸くしながら賞賛の声をあげる。

 

「ムフ、ウマー!」

「驚いた……本当にカレーねこれ。文化祭の時から腕は落ちてないみたいじゃない?」

「へっへーん、本当はもう少し時間かけて、出汁をとりたかったけどな?」


 まさしく食べなれたカレーの味である。なっちゃんやかのーも舌鼓をうちつつ、クマ少年をしきりに褒めていた。

 こーへいも、我ながらなかなかの出来♪――といいたげに味わいながら、満足気ににんまりと笑う。

 

「このチーズサンドも美味しいッス。スープに凄く合うッスね」


 と、とろりと焼けたチーズを乗せたパンを少しずつちぎり、スープカレーに浸して食べていたチョクは、うんうんとしきりに頷きながら東山さんを見た。

 携行用に保存が利くよう硬く焼いたパンを一度炙ってから、とろけるチーズを乗せただけなのに、見事にマッチングしてほっぺが落ちるような美味しさだ。

 しかもスープカレーに浸して食べると、カレーのスパイシーさとチーズの濃厚さが絶妙に混じりあい、また別の味わいがあった。

 

「気に入ってもらえてよかったです。一度作ってみたかったの」


 小さい頃に見た某アニメの再放送で、主人公の少女が美味しそうに食べていたのが、このラクレットチーズを乗せたパンだった。

 出発前に城下町へ買い出しに出かけた際、元の世界では中々お目にかかることがなかったそのチーズが市場で売っているのを発見して、彼女には珍しくついつい衝動買いしてしまっていたのだ。

 けれど好評でよかった――東山さんはまんざらでもなさそうに微笑んだ。


「うーん、こうなると米が欲しい」

「んー、俺も欲しかったんだけど米は売ってなくてよ?」


 カレーといえばやはりカレーライス!となるのは日本人なら当然だろう。ましてやこちらの世界に来てからはや数週間、その間ほぼパン食だったのだ。

 そろそろお米が食べたい――と、思わず願望を口にしたカッシーに対して、だがこーへいは眉尻を下げつつ残念そうに答える。


 市場を一通り回ってみたものの、残念ながら米を売っている店はなかったのだ。

 来る途中に見た麦畑からもわかるように、弦国の主食は麦であり、米は流通に乏しいらしい。

 ただこの世界に米がないかといったら、どうもそうではないようだ。市場の店主に聞いた話では管国南部の湿地帯では稲作をしている地方もあるとのこと。

 もっとも、日本の米と同レベルの味を求めるのは難しそうではあるが。


 ちなみにオラトリオ大陸は、元の世界でいう『地中海性気候』が主となる大陸で、年間を通して湿度が低く、かつ『乾期』と『雨期』がある。

 現在は夏に向かって『乾期』がはじまったばかりで、故に晴れの日がほとんどだった。あまり米を作るには向かない気候といえる。


「ないのか……ま、まあしょうがないよな」


 まあ予想はしていた。ダメ元で言ってみたものの、カッシーは無念そうに口をへの字に曲げる。


「んーまあ、見つけたら買っとくわ? 気長に待っててくれよな」

「わかった」

「ねえ、コーヘイだっけ? 今度この料理の作り方教えて! これ城でも作らせるから!」

「んー、いいぜー。気に入ってもらえたみてーだな?」

「文句なし! 毎日食べたいくらいよ!」


 満面の笑みと共にエリコは親指を立てた。

 本格的な辛党である彼女は、どうやらお世辞抜きでカレーを気に入ってくれたようだ。


「あ、まだおかわりありますからよければどうぞ」

「ほんと!? んじゃ遠慮なく!!」

「姫、そうは言いますが少しは遠慮を……」

「なによ、どうぞって言ってんだからいいじゃない!」


 ずずいっと空になった容器を東山さんに差し出したエリコを、チョクは横目で眺めながら呟く。

 その後二度三度とお代わりして、当初不機嫌だったお騒がせ王女は大満足で食事を終えたのであった。

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