第28話「狐狗狸廃病院島」8
"ブォオオオオ"
パワフルな音を立てながら、温かい空気を吐き出す車内暖房はもちろんフルパワー。
何故だか爬虫類たっぷりな車内のせいで独特な香りが充満する。
気分は熱帯雨林ってところだろうか。
川部「なぁあれ、何なん?」
圧倒的熱量により余裕を取り戻した我々は意見交換を開始する。
アイカ「ああいうのも有り得るだろうよ。 しかしだなぁ、肉じゃなぁ… 何かピン! と来た者は居るかね? その大本の心なり特質なりに」
部外者が何を気づけるのだろう…
まぁ、見ていたというのであれば一つは確実に挙げられるか。
「肉の中に人間の指と思われる断片が見え隠れしていました。 本当に今回の相手は動物霊何でしょうか?」
道中話に出ていた質の悪い動物霊って予想は明らかにズレている。
アイカ「そうだよな〜 そうなんだよな〜 さすっち君。 因みに私は歯と肘を見つけたぞ」
澤部「でもですよ? 猫缶に反応して出てきましたよね。 待ってる時は石投げたりしましたけど音には近づいて来なかったですし」
そうそう、何故か人間の肉ミンチが猫の餌に寄ってきた。
堀部「…餓死者の成れの果てでは?」
猫缶でも良いから喰らいたいと…
夕飯近くで自分の腹も減っているせいか、妥当な予想に思えてくる。
武部「でもさぁ何か質感は瑞々しくてさ、飢えているって印象は無かったけどな。
どっちかっていうと溢れんばかりの血肉!! って印象で、ある意味豊満って感じ」
アイカ「いや、いやいやいや…
それじゃあますます何なんだか分からんよサムぅ…」
彼女が何も無い空中に話しかけるのは始めこそギョッとしたが、もう慣れたものだ。
頭の上に乗せたメガネをずらしてバックミラーを覗くと、成人男性である私自身の腰位には太い首がにょっきり車の天井から生えていた。
アイカ「諸君、考察を煙に巻くようで悪いが、サムは肉の中に猫の耳の断片らしきものを見たそうだ」
川部「それじゃあ何だって? 人間と猫の合い挽き肉だってか?」
武部「秘密裏に変な事して邪道な道具作ってたって線は普通に狐狗狸の時点で確定じゃん? もっと強力な呪物でも作って売り捌く気だったんじゃねえの?」
澤部「え〜、それじゃ何? 人間も材料にして色々やった結果っていうこと? そこまでするかな? バレたら総出で潰されちゃうよ?」
堀部「…実際に狐狗狸は潰れている」
澤部「でもリーダー、あれは無茶な投資に手を出した狐狗狸の自爆だっていう話じゃん」
武部「自爆に見せかけたって線も有り得るな」
川部「ヤバぁい! 何か裏がありそうで怖いんだけど〜」
その割には楽しそうな声を出す。
アイカ「はいはいはい、話がズレているぞ諸君! まぁ今の段階ではっきりしているのは猫と人間のゴチャ混ぜ挽き肉が相手だということだ」
川部「挽き肉か〜 ミートローフ食いたくなってきた…」
澤部「何かオシャレ〜 私的にはハンバーグだったんだけど」
川部「似たようなもんだろ」
アイカ「おいこら、夕飯前に気持ち悪い連想を口にするんじゃない!」
武部「あぁ! 挽き肉といえば…」
アイカ「何だ!
私の食欲を削ぐような話しは止めてくれ給えよ!」
武部「いやぁ、挽き肉相手だったら俺達の除霊手段ってあんまし意味無いかなぁ…
なんて考えただけっす」
堀部「撃つ、斬る、射る、潰す、確かに…
物理的な破壊の心象が有効だとは思えん」
武部「ですよね〜 何かやる前から自信無くすわ… 臭い肉にまみれるのはヤダな俺」
意気消沈したのか一同、押し黙ってしまった。
タイミングよくカーナビが目的地間近をアナウンスする。
" サンジュウ!!! メェートル!!!!
