第4話 つばき荘・住民用管理マニュアル
賢者である青木さんの部屋は暗かったが、その問題はすぐに解消した。
「おい、光れ」
と、青木さんは言った。壁面を指でなぞり、何か複雑な図形を描いたように見えた。
「いますぐに」
次の青木さんの言葉で、天井に光が灯った。室内が明るくなり、そこにあるものがはっきりと見えてくる。
青木さんの部屋は、やはり外観よりもずっと広かった。
それどころか、完全に美容室になっていた。
散髪できる客用のチェアは一つだけだが、小さな待合スペースがついている。ソファとテーブルと、さらには小さなコーヒーメーカーらしき装置があり、雑誌の詰まった棚まであった。
「さすがは、賢者アオキ。やるな」
セリアさんは、この照明設備にいたく感心したようだ。我がことのように自慢する顔で、俺を振り返ってくる。
「見ただろう、自称・管理人よ。これが賢者の魔法の一端だぞ。最初に見たとき、私はものすごく驚いて飛び上がったものだ。あの頃の私は、幼かったな……」
「ほんの二年前だろ、それ」
やや呆れたような青木さんの指摘に、セリアさんは顔を赤くした。
「昔のことだ。二年も前なら、人の子にとっては太古のことだろうに。賢者というのは記憶力がいいものだな」
二人のやり取りについて、俺は何も口を挟まなかった。
それよりも、このアパートの予想を上回る最新設備に思いを馳せていた。音声認識と、タッチ・パターンの識別で、室内の設備を管理している。
しかもこんな、一見すればただの板のような木の壁に、それほどの技術を。
「なあ。いまのは別に魔法ってわけじゃない――って、アンタはわかるだろ」
こちらを横目に見る、青木さんの目はやはり刺々しい。
「うまく言えないが、このアパート、こういう設備なんだよ。私もこのアパートの全貌なんてわかってない。断片的な住民用管理マニュアルに書いてあるやつを、ちょっとだけ利用できてる」
「ふっ。私も知っているぞ。住民用管理マニュアルというのは、つまり魔導書のことだ」
セリアさんは解説してくれているつもりなのだろう。本棚の端に詰め込まれた、厚めの冊子を指差してくれた。
その背表紙には、確かに『住民用管理マニュアル・その38』と書かれている。
「私には読めぬが、賢者ならば容易く読み解くという」
「ま、ただの日本語なんだけど」
賢者の青木さんは片手を振って、待合スペースのソファの真ん中に腰を下ろす。
「これな。やたら分冊されてるらしくて、私が持ってるのはそこにある『38』ってやつだけ。何冊まであるのかは知らん。私は、この部屋にあるのを拾ったんだ」
「なるほど」
俺も当然、管理会社からはマニュアルなんて渡されていない。
「最先端設備のアパートなんだね」
「何を暢気なこと言ってやがるんだ」
青木さんはより険悪な眼差しで俺を見た。
「不動産屋に騙されたんだよ、こっちはな」
と、青木さんは煙草に火をつけながら言った。
「条件が良すぎた。家賃はタダ同然だし、光熱費も一定額を管理会社が負担するってな。その割に設備は最新式。美容室の開業もオーケー」
どこか疲れたように、煙を大きく吐き出す。
「……私が甘かったよ。そこは認める。でも、普通は思わないだろ? アパートがこんなになってるなんて。最初は、頭がどうにかなりそうだった。人間の慣れって恐ろしいな」
人間は慣れる、という点においてなら、俺も同感だ。
どんな環境にでも、やがて人間は適応していく。俺もそうだった。そうでなければ死んでいた。密林、砂漠、深海、大気圏の外――俺はどこにでも行ったし、なんでもやった。
「で、そっちの話。アンタはどうなんだ?」
青木さんは身を乗り出し、俺を下方から睨みつけた。
「管理人だって言ってたよな」
「そうだよ」
俺はできるだけ穏やかに首肯した。
「まっとうな仕事に就いて、生まれ変わろうって思ってね。いままでの俺は、ええと、控えめに言っても非生産的な人間だったから。仕事もクビになって、家からも追い出されたみたいなもの、というか」
「ご愁傷様」
青木さんは煙草をくわえたまま、喉の奥で笑った。
「それでアパートの管理人ならいけるって? こんな怪しげなところに応募したのかよ」
「ムツハマ・グループ――いや、正確に言うとそこから不動産事業を委託されてる孫請け会社ってことになるかな。T&S不動産レジデンスっていう会社から、管理人業務を請け負ったんだ。契約書もあるんだけど――」
「いや、いい。いらない」
スーツの内側から契約書を引っ張り出して見せようとした俺を、青木さんは片手で制止した。意地悪く笑う。
「アンタも騙されたね。このアパートはこんな場所だぜ。前の管理人は一年前に死んだ。それから管理人の椅子の奪い合いが始まった」
青木さんは灰皿を引っ張り出し、そいつに煙草の灰を落とした。
「屋上に管理人用のペントハウスがあるんだけどな。四階から上はペントハウスへの入室を狙って、五人の阿呆がにらみ合ってる。おかげでこの辺りまで最近は騒がしい」
「そうだ! 賢者アオキよ、その話をしたかった!」
セリアさんが唐突に手を挙げた。
