第36話「狐狗狸廃病院島」16
痛い。
「ア…」
まともに声を出せない。
辛うじて僅かな湿り気を残した舌先が、乾上がった口内の状況を伝える。
むせかえるような喉奥、鼻腔の痛みは呼吸の度に酷くなる。
呼吸器官を中心としたそんな危機的電気信号は、完全に俺の意識を覚醒させた。
目を開く。
…灰色が眩む。
覚えのある冬の自然光。
比較的嫌いな季節の、気が滅入るそれ。
布団から覗いた肌を容赦なく、刺すような寒気。
眠気で誤魔化されていたらしいが、腹が痛い。
空腹のせいだろうか?
おかげでますますこの季節が嫌いになりそうだ。
「あ"ぁ"?」
…そして、どこだここは?
見知らぬ天井…
見知らぬ? いや、俺は知らない筈だ…
知らない筈だが…
…存在しない筈の記憶が、ある。
暮れなぜむ一室の依頼主達、猫耳、這いずる変態、凝った田舎料理、化け物じみた老人、迷路みたいな廃墟内、歪な霊、白い猫…
知らない。 俺はそんな記憶は知らない。
不気味にごっそりと抜け落ちた実感や主観が、知らない筈なのに知っているという違和感を強烈に意識させる。
…何故かは分からない。
が、
俺自身が何かおかしいという事は確かだ。
とりあえずは…
とりあえずは、だ。
粘膜が痛くてしょうがない。
水でも飲んでから考えよう。
…
…
地元産の食材がたっぷり使われた料理と、可愛いコスプレ好きの女将さんが当民宿 "おじさん家" の魅力らしい。
しかし、何だってこんな辺鄙な田舎に例のブログ主はわざわざ泊まりで来たのか?
海釣りでもしに来たのだろうか?
思考に呼応するかの様に溜め込んだぬるま湯が、腹中からちゃぷちゃぷと下品な音を立てる。
部屋備え付けのポットの中身はぬるま湯だったが、久しぶりの水分は旨すぎた。
…腹音に気をとられているといつの間にか、前方でリアル過ぎる動きと造形の猫尻尾が揺れている。
胡散臭い記憶の数々だがこの点、とりあえずは正しいらしい。
「こんにちは、お疲れ様です」
挨拶と同時に瞬時に逆立つ尻尾、毛。
どういう機能だよ。
女将「にっっ! さ? 佐藤様! お目覚めになられましたのじゃね!」
その語尾はやはり不自然極まりない。
まぁあれか…コンセプトカフェみたいなものだろうか?
突っ込むだけ野暮だろう。
女将「びっくりしちゃいましたのじゃよ。 観光中に突然、失神してしまったというお話で… お加減は大丈夫なのじゃ?」
ばつの悪そうに黄色く変色した雑巾やら、スプレーやらを後ろ手に隠すあたり、掃除中に邪魔してしまったらしい。
「いやぁ、つい年甲斐もなくはしゃいでしまいまして。
もう大丈夫です。 ご心配をおかけ致しました」
女将「いえいえいえ、そんな滅相もありませんのですじゃ!」
塞がっている両手の代わりといわんばかりに、ブンブンと左右に振られる猫尻尾。
耳の方も瞬間的にピクピクと動く。
「…それじゃあ朝御飯楽しみにしておきますね」
いやいや、気にするな。
色々気になって危うく触りそうになる。
下手すりゃ痴漢で捕まりかねない。
女将「は、はい! 腕によりをかけますですのじゃです! はい!」
うん、さっさと退散することにしよう。
変態爺は役に立たないだろうし、おそらく一人で切り盛りしている女将さんから時間を奪うのは気が咎める。
ぎこちない雰囲気に合わせてコメツキバッタみたいな会釈をして早々、疑わしい記憶の中にある子供社長の部屋を目指す。
女将「…あっ、あのぉ」
弱々しい一言でぜんまい仕掛けみたいな前進は中断。
「どうしました?」
マジでどうした? お互いやりにくいだけだろう?
女将「あの、ここ、臭いませんか? あの、あの… 昨夜にっ、煮物をこぼしてしまって…
掃除したんで…したんですじゃけど」
?
あぁ! 大丈夫だよ! 全然臭わねぇよ! もっと自信持てよ! じれったい!
