異世界コーポ つばき荘

ロケット商会

第1話 205号室のエルフ

 自宅を爆破され、勤めていた職場もクビになってしまったので、俺はアパートの管理人を引き受けることにした。

 生まれ変わりたかった。

 インドの宗教的な用語を借りれば、そう、転生サンサーラ

 そのためには、何もかもを捨てて、一からやり直すしかないと思った――自分自身の確固たる意志で。


 この決意を伝えたとき、元・同僚たちからは散々なことを言われたものだ。

「どうかしている」

「お前には無理だよ」

「落ち着け、まだ間に合う。一緒にボスに謝ってやる」

「カウンセリングを予約しておきました。明日の三時からです」

 ――などなど。

 どいつもこいつも、ひどい言い草だ。俺がまともに働けるはずがないと思っている。だから俺が面接に合格したことを告げたときのやつらは、もっとひどいことを言った。


 それでも俺は、決してかつての職場に戻りたくはなかった。

 もう少し人の役に立つ仕事をやりたかった。ちゃんと社会の役に立っているという手ごたえが欲しかった。それだけだった。

 つまり、俺はほとほと前職にうんざりしていた。


 決意を固めてしまうと、面接から採用まで、何もかもがトントン拍子に進んだ。

 管理すべきアパートの住所を告げられ、朝の九時には到着した。西武池袋線の練馬駅から徒歩で十五分。

 どうにも堪らないほど寒い日で、耳の奥まで凍えそうな、冷たい風が吹いていた。


 管理するアパートの名を、

「コーポ つばき荘」

 と言った。


 見上げてみれば、それは驚くほど古めかしい建物だった。

 確か、四階建てと聞いている。それにしては目を疑いたくなるほど大きい。増築に増築を重ねたせいか、混沌とした見た目をしている。これを何かに例えるならば、ねじくれて育った巨躯の獣、といったところか。

 木造と鉄筋が入り混じるというモザイク状の構造が、その異様さに拍車をかけていた。

 冬の曇天の下で見ると、限りなく禍々しい。


 だが、じっとしていても仕方がない。

 なにより、ここに待ち受けるのがどんなものであれ、前の仕事を続けるよりも何倍もマシだと思えた。

 アパートの管理人は、誰かの役に立つ仕事だ。いままでの俺とは違う。いまこそ俺は生まれ変わるのだ。そう思えば、たとえこの建物に幽霊の類が潜んでいようとも、なんとかやっていける気がした。


 一度だけ深呼吸し、冷たい空気を肺に満たすと、玄関の戸を滑らせる。建付けが良くないのだろう、ギコギコと悲鳴のような音がした。

 まず俺を迎えたのは、湿ったような匂いだった。

 目を凝らせば、薄暗い廊下が続いている。壁際に所狭しと積まれたガラクタ――少なくとも俺にはそうとしかみえないオブジェクト群のせいで、非常に見通しが悪い。窓もほとんど塞がれている。

 そのせいか、外見からは想像できないほど長く続いているような気がした。


「ひどいな」

 俺は思わず口の中で呟く。

「こいつは、まず掃除が必要だな」


 この様子では、廃墟と言われても信じたかもしれない。

 かなり不気味だ。

 それでも先へ進まなければ意味がないので、俺は慎重に足を踏み出す。巨大な怪物の口の中に、自分から踏み込んでいく気分だった。


 だいたいの間取りは、頭に入っている。

 まずは屋上、管理人居住用のペントハウスに向かうべきだった。

 事前に渡されていた管理用マニュアルに、簡易地図があった。

 なぜか半分以上の部分が黒塗りで隠されていたが、あれを参考にするなら、突き当りを右に曲がれば階段があるはずだ。


 そうして、十歩も歩かないうちだったと思う。


「動くな」

 不意に、鋭い女の声が聞こえた。

 一〇六号室、と書かれたドアが開いていた。ちょうど左手にあるドアだった。そこに、何者かが仁王立ちしている。

「こちらを向け。妙な動きはするな、侵入者よ」

 言われた通り、俺はゆっくりと振り返る。


 まず目に入ったのは、弓につがえられた矢だった。

 ちょうど、俺の首筋に突き付けられている。


 そいつを構えているのは、風変りな少女だった。

 この薄暗がりでも輝くような金髪と、白い肌。青い瞳は警戒と懐疑が入り混じり、その矢と同様、俺を射殺さんばかりに睨んでいる。

 身にまとう装束は、草色の簡素なチュニック――額に奇妙な文様の描かれたバンダナ。俺は日本の最近のファッションには詳しくないが、こういうのが流行っているのだろうか。やや奇妙に思った。


