第2話 防犯鬼神・エグバート
大きな泥の人形だ。
廊下の奥から現れた巨体を見て、俺はそう思った。
黒々とした泥を捏ねて、強引に人型を拵えている。両腕がやたら長く、床にこすれて、一歩を踏み出すたびにガラクタ群をばきばきと押しのける。
頭部には一本の角らしきものがあるが、特徴と言えばそれしかない。
顔には鼻も口もなく、ただ大きな赤い一つ目だけが、火口の溶岩のように赤く輝いていた。
「見たか、馬鹿どもが」
鼻血を流しながら、『豚耳』と呼ばれた小男は笑った。なるほど、よく見れば彼の耳も尖っていて、豚によく似ているかもしれない。
彼はわめきながら転がり、俺の足元から逃れる。
「防犯鬼神、エグバートだ! 貴様らを捻り潰し、焼き払ってくれるわ。いけ! エグバート、いけ!」
その言葉に反応したのか、エグバートはまた、ほおおおおう、という奇妙な咆哮をあげた。いったいどこからその声が発生しているのか。意外と声ではないのかもしれない。
「まずいぞ」
尖った耳の少女は、次の矢を弓につがえ、こちらを睨むように見た。
「変な男のせいで奇襲は失敗したし、エグバートまで出てくるとは」
その青い瞳が潤んでいる。ちょっと泣いているのかもしれない。
「エルフの狩人は恐れなど知らないが、勇気と無謀は違う。本当だぞ。ここは冷静に考えて、撤退しなければ」
「エグバートというのは」
俺は泥の巨体を指差した。
「あの大きい人のこと、でいいのかな」
「人のはずがあるか!」
少女の声は、明らかに苛立っていた。
「ゴーレムだ。妖術王ビルメレムが、魔術で作り出した防犯鬼神の一体だ!」
「防犯か」
なるほど、と、俺は納得した。
セキュリティ設備のようなものか。
俺も南米で見たことがある。戦闘用のAIを搭載した、多脚兵器だ。大企業から支援を受けた反政府軍がダース単位で保有していたため、俺も散々戦う羽目になった。
やつらを破壊するのは、ちょっとしたコツがあって――
「何を間抜けな顔をしている!」
考え込んでいる間に、少女から怒られた。
「死にたいのか、変な男め」
エグバートが眼前に迫っていた。その長大な腕が持ち上げられて、鞭のようにしなった。応戦しようというのか、少女は矢を放とうとする。
「逃げろ! 私が足止めを――あっ」
「それは無理だよ。やめた方がいい」
明らかに少女の矢では止まらない。俺が考えた通り防犯兵器なのだとしたら、やつらに痛覚はない。
だから俺は少女を抱え上げ、跳んだ。
後ろではなく、前へ。巨人の足元をすり抜けるように。
電子脳幹にインストールされた、スキルバッチが実行される――アクティブ起動、即時。《跳躍》。レベル七。
増強神経系が、
生み出される爆発的な跳躍力を、強化プラスチック製の骨格が支える。
「あっ」
抱えた少女は抗議するような声をあげたが、気にしている暇はない。
エグバートの腕が唸りを上げ、俺たちが直前までいた場所を叩いた。床が破壊され、べきべきと木片が飛ぶ。ついでに濛々たる埃も舞い上がる。
「なんだ、あの野郎」
ガラクタの隙間に身を隠していた、『豚耳』の男が立ち上がった。
「やっぱりエルフどもの用心棒か! どこの部屋のやつだ!」
他の『豚耳』たちもざわついている。エグバートは俺たちを見失って首を動かす。逃げるとしたら、いまだ。
「ええい、離せ!」
腕の中で少女がもがいていることに気づいた。
「一人で立てる。い、いまのには感謝するがっ、それはそれとして離せ! エルフの狩人を、こ、このように抱えるのは無礼だぞ!」
「そうだね」
俺は少女を離してやった。彼女はほとんど飛びのくようにして、俺から距離をとった。細長い耳の先端まで赤くして、俺を睨んでいる。
「まったく、エルフの体に触れるとは! 変な男め、平時ならエル・ヌールの裁きにかけるところだが、いまは許す。それどころではないからだ! あとで落ち着いたら――」
「エグバート! 後ろだ!」
『豚耳』の男は、手に持ったカナヅチを振り回してわめいている。
「階段まで逃がすな、焼け! 焼き払え!」
「いかん」
少女は俺の手をつかんだ。それはどちらかといえば、強引に引っ張っていくというよりも、近くにある杖でも握って安心しようとするような仕草だった。
