第5話 研修「紙魚屋敷」2

 コチ コチ コチ コチ コチ コチ コチ コチ コチ…

振り子時計の微かで重々しいリズムが、脳内にこびりつく。

前の住人のものなのだろう。

埃を被った紫のパンプスと黒い革靴が、辛うじて差す月明かりに寂しく照らされている。

ごく普通の、とあるご家庭の玄関口…。

もっとも、

玄関口の半分以上を平積みにされた本の山が、占拠していなければの話だが…

異常な、偏執的な、尋常でない傾向は、この家の常識らしい。

うず高く、本のトンネルのようになった廊下が斜め前方、底知れない暗さで続く。


溢れる本、本、本、

ぎりぎり人が歩けるスペースを確保しつつ床に積まれている本の山々が、生々しい。

開けた玄関戸は開け放しておこう。

…やはり何だか異様なのだ。


と、後ろから入ってきたアイカが、昼にハンバーガーにかぶり付いた時のような声を上げ…


アイカ「ん~♪たまらんね~♪」


ガラガラと玄関戸を閉めやがる。

外から響く風の音と虫の声が止めば、

謎のプレッシャーが場を支配する。


コチ コチ コチ コチ コチ コチ コチ コチ…ギチチ…

奥で何か、音がした。

見やれども暗く、見えず。

ライトを向けれども、やはり本ばかり…


俺「何で閉めるんですか?何かあった時逃げにくいじゃないっすか!」

陰鬱な雰囲気のパレードに堪らず抗議する。


アイカ「さぁーて!さすっち君!今日は君の研修も兼ねていること、忘れちゃいないかな?」

人差し指を左右に振りながら、いつもの尊大な調子は止まらない。


アイカ「霊はなぁ、自身の存在する場に固執するのだよ。特に我々が相手する、ホームグラウンドを構えるタイプの心霊は特にね」


俺「?…つまりどういう事です?」


アイカ「常識的に考えてみたまぇ。来客があったとして、その客が玄関戸を開けっぱなしってのは失礼だろう?」


俺「まぁ、そうですね」


アイカ「前にも話したが、霊とはすなわち人の心に依るところが大きいんだ。刺激するのは狩る瞬間の、ほんの一時が望ましいのだよさすっち君」

例の如くどや顔がうざったい。


アイカ「始終猛りくるう獲物を相手にするのは得策でないってことさ。疲れるだろ?」


俺「なるほど。何だか気を使いますね」


アイカ「そうだぞ~幸い今回はこの間まで人の出入りのあった民家だ靴を脱いでお邪魔といこう。ガチの廃墟はこうもいかんからなぁ…こっちの都合と向こうの反応の折り合いがめんどくさい、めんどくさい」

半ばぼやきながらブーツを脱ぎ始める。


俺「お邪魔しまーす、とか言っといた方が良いんですかね」


アイカ「うーん…霊相手に呼び掛けるのは止めときたまえ。変にアプローチ掛けると憑かれるぞ」


俺「…」


気乗りはしないが安全靴を脱ごうと片足立ちになった時だ、

「ふぎゃぁぁっああああ!!!」

うるせえ。

前方直近で絶叫が響く。

別に霊的な何かでも、はたまたそれ以外の超常現象でも何でもない。

先に手慣れた様子で家中に立ったアイカが、俺の前方1メートル先くらいで上げた悲鳴だ。

"刺激するのは狩る瞬間の、ほんの一時"