モクテキッチィィィィイイイイ!!!!!!!!!!!!!!!!
テマェェェ!!!!! "
持ち主の趣味なのかこのカーナビのアナウンスは全てデスボイスだ。
川部「チッ! 相変わらずうっせーなこのナビ!」
アイカ「あれ? 学生諸君はこういうの好きじゃなかったか? 初めて会ったとき頭を振っていたじゃあないか」
川部「フリだよ、フリ! いきなり閉じ込められた奴の中にはパニック起こして攻撃してくるやつもいたんだ。 ナメられねぇ様にだよ!」
アイカ「それ効果有るのかい?
まぁ、近寄り難くはあったがなぁ…」
思い出した先から嫌そうに頭を振る様子からして色々あったようだ。
「まぁまぁ、それより着きましたよ」
役所らしき建物の駐車場。
寒空にコンクリート舗装のだだっ広い無機質さは気なしか心が荒む。
アイカ「おぉ! おつかれさすっち君! 運転ありがとう。 言い忘れていたがな、この仕事が上手くいったら特別手当つけてあげよう。
運転は君に任せ切りになるからな」
小さいが中々に太っ腹な上司らしい。
「ありがとうございます」
これほど興味の湧かない朗報というのも最初で最後なのだろう。
…
レジャーに来たわけではないのだろうから、それなりに気が乗らないものになるだろうとは思ってはいた。
が、
「「…」」
××島カジノプロジェクト実行委員会の代表、副代表。
須藤 明(すどう あきら)
刈谷 雅史(かりや まさし)
と、名乗る二名は恐ろしいほどの仏頂面だ。
…気が乗らないなんてレベルではない。
面倒くさい。
できれば相手したくない。
見知らぬ中年男性二人の無味乾燥な表情に何か動機付けなんてものを見い出せる人間は多分、この世界に誰一人だって居ないだろう。
アイカ「私共、今回担当させていただきます "アイカ&サム興信所" 社長の八十愛叶と手前より、部下の佐藤、堀部、川部、澤部、武部と申します。 どうぞよろしく」
大袈裟に彼女が腰を折ると、中年二人の元にフワフワと名刺が宙を舞っていく。
前言撤回、こういう状況でもバイタリティを保てる人間は居るようである。
社長はノリノリなのだ。
…しかし、何とも芝居がかった自己紹介。
自信があるのかチラと、得意気な表情を浮かべながら腰を上げるあたり特に…
まぁまぁ、わざとらしさに拍車がかかるだけで、少しばかりクドい印象があるだけで、
胡散臭さは見た目相応。
一周回って許容範囲なのではなかろうか。
須藤「わざわざご丁寧にどうもありがとうございます。 取り敢えずこちらにお掛けになって下さい」
深いシワの刻まれた手の平が人数分並んだパイプ椅子を示す。
…夕日に照らされ、煤けきった中年二人にはまるでこの一芝居は響かなかったのだろう。
仏頂面はピクリとも動かない。
対してこちらの社長はドヤ顔から少しむくれ顔になった。
よく動く表情筋は素直に羨ましい。
アイカ「…これは失敬」
銘々、若干不機嫌な小さい代表を皮切りに椅子にかける。
刈谷「本日は現場の下見でしたでしょう?
寒いなかお疲れ様です」
こんな事を言いながら備え付けのポットでお茶を煎れ始めるあたり悪い人間ではないのだろう。
やはり仏頂面だが。
…
須藤「…実を言うとですね、今回がラストチャンスなんです」
暗黙の内に継続していたお茶待ちの沈黙は彼の、一人ごとにも思えるような力ない声にあっさりと破られた。
アイカ「ラストチャンス? 」
須藤「ええ…
××島カジノプロジェクトのラストチャンスです。
今回依頼させてもらいました件が万一うまくいかない場合、プロジェクト自体見送られるのです」
何となく変わらない筈の仏頂面に悲愴を感じる。
刈谷「貴方がたは文字通り命をかけておられる。
そこまででは有りませんが、我々も我々で後がないのですよ。
…いや、どうもすみません。
関係ないことでしたな」
陰気に言葉は飲み込まれ粗茶ですが、と、牛と魚の柄が入った碗が並べられる。
オレンジ色に仄暗い逢魔が時、何の飾り気も華やぎもない無機質な会議室に幽鬼の如く白い湯気が、もうもうと漂いはじめた。
須藤「率直にお聞きしましょう」
また少し沈黙の後、
須藤が碗で手を温めながら口を開く。
須藤「下見してみてどうでしたか?