「いえ、全然。 何も臭いませんけどねぇ? 私は」
ひょこひょこ動かす耳、その不安気な様子、パタパタ振られる尻尾のせいでついついワシャワシャと撫で回したくなる。
それが何なのかはよく分からないが、圧し殺さないと社会的に死ぬかもしれない衝動で有ることは確かだ。
女将「…ほっ、本当です?」
「不快なことに対して嘘は吐きませんよ。 これからも何日か滞在することですし」
女将「いっ、いえ! すみません! 安心しましたのでしゅじゃ!」
今度は女将の方が高速コメツキバッタみたいになったと思ったら、
動物的な速さと身軽さで奥に消えた。
…猫の化身か何かでも多分驚かない。
…
アイカ「君も無事で、取り敢えず一安心といったところかな。
いやぁ、しかしだね? これはいよいよもって怪しい事だよ! さすっち君!」
何時もの伊達パイプを手にしながらグルグル部屋を動き回る様子は、どこぞの名探偵を彷彿とさせなくもない。
ただいかんせん、寂れた和室に民宿ご提供の色褪せた浴衣姿。
寝起きのスチールウール頭でガシガシと頭をかきむしって、フケでも飛ばしてくれた方が似合うと思う。
本人には絶対に言わないが。
「と、言いますと? やはり心霊現象というには人為的に過ぎるというあれですか?」
取り敢えず覚えのない記憶の正しさは確認できたが、どうも本件は輪をかけてきな臭いらしい。
アイカ「うむ、うむ。 君に憑依した個体といい、襲撃やらのタイミング、心霊の配置といい、何よりまともな思いの集積が一つも無いのに顕現する心霊群といい、あまりにも胡散臭いのだよ。 逆に床とか天井から突然湧いてくるような無軌道さが無くて助かった部分も有るがね」
「しかしですよ? 心霊現象を人為的に操る何てことが可能何ですか?」
しかめっ面でうなずきながら腕を組む。 目を閉じてしばしの沈黙…
正直、そういう演出はもういいから返答を早くして貰いたいと思う今日この頃。
アイカ「絶対に有り得ん… とは言い切れんな。 国内のことならともかくも、海外の最先端何かは知る由もないからなぁ」
「意外ですね。 一昔前ならともかくも、現代なら情報交流の一つや二つ有ると思っていたんですけど」
アイカ「正直、この界隈はペテンが多い。 玉石混淆の情報化ゆえに聞き齧った生兵法で補強された偽装も多いからどこが真っ当なそれなのか、根深く入り込まないと判断しにくいものなのだよ…」
しばらく部屋中をペタペタ歩き回る。
こうなると長いので、部屋のお茶請けを物色させて貰う。
ぬるま湯のかさましも薄れ、腹が減ってしょうがない。
アイカ「あぁ、でも対異形… "組織" の本部は海外だという話はお祖父様に聞いたことがあるな。 先の大戦後、爆発的に増えた超常方面の後処理を補助する名目で来たのが根付いたとかなんとか…」
「ちょこっとその辺から聞けたりはしないものなんですか?」
アイカ「無理だろうよ、あくまでも本部は海外ってだけだし… って君! さすっち君! 何、人の部屋のヨモギ饅頭を食べているんだい!?」
「すみません。 あまりにもお腹が空いていたもので…」
アイカ「それ美味しいから残していたんだよ! 君!」
饅頭一つで騒がないで貰いたいものだ。
「すみません。 朝食食べたら自分の部屋にあるやつあげますんで」
アイカ「ふん! 部屋にある分全部渡した前よ!」
「えぇ、分かりました。 すみません」
本当にガキだな。
…他人の部屋で勝手に茶菓子を漁るのもガキっちゃガキか。
アイカ「あぁ~もう! 最後の一つだったのに…」
饅頭、饅頭と騒いでいたと思ったら急に首を傾げ、黙る。
何だろうか? 遂に年甲斐もなく痛々しい自らのキャラを自覚したのだろうか?
アイカ「そもそも… 数は決まっているのだな…」
「どうかしました?」
聞くや否やニヤニヤと笑いはじめる。
気色悪いことこの上ない。
アイカ「ヌッフフフ! 今更か! 今更だな! 遅すぎるな! 遅すぎ!」
今度はバシバシと自分の太ももを叩きながらニヤニヤしている。
…そろそろ近場の精神科か心療内科を探してみるべきだろうか?
