その20 堂々と『王』として
身体が重い。
頭がまだぼーっとする。
時折聞こえてくる水が滴る音耳朶をうつ。
こころなしかカビ臭く、空気が湿っている。
ここはどこだろうか。
東山さんはゆっくりと上半身を起こすと、まだかすむ視界で周囲を見渡した。
少女が倒れていたそこは、石畳が続く薄暗い通路だった。
すぐ脇には少女の身長ほどの直径がある半筒形の路を水が静かに流れているのが見える。
周囲は所々ひび割れた石壁で覆われており、苔が所々むしていた。
不思議なのは壁自体が発光していることだ。
陽光が射す隙間すらないはずなのに、薄ぼんやりと周囲が視認できるほどの明るさがそこにはあった。
どういう原理なのだろう。
だがそれよりも。
どうして私はこんな所に――
剛腕無双の少女は額を抑え、まだ倒錯している記憶を必死に手繰りよせる。
と――
「お目覚めかな」
そうだ……私は落とし穴に――
聞き覚えのある声が横から聞こえて来て、少女の意識を覆っていた雲が晴れていく。
東山さんは今一度頭をフルフルと振ってから、声の主へと振り向いた。
「王様……」
「おはよう、気分はどうだい?」
近くの壁にもたれるようにして座っていたサクライは、目を覚ました少女の第一声に対しニコリと笑ってみせる。
東山さんは起き上がろうと左手を石畳につき、そしてややもって感じた鈍い痛みに顔を歪めた。
そうだった、確か矢が――
と、そこで左腕にいつもの腕章の代わりに白い布が巻かれていることに気が付き、少女はなんだろうと注視する。
それは純白のハンカチだった。
「すまないが勝手に応急処置させてもらった」
傷も深くなかったし出血もすぐ止まった。
幾針か縫うことにはなるだろうが、腱を切るような怪我でなかったのは幸いだった。
だがあの矢の雨を咄嗟にかわし、結果としてこの程度の軽症で済むとは。
大した子だ――サクライは少女の天性の運動神経に感服する。
「ここを出たらちゃんと処置してもらった方がいい。矢傷は熱が出る可能性がある」
「あ……ありがとう……ございます……」
東山さんはじっと自分の左腕に巻かれたハンカチを見つめていたが、しばしの間の後、照れくさそうに頬を染めると視線をサクライから逸らした。
だがすぐに状況を思い出し、気持ちを切り替えてサクライを向き直る。
「ところで、ここは一体――」
「地下水路だ」
「地下水路?」
「ヴァイオリンの地下に広がっている旧文明の遺品だよ」
サクライは少女の問いに答えると、傍らを流れる水路に目を落とした。
水路も壁同様に薄ぼんやりと淡い光を放ち、幻想的に水の流れを照らしている。
「ヴァイオリンは二千年ほど前、ここで栄えた文明の上に建てられた街なんだ」
だから今も地下一帯にはこのような水路が網の目のように張り巡らされている。
そしてこの街の水資源が豊富な理由も、この地下水路のおかげなのだ。
「旧文明……」
「我々はト・オン文明と呼んでいる」
かつてこの大陸で栄華を誇った文明。
最近大学で考古学分野の研究が進み、ト・オン文明の歴史を紐解こうと目下調査中ではあるが、未だ詳しいことはわかっていない。
だがこの光る水路一つとっても、我々ハ・オンの民とは比べ物にならない技術を持った文明であったことは容易に想像できる。
それでも滅びる時は滅びる。栄枯盛衰か――
サクライは感傷的な光を瞳に称え、静かに流れる水を見つめていた。
だが、そこで不可解そうに眉間にシワを寄せている東山さんに気づき、彼はなんだ?と、首を傾げた。
「でも王様。確か私達は落とし穴に落ちたんじゃ?」
「そう、そして落ちた先がここだった」
上を見てごらん?――
そう言いたげにサクライは頭上を指差してみせる。
東山さんは王のその指の先をゆっくりと見上げ、小さく息をつく。
頭上にはそこだけぽっかりと二メートル四方の空洞が空いていた。先は真っ暗で見えないが、遥か上まで続いているようだ。
僅かだが風の唸り声のような、独特の音が穴から響いている。
「こんな所に通じていたなんて――」
「元々はこの水路の通風孔か何かだったんだろう。その上にサヤマが家を建てた…ま、たまたまだろうが」
それを落とし穴に仕立てるとは、なんともあの老人らしい悪趣味なセンスである。
苦々しい表情を浮かべ、サクライは膝の上で頬杖をつきながら少女の言葉に続けた。
少女は再びサクライに視線を戻すと、なるほどと納得したように頷いていた。
だがそこでまた疑問が頭を過ぎり、東山さんは再び訝し気に彼を見つめる。