なんとかできそうな相手でしたか?」
少しばかりその声は、宣告を待つかのように震えていた。
アイカ「先程、刈谷さんが仰っていたように、
我々は命懸け。
できないようなことであれば、とっくのうちにそう伝えておりますよ。
その上で即、手を引きます。
勝算もないのにここまでだらだら引っ張るのは詐欺師かとんだ未熟者だけでしょうな!」
強く言い切った後に茶を啜りたかったのだろうが、その華奢な手では皮膚が薄すぎたらしい。
碗に触れた手を直ぐに引っ込める。
須藤「…それは心強い」
アイカ「ええ、期待していただいて結構です」
何回か出して引っ込めるのを繰り返して諦めたのか、袖を引っ張り出して耐熱手袋がわりにチビチビ碗に唇をくっつける。
が、
やはりまだ熱いらしく直ぐに離すと、シィシィ小さな音を漏らしながら下唇を舐めるのだ。
そんなチビ社長を見ていると、不安と安らぎが同居する奇妙な心持ちになった。
須藤「しかしですね… これまで合わせて40名、霊能士の方々に同じ依頼をして参りました。
うち12名は発狂、10名が行方不明、残り18名は途中で断念しております。
相当手強い相手だとは思うのですが…」
アイカ「あぁー、あぁー、須藤さん?」
芝居がかった大声を出して中年の言葉を遮る。
アイカ「それは結局、現場の我々が判断することです。 大丈夫! 大丈夫ですからご安心を!」
須藤「や、…失敬。
すみません。 素人が口を出して良い領分では有りませんでしたな」
中々に落ち着いた男だ。
自分も含め、歳を重ねた男は知らないうちに肥大化したプライドと自尊心を持て余すものだが、この中年はそれをうまくコントロールできている。
偉ぶった相手に対しても
表情、仕草は言葉通りすまなそうにしおらしく、示す感情が一致しているからだ。
伊達にプロジェクトの代表を務めているわけではないらしい。
アイカ「ま、そういうわけですからな! どうぞゆるりと結果をお待ち頂くだけで十分なのですよ!
時にですな、結果の報告はどちらまで?」
刈谷「あぁ、すみません。 メールの方にはそこまで書いていなかったですね。 できましたら名刺に記載されております携帯番号にご連絡いただければと…」
形式的なやり取りが終わりさて、解散。
の前に、自分は聞いておきたいことがあるのだ。
「最後に失礼します。 質問よろしいでしょうか?」
アイカ「さっ!? 佐藤君!!? 質問は私を通してからと言わなかったかね?」
あぁ、そうだったらしい。
一応、この人も他人に気を遣うことがあるのだろう。
須藤「いやいや、我々は大丈夫ですよ。 何でも聞いてください佐藤さん、でしたか」
「ありがとうございます。
先程、これまで本件を受けた方々が40名居られるというお話でしたが…」
須藤「ええ、そうですね」
「その方々の報告に白い猫に関する内容は有りましたでしょうか?」
須藤「白い猫? どうでしたかな? 刈谷さんは何かご存知ですか?」
全く思い当たらないという風に相方を見やる。
刈谷「さぁ、私も覚えがないですね…
本件に関してはメールでお送りした資料が全てですからね… そちらに記載がなければ無いと思われます」
メールか。
アイカ「おぃおぃおぃ! さすっち君! 事前のメールにちゃんとその旨はあったじゃないかね! 添付資料が本件に関する全てだと!」
隣の社長は小さい声でまくし立てながら裾をひっぱる。
「すみません。 すっかり失念しておりました」
取り敢えず頭を下げておく。
アイカ「もぅもぅもぅ!」
小さくもうもう牛のような音を出したあと。
我らが小さい社長も