「あの~ どうかしましたか? 大丈夫ですか? 正直、急過ぎて不気味なんですが」
アイカ「いやいや、失敬! もし本件、仮に人為ならばと考えてみたらば犯人、というか実行者が存外絞りこみ易くてね! あまりの単純さに馬鹿馬鹿しくなって可笑しくなったところさ!」
「というと、誰なんですか? その実行者というのは?」
アイカ「少し考えてもみたまえよ。 あの時間帯にあんな辺鄙な場所で起こる現象をリアルタイムでコントロールできる人間なんてとことん限られているじゃないか」
「…? あ~確かに」
アイカ「だろう? まぁ今夜色々と仕掛けてみることにしよう。 うまくいったらもう明日からキャンプだ!」
もし予想が外れていても誤魔化せるプランにしてくれよ。
バァン!
! 廊下につながる後ろの襖が急に爆音を上げて横にスライドした。
誰だよ? 朝っぱらから…
変態「早朝に失礼! 話は聞かせて貰った! 是非とも協力させて貰おうかの~」
くそ爺が朝っぱらから客の部屋でがなりたてる。
アイカ「変態だぁあああああ!!!!!!!!」
間髪入れずに生体警報器が大音量で鳴り響き、俺の聴力を奪ったのは言うまでもないことだった。
…
さて、警報器の威力は抜群で6㎏ダンベルやら、モデルガンやら、手製のドール用ドレスやらロ○ネ・コン○ィのボトルやら、お玉やら、いささか頼りなさげな得物を手に手に怒涛の如く押し掛けてきた。
座敷牢に閉じ込めていた筈なのになぜ? ということで、すぐに包囲された変態爺は釈明を開始する。
変態「盗み聞きしていたのは悪かったとは思うがのう?
そもそも身元を偽ってくるお主らが悪い! 不審な集団客をマークするのは善良な民宿経営者の義務じゃ!
こんな世の中なめ腐ったような端々があまっちょろいオフィスレディがいてたまるかい! 女学生の匂いがプンプンするわ!」
どさくさに紛れて変態が川部の太ももに手を伸ばすもすかさず本人にねじりあげられる。
変態「アダダダッ! しない、もうしないから… 許して… そもそもっ!
そもそものぉう! そこのチビ助があれやこれや音頭を取っておる時点で不自然過ぎるっ!
無垢で純真なお玉にゃんは騙せてもワシは騙せんわ!」
ビッシ、といった調子で我らがチビ社長を指差してわめくも、やはり次の瞬間にはねじりあげられていた。
変態「アダダダッ! アダダダダダダ!! 無理! 無理! ギブ! ギブ! すまん! すまんから! ごめんなさい! ごめんなさい! …どうなっとるんよ? これ? 」
我らがチビ社長がボソボソ何か唱えているとは思ったが、サムにねじらせたようだ。
変態は紫ぼったくなった指を恐る恐る撫でている。
女将「お爺さん… 人前でお玉にゃんは止めませんか? お玉は、お玉で良いですのじゃですし…」
変態「いいや! お玉にゃんはお玉にゃんじゃ!」
女将「…変態爺」
とたんに女将さんが凄く嫌そうな顔で毒づくあたりこの変態、色々と手遅れなのかもしれない。
川部「そもそもよぉ! 鍵はこっちが持ってんのになんで出てきているわけだよ? おい?
この変態がよ!」
相当堪り兼ねていたのか爺の禿げ頭をスパンと叩く。
変態「ひゃひゃひゃ! 痛くない! むしろ柔っこい手の感触がきもちええのぉおおお!!!!
ほれ! もっとこい! もっとじゃ!」
禿げ頭をグリグリと川部に突き出す。
キモい。
堀部「…なんだ? これは?」
武部「キッモ」
川部「死ね」
澤部は無言で平手を爺の頭頂部に振り下ろした。
変態「イデェェエエエ!!!!!!!」
とても痛ましい音と絶叫が響いたのだが微塵も心は痛まないあたり、自身の共感能力にほんの少し自信が持てなくなる。
…こんな変態爺を切っ掛けにいちいち自身を省みたくないのだが。
アイカ「あー、あー、まぁ取り敢えず。 大丈夫かね?」
変態「お気遣いいただきかたじけない! 小さなボディと不釣り合いにデカイ帽子、態度のダブルギャップが最高にそそりますな!
ちょっとその綺麗な柔肌ほっぺを触らせて下さいませんでしょうか?」
アイカ「え… 嫌です」
…女性が絡むと爺の暴走にきりがないので俺が対応することになった。
「えー、それではいくつか質問させていただきます。
よろしくお願いします」
変態「オッサンは守備範囲外じゃのう。 なんならそこの美少年君に…」
武部「キッショ」
「えー、ご返答次第では有りますが、ご要望通り我々の業務に何らかの形でご協力していただくこともやぶさかでは有りません。 ただ、こういった言動が続くようでしたら婦女暴行未遂で私人による現行犯逮捕の上、通報ということになりますがよろしいでしょうか?」
変態「警察は勘弁してください」
国家権力は時に偉大である。
「分かりました。 それではこのまま質問に移ります。
どうして座敷牢から出てこられたのでしょうか? 鍵はかかっていた筈ですよね?」
そもそも座敷牢が有ること自体驚きだ。
変態「それは建てた時にワシが内からも開けられるよう注文したからのう!