先ほどのどや顔はなんだったのか。


俺「どうしたんすか?」


アイカ「さ、さ、さすす、さすっち君!撤回!撤回だ!靴は是非とも履きたまえ!そんでもって…私の靴をここまで持ってきてくれたら嬉しいな」

つま先立ちでプルプルしている。


俺「はあ…」

脱ぎかけていた安全靴を履き直す。

ギィッと床板が軋む。

木造の平屋に土足は気が引けるが、仕事なのだからしょうがない。

万が一にも床を踏み抜かぬよう気を付けて、件の彼女の元へ。


俺「どうしたんすか…」

訊ねた手前、アイカの足元をライトで照らせば理由は一目瞭然だった。

紙魚だ。

紙魚がまとまって3、4匹ばかり彼女の足元で潰れ、赤黒い染みになっていた。


俺「あ~、やっぱこんだけ本があると、家中にも出るんですね」


アイカ「あーもう、最悪だよ!プチッといったよ!プチッと!」

苛ついた声を上げながらタイツを脱ぎ始める。


俺「何脱いでんですか?」

もうあまり驚かない。

彼女に羞恥心は期待できないことを知っている。


アイカ「私は虫が大嫌いなんだ!」

吐き捨てるよう言うと、脱ぎたてほやほやのタイツを丸めて苛立たしげに俺に押し付けてきた。


アイカ「これ、後で捨てといて‼」

うげ、生温かい…俺にはそんな趣味はない。が、やむを得まい。

口答えして本格的にこのお子さまが、機嫌を損ねてもこまる。

あ、二十歳だっけか…


アイカ「全く!久々にキレイ目の現場だと思ったらこれだ!なんでこう何時も何時も、現場には虫がいるんだ!全く!」

ブーツを履いた足で改めて、彼女はフローリングを地団駄踏む。


俺「止めて下さい。床板が傷みます」


アイカ「私は悪くないぞ。家中に虫をはびこらせるこのご家庭が悪いのだ」

彼女の前で虫の話はするまい。


…プチッ、プチッ、プチプチプチィッ

小さな破裂音が断続的に響く。

一見した時はこの民家を本屋敷と評したが訂正しよう。

ここは紙魚屋敷だ。

先ほどから響く小さな破裂音は、床に這いずる無数の紙魚の断末魔。正直、気が滅入る。

プチプチ言わせながら先程より無言のアイカが、ようよう口を開く。


アイカ「さすっち君。君は何かにこだわったりするかな?」


俺「そうですね…甘いものには目がないですかね。冷蔵庫には必ず何かしら常備してますね」

新人のころ同期に話して気持ち悪がられたものだ。


アイカ「そうか…それじゃあ変なことを聞くが…もし、その買ってきたこだわりのケーキなり菓子なりに虫がたかったとして、それに愛着が湧いたりするものかな?」


俺「いやいや、そりゃないですって!ただ気持ち悪いだけです。それに俺の場合は買ってきたらすぐ冷蔵庫に避難させます!」


アイカ「ハハハすまんすまん!だよね、普通はそうだろうよ!」

ライトに照らされる小さい頭が、うんうんと上下運動して、同意を示す。


アイカ「さて、確かここらだったかな」


言うとぐるり右に180度、方向転換。

目の前にはやはり底知れぬ暗闇が、ぽっかり広がる。

 そういえばさっきから彼女はどうしてライトも照らさずに前に進めるのだろうか?

俺のライトの光だって精々、彼女の僅かな足元を照らすだけだというのに…


俺「そういえばアイカさん、ライト…」


アイカ「おお!ビンゴビンゴ!」

会話をぶった切って、急に暗闇のなかに駆け出す。


俺「あ!危ないですって‼」

おいおい、本当に20歳かこの人は…


アイカ「いやぁ~、参った、参った。まさかこんなに沢山、虫が出るところだとは思わなかったよぉ」

追いかけた先、彼女は椅子に背を預けてブー垂れていた。


俺「アイカさん!何がビンゴ何すか!危ないですって、ライトも持たずに…」


アイカ「ん?あぁ…すまん、すまん。八十の修練で夜目がきくんでな、心配御無用~

まぁ、それよりさすっち君!