どうして落下したはずなのに無事なのだろう――と。
少女の言わんとしていることを悟り、サクライはかぶりを振って笑ってみせた。
「……言っただろう? 全て拾えると――」
穴はかなりの深さだった。まず常人なら助からなかっただろう。
しかしサクライは落下間もなく気を失った東山さんを抱え、途中の壁面に剣を刺して落下の速度を抑えた。
火花を散らしながら落下に抵抗する剣と、だがそれでも足りず彼は両足も壁に押し付け、ギリギリではあったが見事着地に成功していたのである。
残念ながら先に落ちた私兵は助からなかったようだ。
着地した彼が最初に目にしたのは、既にこと切れた無残な転落死体だった。
彼女が気を失ってくれてよかったと少しほっとしながら、サクライは遺体を少し離れた場所へ移動させ、簡易ではあるが弔っていた。
だがそれらを全て明かさず、蒼き騎士王はただ少女に笑ったのみだ。
しかし東山さんはなんとなく何が起きたかを察して、何とも言えない複雑な表情でサクライを見つめていた。
口元まで出かけた言葉を飲み込み、少女はその場に座り直して俯く。
サクライはそんな少女の態度を不思議そうに眺めていた。
しばしの沈黙。
「そうだ浪川君は――」
彼は無事だろうか。咄嗟だったから手加減できずに突き飛してしまったが。
立派な睫毛の少年の事を思い出し東山さんは呟いた。
「残念だが彼はおそらく捕まっただろう」
状況から考えてあの場を彼のみで逃げ切ることは難しい。
少女の呟きを聞いて、サクライは表情をやや険しいものとする。
「問題は他にもある」
「他にも……?」
「マーヤとそして君の仲間だが、恐らく君と僕の姿が見えないと気付く頃だ」
「……あ!」
王のその呟くような懸念を聞いて、東山さんもはっと顔をあげた。
そうだ、こっそり抜け出してきたんだった――と。
「王様、今何時ですか?」
「……朝の八時過ぎかな」
懐から懐中時計を取り出し、淡い光を頼りにそれを覗きながら王は答えた。
日の光はここでは見えないが、外はもう明るいだろう。
随分長い間気を失っていたようだ。いくらなんでももうみんな起きているはず。
きっとまゆみのことだから、自分がいなくなったことに気づいたら烈火の如く怒るだろう――
剛腕無双の少女は、顔を真っ赤にしてガミガミと説教をする日笠さんの姿を想像しながら、彼女らしからぬ畏怖の表情を浮かべて唸った。
「こっちも似たようなものだ。出来のいい妹を持つと苦労する」
彼女の心情がわかったのだろう。同情するように東山さんに苦笑いを浮かべ、サクライも小さな溜息をつく。
そろそろ朝議が終わる時間だ。流石に一晩姿が見えないとなれば城の皆もおかしいと感じ始めるはず。
特に
自分の行方が知れないとわかれば彼女は行動を起こし、そう遠くない未来にここまでたどりつくだろう。
できれば騒ぎが大きくなる前に何とかしなければ――
「だが、まだ機会はある」
「……王様?」
「もう一度あの屋敷に忍び込もう」
サヤマは自分達が死んだと思っているはずだ。
厄介な奴等が消えて油断している今こそ逆に好機――
パチンと懐中時計の蓋を閉めるとサクライは立ち上がる。
そして彼は、東山さんへ手を差しのべた。
まっすぐに彼女の目を見て、僅かに首をかしげながら。
「願わくば、この暗愚な王にまた手を貸してほしい」
君も行くだろう?彼を助けに――
蒼き騎士王の目はそう語っていた。
差し伸べられたその手をじっと見つめ、そして次に彼女は意外そうにサクライを見上げる。
また一人で行くつもりだとばかり思っていた。
どうせ怪我を理由に宿に戻れ、と言うとも思っていた。
だが彼の口から出た言葉は、東山さんの予想に反した言葉だった。
それは『まだ手は四つ』ということ。そして『共に背負おう』と認められたということ。
素直に嬉しい言葉だった。
そしてだからこそ。
やはりあなたは信用できない――
抱いていた疑念が輪をかけて大きくなる。
口に出しかけ、ぐっと堪えたていた先刻の感情が堰を切って溢れ出た。
「……どうして――」
小さいがよく通る東山さんの声は、彼女には珍しく『憂い』の色を浮かべた瞳と共にサクライへ投げかけられた。
言葉の意味が分からず王は再び首を傾げる。
少女は言葉を選ぶようにしばしの思案を巡らせた後、真っ直ぐな思いを言葉に紡いで問いかけた。
「どうしてあなたは『暗愚』なふりをするんですか?」
――と。
東山さんは尚も彼から視線を逸らさず、じっと返答を待つ。
やれやれと肩を竦め、王は差し伸べていた手を一度下げた。