逆に閉じ込められた時にワシだけが開けられる秘密の仕掛けなんじゃ! カッコいいじゃろ?」
てっきり女将さんが建てたと思っていたよ爺。
今後の拘束は別の方法にしないといけないと判明し、その他一同から嘆息が漏れる。
「次の質問です。 盗み聞きしていたのは置いておくとして、なぜ突然協力する等という提案に至ったのでしょうか? なにか理由が有りますか?」
変態「取材じゃよ! 取材! そしてインスピレーション! 次は心霊ラブロマンス物にしようと思っていてのう! 生々しいリアルなそれが欲しいのじゃよ! 是非に!」
アイカ「おいおい、この変態は芸術家かなにかなのかい?」
チビ社長は信じられないといった様子だが、ある意味しっくりくる。
変態的な芸術家の逸話はそれほど珍しいものでもない。
女将「…漫画で生計を立てているんです…じゃ」
変態「恥じることはあるまい! 堂々と言うんじゃお玉にゃん! ワシはエロ漫画家じゃ!」
女将「こんな慎みのない変態に養って貰っているのが恥ずかしいんです!」
変態「お玉にゃんはやっぱり純情可愛いのう!」
まぁ、色々と合点がいく話ではある。
こんな辺鄙な場所で民宿一筋というのは正直、無理があるとは思っていた。
「それでは最後の質問です。 これから先、少なくとも我々と行動する際はご自身の変態的な言動を慎む事ができるでしょうか? また、時々の言動に対して変態性を指摘された場合には改める事ができるでしょうか?」
変態「無理じゃな!」
「社長、やっぱダメですよこの人。 警察に突きだしましょう」
アイカ「汚い仕事任せるのにぴったりだと思ったのだけどね。 仕方ない、通報するとしよう」
何故かデカイ帽子の中から出てきた端末に変態がむしゃぶりつく。
変態「ンヒイィィィ! 止めて下さい! 止めて下さい! もう後が無いんです! 止めて下さい!」
アイカ「触るな変態!」
「離れろ変態!」
川部「くたばれ変態!」
武部「きめぇぞ変態!」
堀部「…少し落ち着くべきだ」
澤部「取り敢えずちょっと離れといて下さい」
変態「ンホォオオオオオオ!」
あらかた罵倒された変態は部屋の隅にねじ伏せられた。
変態「すみません! すみません! 調子乗ってました! すみません! 許して下さい!
何でもしますから!」
頭を畳に擦り付けながら謝罪を繰り返す様子は流石に痛ましく感じる… 気がする。
女将「あの、少しよろしいでしょうか?」
ねじ伏せられた変態を足蹴にするチビ社長の袖が引かれる。
アイカ「どうかしましたかな?」
女将「この度は大変申し訳ありませんでした。 私の監督不行届です」
深々と土下座する。
へたった耳と尻尾が痛ましい。
アイカ「止めて下さい。 あなたが気に病むことじゃないですよ」
顔を上げずに女将さんは続ける。
女将「いえ、やっぱり今までこの人に強く出ていなかった私のせいでもあります。
わけあって追い出された私を養ってくれたこの人に負い目を感じて、本当にこの人のためになることをできていなかったです」
アイカ「それは… 仕方のないことでしょう。 さしでがましいようですが、今からでも別の身寄り先を見つけてはいかがかとおもいますよ?」
女将「それはわけあってできません。
お客様と同じように大っぴらに話せない理由があります。
これからは首輪付けてでもしっかり教育しますから、どうかご勘弁いただけないでしょうか?」
変態「く、首輪… そういう趣味だったのかにゃお玉にゃん…」
女将「何かお手伝いできる事があれば何でもしますから、どうかお許しください」
興奮しはじめた変態の額をごりごり畳に押し付けながら再度謝罪をする。
変態「お、お玉にゃん… 痛い、ちょっと痛いんじゃけど…」
女将「黙らないと燃やします」
何か物騒なことを言いはじめた。
変態「お玉にゃんが怖くなってしもうた…」
順当な結果だと思う。
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