「六人目の阿呆が現れたのだ。妖術王ビルメレムだ。やつが一階の廊下という廊下を占拠した。しかも、手下のオークどもにエグバートを貸し与えていたぞ!」
「へー。そりゃあ、また――」
青木さんは髪の毛をぐしゃぐしゃとかきむしった。
「面倒だな」
呻くような声。
「外にも出れないのは、困るだろ……。買い物できねーじゃん。明後日、ライブにも行く予定あるんだけど……」
そこへ来て、俺もそろそろ状況がつかめてきた。
つまりこれは、住民同士のトラブルだ。そこのところは明白だろう。
聞かなければならないことが、いくつかある。
「その妖術王ビルメレムって、どんな人なのかな?」
「ふむ。お前は新参者だからな……よし。私が教えてやろう」
どことなく嬉しそうに、セリアさんがうなずいた。
「もともとやつはオークたちの、とある部屋の長だったという。確か三〇九号室だったな。それがある日突然、魔法の力を手に入れた。エグバートを始めとした防犯鬼神たちを、召喚して使役する力だ」
喋りながら興奮してきたのか、セリアさんはテーブルを叩く。
「やつはさらに魔法を研鑽し、いまでは自由自在に雷を放つというのだ。これは賢者アオキの知恵がなければ対抗できんと思って、私がエルフ代表としてやってきた!」
「おいおいおい。私だって無理だよ、そんな雷を自由自在に放つなんてやつは! アメコミのヒーローかよ!」
青木さんはソファにもたれかかり、天を仰ぐ。
「ただの美容師だぜ、私は」
「ビヨーシは賢者のことだろう。私は姉からそう教わった!」
「それが大きな誤解で……ていうか、私が使える魔法って、そういうもんじゃねーし。まあ、防犯鬼神って言うんだっけ。あの変なバカでかい泥人形。あれくらいは呼べるけど――」
「やはり!」
セリアさんは目を輝かせた。
さっきから思っていたが、セリアさんはどこか青木さんに敬意を払っている節がある。さっきは『胡散臭いやつ』だと言っていたが、内心は結構彼女のことを心配しているし、これはもう慕っているといってもいいのではないか。
「それでは賢者アオキよ! そなたの防犯鬼神で、ビルメレムのやつに光の裁きを与えてやればいい! 私が援護する!」
「最後まで聞け。ビルメレムのことは、そこそこ噂で知ってる」
青木さんはソファから体を起こそうともしない。
「エグバートだけじゃなくて、防犯鬼神をいくらでも召喚できるんだってな。どんだけ金持ちなんだよ。私がそれやったら、三匹目くらいで今月分の光熱費減額分を軽くオーバーするっつーの」
「なんだと……賢者アオキより、ビルメレムめの方が、魔力が上だと……?」
「魔力っていうか……まあ、ここのシステムって、そういうものなんだよ。だから無理」
話は終わりだ、というように、青木さんは煙草を灰皿に押し付けた。
「あのエグバート一匹とってみても、見たならわかるだろ。目から火を噴くし、再生能力はあるし、レーザーとかも出す。もう無理だね。絶対に無理」
「しかし、賢者アオキよ!」
セリアさんが反論しようとする。だが――もういい。十分だった。
「――うん。大体、わかったよ」
言って、俺は青木さんの前に立った。
「やっぱり住民トラブルなんだ。それなら俺が面倒を見るよ。仕事だからね」
「はあ?」
青木さんは幽霊でも見るような目つきになった。驚いている。
「アンタ、まだこのアパートのことをよくわかってないのか。エグバートを見たんじゃないのかよ。そんなヘラヘラしやがって、正気か? いいか、ここでは外の常識なんて通用しないんだよ。下手したら――」
「いいんだ。俺はここで生まれ変わる。そう決めた」
いまが、そのチャンスだ。これを逃す手はない。
「住人のみんなが困ってるなら、助ける。俺は管理人だし、それが仕事だからね。ちゃんとした人間ってそういうものだろう?」
青木さんは何も言わなかった。呆気に取られている、と言った様子だった。
「ビルメレムさんがどこにいるか教えてくれ。俺が直談判してみる」
「――なんなんだ、アンタ」
「俺は管理人だよ」
そのまましばらく、俺と青木さんは空中に視線をぶつけたままでいた。
沈黙はどれほど続いただろう。
セリアさんが不安になって、何か口を開こうとした――その寸前で、青木さんは諦めたように顔を伏せた。
「なんだ、こいつ。どうかしてる。変なやつだ」
呟いた彼女は、頭痛を堪えているようにも見えた。
「冒険者ギルドだな」
青木さんは唐突にまた呟く。
「え?」
「ビルメレムの行方を知りたいなら、やつらに聞いてみることだ。そういう噂話に色々と詳しい」
冒険者というものが何か知らないが、ここで長く暮らしている青木さんの言うことだ。耳を傾ける価値は必ずある。
何よりも、彼女は社会人だ。美容師なんて、立派な職業じゃないか。俺には眩しすぎるくらいだ。
「それに」
と、青木さんは付け加えた。
「もしかすると冒険者どもの中には、アンタの味方をしてくれるやつもいる――かもしれない」
そうして、彼女は自嘲気味に笑った。
「望み薄どころの話じゃないけどさ」
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