アイカ「部下がご無礼を! 失礼致した!」
と、続けて頭を下げてくれた。
申し訳ないが正直、ドラマの台詞みたいにわざとらしくて笑えた。
須藤「いえいえ、止めてください! なんて事ないですから。
そんな些細なことはいちいち気にいたしません。
ねえ? 刈谷さん?」
少し口元に笑みを浮かべながら彼は言う。
できた男である。
刈谷「全くですね。 気にしないで下さい。 そんなことよりも今回の案件をしっかり片付けることを考えて頂けたら、それで十分です」
須藤「それもそれで中々に失礼ではないですか?」
わざとらしく肩をすくめてみせる。
刈谷「や、や、これはどうもすみませんでした!」
こちらもわざとらしく頭を下げた。
アイカ「かたじけない!」
やっぱり何だか芝居がかった風になるので、彼らも面白かったのだろう。
控え目に押し殺して笑う彼らの笑顔に頭を下げながら、我々は退散した。
…
存外、可愛らしかった霊能士の一団を見送り暫く、黙って茶を啜ることに専念する。
いよいよ崖っぷちなプロジェクトのこと、久しく顔を見せられていない家庭のこと、最近たるんできた下っ腹のこと、忘れようにも忘れられない犠牲者達のこと…
望むと望まざるとに関わらず背負ってしまった諸々または、容赦なく差し迫る時間と結末。
そんな、深刻なことを少し放置してぼんやりとしたいのだ。
「はあぁ…」
茶の熱気と共に、自然とため息がもれ出した。
刈谷「やぁ、お疲れですね須藤さん」
少し離れたソファで同じく茶を啜っていた同僚が、同じく疲れた様子で声をかけてくる。
人の命と少なくない時間、ついで出世のチャンスが、訳のわからない領分から押し寄せるアクシデントに押し流されている矢先なのだ。 当事者たる者達が疲れないというほうがどうかしているだろう。
「何もかもが本件にかかっていますからな、無駄に気疲れしますよ。 本当」
刈谷「それもそうですね。
まぁしかし、今回の一団は随分若かったですね。 特にあの代表者。 家内に任せっきりの娘を思い出して居たたまれなくなりましたよ」
「そうですな… 私も年頃の息子が居るせいか、どうも居心地が悪いです。
ああ見えてあの方、ヤソアイカさん? でしたかな? 20歳だそうですよ」
刈谷「ははぁ… 人は見かけによらないもんですね」
「全くです…」
刈谷「娘といえば… 去年のクリスマスを最後に家に帰れていないです」
笑い話のように軽く話すが、顔は笑っていなかった。
「正月はスポンサー関連の行事に出ずっぱりでしたからね、その後は各地にご機嫌伺い… 私もそんなものですよ」
刈谷「やはり、こういうドサ回りみたいなことにも人員は割いて貰えないものですか」
「目処が立たないうちは人員も予算も元に戻さんというのはしっかり上から言われてますからなぁ、厳しいですね…」
刈谷「それでもって今回うまくいかなければ全部終わりと…」
「もうすでに人命と血税が結構喰われているのですから無理からぬことでしょう」
刈谷「最近、娘が私立の中学に通うことが決まりました」
「奇遇ですね。 私の息子もなんですよ」
刈谷「…家族の生活は守りたいです」
「私もですよ」
刈谷「何かできることはないでしょうか? 指を咥えて待つだけというのも中々に堪えます」
「失敗した時に備えて身の振り方を考える位ですかな? 仕方のないことです」
刈谷「やはりそうですよね…」
お互い歳をとっている。 プロジェクトの頓挫が決まれば良くて左遷、下手すりゃ辞職。 その上、我が身ひとつではないのだ。 焦る気持ちは分かる。