メモの準備は良いかな?一息落ち着ける場所に出たところで現場研修講義、第一回目といこうじゃないか!」


俺「はい?いきなりですね…」



アイカ「ヴァアアアア、ズキなお話ジハナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?ナニカナ?」


え?…


俺「え?、何です?」

改めて視線とライトを向けた彼女の、可愛らしく整った色白の顔面には、おびただしい数の紙魚が這いずっていた。


はぁ、はぁ、と狭い屋内、大して動いているわけでもないのに息が切れる。

数分、いや数秒前だったか…何が何だかわからぬ俺は、紙魚まみれの彼女の元から駆け出していた。

やばい、明らかに今の彼女はやばい。

誰に言われたわけでもないのに自然と頭がそう判断した瞬間、

気がつけば俺はどこにいるかもわからぬうちに駆けていた。

「ぅヴァアアア!待っでヴュヨぉおおお!」

そう遠くない後方から、ノイズの混じったような彼女の声が聞こえる。

このままでは不味い。

動転していたとはいえ、出口とは逆方向に走ったのは大失敗だ。狭い屋内、逃げ場が無い。

窓…、窓から出よう。

なんとかやり過ごして何処かの窓から外に出るのだ。

さっきから口内がカラカラひ干上がって動悸が止まらないのだから。

「ゥァァッァアアアア!」

さっきよりも近く後方、訳のわからぬ絶叫が聞こえる…


咄嗟に飛び込んだ曲がってすぐの小部屋にもやはり本。紙魚。

だが緊急避難先に我が儘は言ってられない。


「ヴゥァアアア!ゥウウウヴぅうぁアアううう!」


声という範疇をとっくに逸脱した、不快な雑音が迫ってくる。

早く、早く身を隠さなければ!


部屋の奥、不規則に積み重なった本、本、本。

群れる紙魚に吐き気を催しつつ、ライトを投げ出し掻き分けた先、白く滑らかなそれはあった。

本に隠れてて気づかなかった大きなバスタブ…


ここは、風呂場か…


脱出口には期待できそうもない。

じんわりとした絶望感が脳を焦らす。

「ォジヴュヨオオおおお!ざずっぢ君~」

堪らず中にたんまりあった文庫本を掻き分けてバスタブの中に屈む。

頭にリュック。

伸ばした右手で片側に積み上げた文庫本の山を崩し、リュックの上に降らせる。

即興のカモフラージュ。

あとは祈るしかない。

「ぁあッ!ゥウウウぅヴヴヴゥ!ゴゴがなぁアアア?」

畜生、小部屋に当たりをつけられたか…

不快な声が頭に響きやがる。

何故か冷たくなる体を必死に丸めてみるが、震えが止まらない。

「ォドどぉごッがナァ~どッヴぉかナァ~」

本を掻き分ける音が聞こえる。

「ぁっアアアアアアブヴッァアアアアアアア!」

不快な絶叫が頭上で響く。

「ぶヴァあああ!ぁぁアアアアアア!ぁだぁアアアアアア!ヴォッおおおおっぁッだぁああああ!」

絶叫とともに地団駄踏む音が聞こえる。

…?

ぴたり、と雑音と物音が止む。

撒いたのか?

音を殺し、呼吸を殺し、無駄な動きを殺し、体の震えを殺し、

慎重に、最小限に、確実に。

ゆっくりと顔半分を少しだけ、ほんの少しだけバスタブから覗かせる。

…いない

床に転がったライトが照らす先、バスタブから見える奥の暗闇、目線の先…

少なくとも現状、顔半分の目視から確認できる範囲にはなにもいない…

耳を澄ます。

微かな音もない。

あの、耳にこびりつくようなプチプチ音だって聞こえやしない。

バスタブから顔を出す。

もう一度、視力左右ともに1・2。

少し自慢な両目でしっかり眼前を確認する。

…OK

ゆっくりと立ち上がる。


「見ツゲだぁあ」

一瞬で停止する思考。

見下ろした目線の先。


真っ黒い口内からボトボトと紙魚を落としながら、バスタブの下、小さく屈んだ彼女は笑うのだ。

立ち上がった彼女の白くて小さい、紙魚の這い回る右手が、俺の脇腹を掴んだあたりで、

目の前が真っ暗になった…























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