「ふりとは?」
「そのままの意味です。市場で会った時はあれがあなたの素だと思いました。けれど今は――」
「……」
「――私にはあなたが……わざと
冷静に状況を判断し、単身で多勢を翻弄する狡猾さも。
危ういとはいえ、他人の危機に命を惜しまぬ優しさも。
サヤマ邸のホールで見せた他の追随を許さない圧倒的な剣の腕も。
そして今も、決して諦めず全てを拾おうとするその慈愛も――
全て紛う事なき『蒼き騎士王』として誇るべき立ち振る舞いだった。
だが彼はその一切を城の者に見せようとしない。
それどころかわざと韜晦し、挙句自分の評判を落とすような行為を繰り返し、マーヤを引き立てている。
全ては女王のため。
そして全ては妹のため。
誰にも称賛されることなく女王を助け、女王を支え、女王に迫る危険の芽を摘み。
そして皆からは『昼行燈』と軽蔑と嘲笑の眼差しを向けられながら呼ばれ。
だがそれでも彼は『それでいい』と飄々と笑っているのだ。
まるで『
出会ってまだ二日、だがそれでも。
短い期間ではあるが生死を共にした東山さんには、目の前の男性の生き方がそう見えたのだ。
「まったく君は鋭いな……」
『道化師』。
なるほど。言いえて妙だと東山さんの口から放たれたその言葉に対し、サクライは自嘲気味に苦笑する。
決して逸らそうとしない『純粋』な意志を瞳に浮かべ、東山さんは王に向けてかぶりを振った。
「堂々とやればいいじゃないですか。隠す必要なんてない。そんなに強くて、そんなに優しくて……なのにどうして――」
「――王は二人もいらない」
蒼き騎士王は断言する。
まるで自分の事のように、憤りと口惜しさの籠った少女のその問いかけに、重ねるようにして。
迷いのない王の口調に東山さんは言葉を噤み、だがそれでも納得いかないとサクライを睨み付けた。
だが彼は徐に踵を返し水路を歩き出す。
「どこ行く気です?」
「出口を探そう」
ここが自分の知る地下水路であれば、地上へ通じる路があるはずだ。
足を止めるとサクライはちらりと顔だけ振り返り、少女の問いに答える。
「待って、まだ話は終わってない!」
「時間が惜しい、歩きながらでいいかい?」
そう言って王は水路脇の道を再び進みだした。
納得いかなそうに立ち上がり、東山さんは仕方なくサクライを追いかける。
「さっきの言葉、どういう意味ですか?」
早足で彼に追いつくと、彼の背中に向かって問いかけた。
少女を見下ろし、その真っ直ぐな視線を逸らすことなく受け止めながら、サクライは穏やかな笑みを浮かべる。
「そのままの意味だ。二つの権力が同時に存在すれば、必ず争いの種になる」
「そんなことない。あなたとマーヤ女王ならきっと――」
「だがその後はどうなる?」
サクライのその問いかけに、東山さんは目を大きく見開いて言葉を詰まらせた。
兄さんも王になるならいいわ。じゃなきゃ私は断るから――
八年前、マーヤはそう言って彼にも王位を迫った。
無邪気で聡明な妹の頼みに、サクライは押し負ける形でヴァイオリン王に就任する羽目になった。
彼女と一緒なら或いはうまくいくかもしれない。
お互い足りない部分を支え合って、戦争で疲弊した
そういった淡い希望が胸の中にあったのも、彼女の出した条件を強く断れなかった理由の一つだ。
だが現実は違った。
若くして就任した王の権力に取り入ろうと、下卑た笑いを浮かべ近づいてくる者。
口八丁でマーヤの悪評を捲し立て、女王を更迭し権力の独占するべきと佞言と共に媚びてくる者。
就任直後は権力に溺れた貴族達が、ほぼ毎日と言っていいほどサクライに謁見を求めて来ていた。
勿論、そんな私利私欲に塗れた甘言に彼が乗るわけがなく、逆に貴族達は彼の射貫くような鋭い眼光を受け悲鳴をあげながら、這う這うの体で謁見の間から逃げ出していたが。
そしてそれはマーヤが世襲制を撤廃し、人事改革を行うまでうんざりするほど続いたのだ。
その時彼は思った。
自分もマーヤも、いずれ年老いて王位を継承するだろう。
自分達の息子か娘。或いは甥、姪かもしれない。
そうなった時、彼等が必ずしも自分達と同じように協力し合うことができるだろうか。
権力を狙う者達にそそのかされて、醜い骨肉の争いを繰り広げるようになるのではないか――と。
「王家の『血』は魅惑的な美酒だ。人の欲望をかきたてる魔力を持っている」
一度この
そう、サヤマ達貴族のようにだ。
自分達の代だけでなく、今後も権力が二つに分かれれば、いずれ現れる第二、第三の『サヤマ』によってこの国は再び十年前に戦争時代へ戻るだろう――