だが、焦ってどうにかなるものでもないのだ。
自分の焦りを誤魔化すためにも、話題を変える。
「ところで、娘さんはいかがですか? そろそろ父親の顔も見たくない、なんて年頃でしょう?」
刈谷「去年、クリスマスを祝った時はニコニコしてプレゼントを開けてくれました。 まぁ一緒に風呂に入ったりはもうしなくなりましたが、まだまだ甘えてくれますよ」
「中学に入ったら分かりませんよ? "臭いから近寄らないで" なんて言われるかもしれません」
刈谷「大丈夫ですよ! うちの娘は優しい子ですから」
若干、声が上擦るあたり心配ではあるのかもしれない。
刈谷「須藤さんの息子さんこそどうなんですか? 男子の反抗期なんてそれこそ攻撃的でしょうに」
「ははぁ! 息子に限ってそれは有りませんよ! まるで本の虫でしてな、"将来はラノベ作家になる" なんて言って書き物をはじめる位には大人しい子ですからな。 考えられませんな!」
少し顔が熱くなった。
刈谷「ほほぉ〜 それで昼は食堂で随分、似合わない本を読んでいたんですね。 合点がいきました」
久しぶりにこの男がニヤけるのを見た。
「子供の夢はできるだけ応援してやりたいですからね! 私なりにも色々アドバイスできるようにしておきたいのですよ」
刈谷「私が言えた義理じゃないですが、子煩悩なことです」
「結構なことでしょう」
刈谷「まぁでも、今日食堂で読んでいた本はカバーを掛けるべきですね。 "ダンディ" なんて呼ばれているあなたが "もてもてハーレム異世界旅行" なんてアニメ調の本を、眉間にシワ寄せて眺めてるもんですから笑っちゃいましたよ」
「いやいや、馬鹿にしちゃダメです。 あのタイトルは累計4000万部突破、業界売上のトップなんですよ? 中々にスペクタクルな描写もあって、勉強になります」
刈谷「いやいや、須藤さんらしいですね。 勉強熱心で羨ましい!」
「あれ、馬鹿にしていますかな?」
周囲には実直な人物像で通しているくせに、実はいちいち口の減らない男だ。
分かってはいるが腹は立つ。
刈谷「いやいやいや! すみません! 本当に正直なところ…」
ニヤけながら弁明をはじめた刈谷は泳がせていた視線を一点に固めたうえ何故か、沈黙した。
「刈谷さん、どうしました? もしかしてふざけてやしませんか? 刈谷さん?」
ジェスチャーや問いかけにも何ら反応せず。
ただ変わらず一点に注目したまま、先程の数倍は上擦った声を出す。
刈谷「いっ!…あ、あの、血が、血が有るんですよ… 須藤さん」
「はい!?」
咄嗟に彼の視線を追う。
ボダッ、ボダッ、ボダッ、ボダッ
会議室の隅、置かれてというよりかは追いやられるように配置された錆だらけの古いパイプ椅子。
そこから絶えず粘っこい音を立てて赤黒い液体が垂れている。
随分垂れ続けていたのか、カーペットはその吸水性を失い、粘性を湛える赤黒い水溜りが椅子の周囲に形成されていた。
私はその、不吉な赤黒さに覚えが有る。
「…八十さん? でしょうか?」
夕闇の片隅にぼんやりと、
いつの間にか、
しっかりと、
塩素で漂白したみたいに馬鹿白い
相変わらず気味悪い肌の老人が、
パイプ椅子に座っていた。
八十「ありゃあ、驚かせてしまいましたな?
あい、どうもすみませんね」
気色悪い、夕日にぬらぬら照り返す赤黒い着物の袂からボダボダ、同じく赤黒く粘つく液体を垂らしながら彼は話す。
声だけ聞けばなんてことはない。
気の良さそうな爺さんなのだ。
しかしながらいかんせん、その神出鬼没さといい他が異様過ぎる。
八十「ありゃ、りゃこれ? 気になりますかな?