 だが、より注目すべきは、彼女の耳の先端だろう。

 尖っている。

 まるで妖精のようだ、と俺は思う。ヨーロッパの伝承にある、尖った耳の妖精。あれはシェイクスピアあたりが言い出したものだったか――


「何者だ」

 俺が考え込んでいる間に、彼女は詰問口調で問いかけてきた。一瞬、俺はその意図をつかみ損ねた。俺は何者か。


「この一階大廊下は、現在封鎖中だ」

 尖った耳の少女は、弓の弦をさらに強く引いた。ぎりり、と、音が聞こえるほどに。

 俺はそろそろ友好的な挨拶を行い、関係の改善を試みようとした。


「やあ」

 片手をあげる。

 爽やかな挨拶に聞こえることを、俺は願った。

「これは、いい弓矢だね」

 俺は彼女の見た目の中で、最も美徳である部分を褒めた。

「矢の穂先は、何かの生き物の歯かな。かなり鋭い。この距離なら、俺の喉を確実に貫けそうだ」


「……ああ。そのはずだ」

 少女は気味が悪そうな顔になった。褒め方を失敗したのかもしれない。

「二〇五号室、エル・ヌールの神の名において。もう一度聞こう」

 耳慣れない神の名――少女が信じる存在だろうか。

「お前は何者だ? 耳が丸いな。ドワーフか、ハーフリングか。見たところ、やつらの同類ではないようだが、どの部屋から来た?」


「どの部屋からでもないよ。だが、強いていえば」

 俺は親指を立て、玄関に向けた。

「外からだ」

「嘘をつくな。私を甘く見るな。私はエル・ヌールの狩人だ」

 少女の目つきが、いっそう厳しくなった。

「私に嘘をつくと、恐るべき裁きがくだる。本当だぞ。疑った者にも、裁きはくだるぞ」

 この文句は、脅しの類なのだろうか。だとしたら、アパートの管理人らしい返答とは何か。返答に困っているうちに、じろじろと無遠慮に俺の頭から、つま先までを眺める。


「なんだ、その装束は」

「これ、変かな?」

 なんとなく、俺は自分の襟元に手をやった。

 住人の皆からまっとうな社会人らしく見られるように、ビジネススーツにネクタイまで巻いてきた。オーダーメイドで注文したのだが、さては流行遅れだったか。

 この少女の服装を見ていると、そんな気がしてくる。


「そうだ。お前の装束は変だ。それに」

 少女は軽く唇を噛んだ。

「動くなと言ったはずじゃないか。絶対に動くな! 私に指一本でも触れたら、本当に射抜く!」


 これはまずい。

 俺は少女の表情の奥にあるものについて、ようやく思い当たる。彼女は恐れている。なんとか、関係を改善すべきだ――彼女の口ぶりからすると、どうやらアパートの住人のようだ。


「待ってくれ。俺に敵意はないんだ」

「待たない! 質問に正直に答えろ。嘘つきはエル・ヌールの三つの瞳で焼かれるぞ!」

「わかってる。正直に答えよう」

 俺は深呼吸をする。できるだけ誠実で、神妙な顔になっていることを祈る。

「俺は管理人だ。今日からここで勤めることになった」

「か――管理人だと?」

 少女が目を見開く。

 荒々しい怒声が響いてきたのは、そのときだった。


「おおう! やはり待ち伏せていたか。細耳の雌犬め!」

 いくつかの乱暴な足音。敵意に満ちた声。

「しかも、なんだその男は。新しい用心棒か? 無駄なことを!」


 今度は、そちらを振り返る。

 やたらと猫背の一団だった。数は六人ほど――俺はまた奇妙に思う。

 軽く戦争でもしてきたようなボロボロの衣服は、まあいい。そういうファッションもあるかもしれない。


 だが、彼らが手にしている鉈やらカナヅチやらノコギリやら、物騒な武器のようなものは何か。

 俺が離れているうちに、日本は飛躍的に物騒になったのか。


 一方で、彼らの頭部についても、目を疑ってしまいそうになる。

 狼と豚を掛け合わせ、一度マッシュしたような、これはもう間違いなく人間とは思えない面相をしていた。その口からは、牙さえ生えている。


「豚耳ども!」

 尖った耳の少女は、嫌悪に満ちた唸り声をあげた。一瞬、迷ったが、俺ではなく彼らの一団に弓を向ける。

「ここは通さん。お前たちの進軍はここまでだ」


「何を言ってる、雌犬め」

 乱暴な一団のうち、先頭を歩く男――俺の見立てが正しければ――は、せせら笑った。

「今朝からこの廊下は、俺たちが支配することになったんだよ」

「ふざけるな、豚耳ども! 誰の許可を得てそんなことを」

「俺にそんな口を叩けるのも、いまこの瞬間が最後だ。俺は王から力を授かった。エグバートだ、知っているだろう? お前ごとき、軽く捻り潰すさ」

 その言葉に、少女の顔色が青くなる。エグバート、というのが何か知らないが、彼女にとっては恐るべきもののようだ。


「さあ、臆病者の細耳め、そこをどけ! いまなら俺の奴隷にしてやってもいいぞ」

 そうして、彼はどかどかと足音荒く近づいてくる。片手に持ったカナヅチを振り上げてもいる。そいつを少女に向けて振り下ろす予定なのだろう。

「このアパートは、我らの王が支配するのだ」


「そうはさせるかっ」

 少女は少女で、弓を強く引き絞った。狙いを定めているのがわかる。その手が、矢を放そうとする。


 良くないな、と俺は思った。

 早速、住人同士のトラブルだ。

 だから、彼らの間に割って入った――そして、同時に両者を止めた。


 少女の放った矢は、左手で掴んだ。


 猫背の男のカナヅチは、右手で抑えた。振り下ろされる勢いを利用し、引き込んで、相手の内腿を蹴飛ばす自分を止められない。

(しまった)

 悔やんでも、もう遅い。気づけば、猫背の男を床にたたきつけていた。積もり積もった埃が、盛大に舞い上がる。


「貴様」

 猫背の男は、顔面を強かにぶつけたらしい。鼻血を流して怒鳴った。

「許さん! エグバート、来い! こいつを殺せ!」

 それは廊下の奥に向けた呼びかけだった。


 廊下の奥で、大きな影がゆらりと動いた気がした。

 とてつもない巨漢だった。天井に頭がこすれて、がりがりと異様な音が鳴る。あれがエグバートなのか。ほおおおおう、と、やや間抜けな咆哮が廊下に響き渡った。


 ぼんやりとそれを眺めながら、俺は自分の愚かさの方にばかり気が向いてしまう。

 いまのは最悪だった。

 暴力を使った――他ならぬ、このアパートの住人に対して。

 俺は生まれ変わるはずではなかったか。


 テロと殺しは、もうやめた。

 もっと強く決意しろ、と、俺は自分自身に言い聞かせた。

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