「だから王は一人でいい。民も臣下も忠を捧げる相手は一人でなければならない」
そう考えた王は。
ある日を境に玉座にその姿を現さなくなった。
城から姿を忽然と消し。
城下町で遊び呆け。
飄々とした優男の笑みを浮かべ侍女達の尻を追いかけ――
民や臣下からは『暗愚な王』、『うつけ王』、『昼行燈』と揶揄されるようになる。
そして彼を『暗愚』と侮り、付け入ろうとしてくる『腐敗の芽』を密かに摘み取り、女王を支える。
そんな日々を過ごすようになった。
「それで王様は……満足なんですか?」
掠れる言葉を絞り出すようにして喉から放ち、東山さんは歩みを止める。
やや遅れて歩みを止め、サクライはゆっくりと少女を振り返った。
「……満足していると言えば嘘になるね」
悔しそうに、そして憂う様に、自分を見つめている少女の姿が見えて、サクライは自嘲するように俯く。
暗愚な王を演じ続けていれば、見たくないものも見えてくる。
投げやりな気持ちになる事は何度かあった。
こんな『呪われた血』などいつでも滅びてしまえばいい。
母を追い詰め、自殺に追いやったこんな『血』など――と。
だが半面、その呪われた血で繋がっている妹が作ろうとしているこの国の未来を見てみたい。
そう思う時もあるのだ。
と――
「自らの命を軽く見る者に、他人を護ることなんてできない」
威風堂々凛とした声でそう言って少女は首を振ってみせた。
そして再びサクライの前まで歩み寄ると、射貫くような視線で彼を見上げる。
「あなたの道化は笑えない。だって面白くないんだもの……今すぐ辞めた方がいいわ」
今のあなたは逃げているだけ。
だからもっと自分に誇りを持って…もっと自分を大事にしてほしい。
そうきっと。
勝手な憶測でしかないが、マーヤ女王もそれを望んでいるのではないだろうか。
そう思いながら東山さんは右手の人差し指でトン、とサクライの胸を突いてみせた。
サクライはそんな少女の挙動に思わず顎を引き、彼女を見下ろす。
「女王を護りたいなら……この国を護りたいなら、堂々と『王』として護るべきです」
「君は――」
「血が何だっていうんですか。人の欲望をかきたてる魔力? まずあなたがそれに『王』として打ち勝って見せないでどうするんです?」
「……」
「そしてあなたが伝えて下さい。あなたの後を継ぐ者に、王としての信念を――」
あなたならきっとできると私は思う。
『欲望を掻き立てる王家の血』に群がる者達に決して負けない強い意志。
それを伝えることが――
純粋で真っすぐな何者にも染められない『白』。
いかにも彼女らしい信念を映し、東山さんの瞳は目の前の王の返答を待った。
サクライは言葉も出せずただただ、その少女の瞳を受け止めていた。
真っ向からの全否定。それも気にしていることを歯に衣着せずはっきりと。
まるでずんずんと遠慮なしに懐までやってきて、いきなりガツンと思いっきり頭を殴られた気分だった。
だが、不思議と悪い気はしない。
これはもう笑うしかない――彼はそんな顔つきで東山さんに苦笑してみせる。
「まったく君は。本当に遠慮なしにはっきり言ってくれる……」
「当たり前です。だってそれが本当の『護る』ってことでしょう?」
違いますか?――
腰に両手を当て、眉間にシワを寄せながら少女は強気な笑みを浮かべて首を傾げた。
「君はやはり純粋だな」
「そんなことありません。王様がやさぐれてるだけです」
「皆が君のようであればこうはならなかったさ」
本当に全てを『護る』こと。
それができればどんなに良いだろう。
ついさっきまでそう思っていたサクライは、しかし。
目の前の少女から背中を押され、考えを改める。
ああ、ならば。
今からでも間に合うのならば。
蒼き騎士の王として、全てを護ってみせようと――
「そういえばまだ答えを聞いていなかった」
「……?」
「願わくば、この『駆け出し』の王にまた手を貸してくれないか」
そう言ってサクライは再び目の前の少女に手を差し出し、そしてその顔を覗き込んだ。
にっこりと威厳ある微笑みを浮かべながら。
その笑顔に東山さんは眉間にシワを寄せ、やっとはにかむ様にサクライから視線を逸らす。
だが――
「聞くまでもないでしょう?」
私達はまだすべて『拾って』いない。
強き信念を持つ乙女は、ややもって力強く頷くとその手を握った。
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