ディスインテグレーション
緑茶
ディスインテグレーション
町から遠く離れ、大人ほどの背丈の草木が一面を覆う高原を抜けた先に、その洋館がある。
曇り空の下、ひび割れた壁材に蔦を無数に絡ませた古い建物である。まるで墓石の群れの中に現れる不気味な影のごとく佇むその場所に近づくものは誰もおらず、周囲には常に不気味な風の音と草木のざわめきだけが聞こえている。
中には、少女がたった一人で住んでいる。
いつからそこに居たのかは誰にもわからない。知らぬ間に、彼女は産み落とされていた。その事実を知る者は、生まれてからずっと傍に居て、彼女を育ててきた。しかし、少し前に死んだ。ゆえに今は、蜘蛛の巣と、開け放された窓から無数に入ってくる埃と木の枝だけが客人であって、少女は彼らを迎えるときも顔を上げることなく、一人、大広間に座り込んで本を読んでいる。
洋館の隅には大きな書庫があって、そこには様々な種類の本が詰まっている。少女が日常やることといえば、あてどなく大広間を歩くことと、地下の大きな冷凍庫から最低限の食べ物を持ってくることと、書庫から一冊の本を取り出して、隅々まで、目線で紙が焼けるほどに読み込むことだけだった。読み聞かせてくれる者を失ったのだから、自分で読むしかないのだ。
少女はその単調な日課を通して、自分の頭の中に思考を増やしていった。それは、自分がたった一人でここに居るということと、世界はこの洋館以外にも広がっているということへの気付きだった。いかなる知識も彼女にとっては驚きであって、また宝石のようだった。少女はやがて、色あせた虫食いだらけの書物たちを読んでいる自分が、いかなる存在であるかを知覚した。彼女は、孤独、という概念をいつの間にか得ていた。
それは少女に新しい感覚をもたらした。まず、身体が寒くなった。そして、周囲を取り囲むすべてのものが、かつてより自分からはなれた場所にあるように感じられた。そして、そこに行くために進める足が、以前よりも重々しく鈍く動くようになった。戸惑いが彼女の心を蝕んで、それまでの全てを変え始めていた。次に少女は、自分が今感じているものが、以前とは違うということを知り、自分の居る場所が『普通でない』ことを知った。それは、一度も言葉など発したことない彼女に、ある一つの叫びを与えた。それは、『この場所から出て、もっと広い世界に行きたい』というものだった。
今や少女は恐怖という感情を知り、他の『誰か』に会いたいという願いに焦がれていた。もはや、かつての自分ではなかった。以前はなんとも思わなかった煤まみれのタイルも、足の裏で激しく軋む階段も、今となっては一刻も早く離れたいものだった。少女は読んでいる本を手放して、洋館の出口へと走っていった。彼女の後ろから、闇が追いかけてきた。
少女は何度も転びながら駆けて、ようやく入り口の大きな扉に手をかけた。そのまま取っ手を引っ張ると、乾いた木の音がして、ゆっくりと扉が開く。
そこからは、これまで窓から流れてきたものよりも明るい光が見えて、向こう側には少女が見たことないものが見えた。それが、外の世界だった。少女は安堵し、自分が今からそこに飛び出していけるという事実に歓喜した。
しかし、扉をより大きく開けようと更に取っ手を引っ張った瞬間、洋館の内部が大きく揺れた。
少女が悲鳴を上げる前に、その揺れは洋館全体に迸り、壁全体に大きな亀裂が入った。まもなく激震は天井にも及び、明かりの灯らないシャンデリアが大広間に落ちていく。壁にかかった絵も全て崩れ落ちて、階段にも次々と凹みが生じていった。まるで、洋館の真下に巨大な奈落が開いたかのようだった。その状況を止められるものは、当然どこにもいない。少女はその場から逃れるべく、扉の向こうへ行こうとした。
しかし、時既に遅く、洋館はその場で崩壊し、少女を飲み込んでいった。
その後、かつての建物の存在を知る者は、ついぞ現れなかった。
ディスインテグレーション 緑茶 @wangd1
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