「逃げないと! 走れっ、階段まで急げ!」
「わかった。やってみよう。あれは――」
振り返ったエグバートの瞳が、いっそう赤く輝くのがわかった。
「ヤバそうだ」
実際、ヤバかった。
エグバートの目が閃いて、赤い光が周囲を満たす。
次の瞬間、その瞳から炎が放たれた。ちょうど、火炎放射器のようなものだった――走り出した俺たちは、その熱気を背中で感じた。
なるほど、と、俺はまた納得した。
南米でよく見かけた多脚戦車も、ああいう兵器をいくつか搭載していた。マシンガン。ミサイル。レーザー。何でもありだった。
素手ではどうしようもない。
「走れ、走れ、走れっ」
少女が俺を促す。
「階段だ! 交戦不可地帯! エグバートもやつらも、そこまでは追ってこれない!」
一瞬だけ俺は振り返り、横目にエグバートを見る。
木造のアパートにも関わらず、不思議と周囲に引火する様子はない。なぜか。考えるよりも、俺の体は経験による危機からの退避を選択していた。
スキルバッチ。アクティブ起動、即時。《走破》。レベル五。
あとはわき目もふらず、少女の手を引いて逃げるだけだ。
ほおおおおう、と、背後からエグバートの咆哮が聞こえていた。
――――
「――なんということだ」
木造の階段にたどり着き、その踊り場まで駆け上がると、少女はようやく息をついた。
本当にエグバートと『豚耳』の男たちは追ってこなかった。実に合理的だ。階段でもめ事を起こすと危ない、という常識を、彼らも理解しているようで嬉しい。
それともこの階段には、何か別の意味があるのだろうか?
「やつらがエグバートを連れてきているとは。妖術王め、今度という今度は本気なのだな。このアパートのすべてを敵に回そうとは……!」
「あんまり喋らない方がいい」
俺はちゃんとした社会人らしく、少女にアドバイスを試みた。
「呼吸が落ち着くまで待たないと、余計に苦しいよ。それと、できればでいいんだけど、そろそろ俺の手を放してくれないかな?」
「あっ!」
少女は大いに慌てて、俺の手を離した。また跳び下がろうとして、この踊り場ではそんなに距離が取れないことを思い出す。
「よ、よくもエルフの体に二度も触れたな。本来なら絶対に許さないところだぞ!」
「手を握ったのは、きみの方で――」
「黙れ。忘れろ。そんなことより」
俺の反論は無視されて、少女はこちらをまた無遠慮にじろじろと見た。
「お前、変な男。本当に外から来たのか?」
「そうだよ」
俺は笑った。この笑顔は、多少なりとも友好的に見えているといいが。
「このアパートの管理人をやることになったんだ。屋上の管理人室まで行きたいんだけど、どうすればいいかな?」
「――それが本当だとしたら」
少女の目は懐疑に満ちていた。
「とても困難な道のりになるだろう。管理人を僭称して、そこを目指すものは多い。まずは賢者のやつに会うべきだ」
「賢者?」
「賢者アオキだ。お前同様、胡散臭いやつだが、色々と知っている」
そうして少女は、階段を一段上がった。
「やつは二階に住んでいる。ついてこい。さっきは一応、本当に一応、お前に助けられたからな。案内してやる」
「ありがとう」
俺はしっかりと礼を言う。
これこそちゃんとした社会人というものだ。俺は自分がものすごい勢いで社会的になっていくのを感じた。やっぱり仕事を辞めて正解だった。
社会的になったついでに、もう一つ聞いておくことにする。
「そういえば、きみの名前は?」
「セリアファスラウール・エル・ミティアラウヌス」
「……もう一度、お願いしてもいいかな?」
「セリアでいい。皆、そう呼ぶ。二〇五号室、《白面の鹿》のセリアだ」
「わかった。よろしく、セリアちゃん」
「ちゃん、は不要だ!」
少女――セリアは、烈火のごとく怒った。
「そんな呼び方をすると、案内してやらないぞ!」
「失礼」
やはり、俺は他人との距離の取り方がよくわからない。呼び捨ては無礼かと思ったが、彼女は『ちゃん』と呼ばれる年齢ではなかったか。
「よろしく、セリアさん」
「それでいい」
セリアさんの細長い耳が、かすかに動いた。
「私から離れるなよ。二階で迷うと、死ぬぞ」
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