すみませんなぁ。 何時も勝手に出てきちゃうもんでして… ま、ま、いつの間にか消えますから大丈夫なんですよ」
ベチャベチャと赤黒い水溜りを踏みやりながら、ニカッと笑うその口内には毒々しい赤色に塗られた歯が並ぶ。
「それならば安心です。
最近は備品の管理にしてもえらく厳しいものでして…
しかしまた急にいらっしゃいましたね八十さん。 どういったご要件でしたかな?」
刈谷はショックからか、目をパチパチさせながら黙り込んでしまっている。
尚の事、私はしっかりしなくてはいけない。
八十「いやぁ、すみませんねえ! なんてことじゃないんですよ。 ただ可愛い孫の大仕事なもんですから、心配で心配で…」
白い紙くずみたいにクシャクシャになりながらはにかむ様子は、微笑ましい筈なのだろうが目を背けたくなった。
「えぇ、可愛らしいお孫さんでしたね。
正直、若すぎやしないかとも思いましたが八十さんのお墨付きですし、内容に関しては期待しております」
こういう時は馬鹿正直に思ったことを話すに限る。
無理に繕っても見透かされるだけだ。
なんとなく、そう感じる。
八十「ええ、ええ、アイカはようやりますからなぁ! どうぞ期待してください」
「八十さんに依頼を断られた時は気が遠くなる思いでしたが、どうやら安心してお任せ出来そうですね」
八十「そろそろこの爺も歳でしてなぁ、後継に譲っていきたいのですよ」
「いやいやご冗談を… まだまだお元気そうじゃありませんか」
八十「本当にそう見えますかな?」
存外、強い調子の言葉だったのでついついその表情に目を向けてしまった。
初対面から二度と見るまいと誓ってはいたが、喉元過ぎればなんとやら。
直ぐに後悔した。
「あ、いやぁ… お気に触ったようでしたらすみません。 軽口が過ぎました」
八十「あっりゃ、そんなつもりじゃなかったのですがねぇ。 いやいや、こちらこそどうもすみません。 耳が遠いいから声もでかくなりがちで…
いや、いやいや、長居が過ぎましたな。 孫の心配も無くなりましたしそろそろお暇しますよ」
気まずくなり視線を外したほんの一瞬、視界の隅から対象は消えた。
初対面の時と大体、同じ調子だったので驚きは存外小さかった。
「…行ったか」
半ば反射的にため息を吐き出して冷めた茶を飲み干す。
一応、見回すが何もかもが何も変わらなかった。
ネバネバした赤黒い水溜まりは消えているし、そもそも先週の改修工事で新しくなったカーペットには染み一つ無い。
とりあえず、呆けている刈谷に声をかける。
「大丈夫ですかな?」
刈谷「大丈夫…って…まぁなんとも無いっちゃ無いですが… 何ですか? あれは?」
「あれとは失礼ですよ。 あの方が今回いらした ヤソアイカ さんのお祖父さんで、
八十 松練(ヤソ マツレン)さんです」
刈谷「いや、いやいや… そうじゃなくてですね、消えましたよ!? 一瞬で! 人間じゃないでしょうが!!! どう見てもあれは!」
「刈谷さん!!!」
気持ちは分かるが、言葉にしてはいけないこともある。 肩を力任せに掴んでくるあたり彼は今、間違いなくパニック状態だ。
柄じゃないが机を叩いて、彼の喚きを黙らせた。
「…今日は久しぶりに呑みに行きましょう。
いつものところで熱燗をいただきたくなりました」
刈谷「…、分かりましたよ… すみません。
年甲斐もなく取り乱しました」
「仕方のないことです。 普通に生きていたらまず触れることのない世界です。 美味い酒でも呑んで忘れましょう」
我々は夜逃げでもするかのように黙々と、残りの事務仕事と帰り支度を済ます。
"人間の眼球を針で突付きまくったらどうなるか?"
なんて知りたくも考えたくもない疑問の答えを再び見てしまった私は、寒くて寒くてしょうがなかった。
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