第13話 担当はサキュバスの大佐だった
「ただいまー」
誰もいなくとも晶は玄関の扉を開けるときはそう言ってしまう。
晶の母も同じで、どうして誰も待っていないのに声をかけるかと尋ねたら、『どうして誰もいないと思うの?』と、にやりと返されて、ぞっとしたものだ。ファンタジー作家ってのは、いつでもどこでも隙あらば、ひとを驚かしてやろう、騙してやろうと考えているんじゃないだろうか。晶はそんな疑いが捨てきれない。
それでもいつの間にか晶にも同じ習慣が付いていた。
ただ、今日は返事があった。
「おかえり」
靴を脱いだ瞬間には、もう目の前の廊下にフレアがいた。
「あ。う、うん……ただいま」
なんかヘンな気分になってしまう。本当は同時に家に帰ったのだとしても、返事があるというのは嬉しいものだった。
「そして、我も、ただいま、だ」
「お、おかえり」
「挨拶は異世界間交流の基本だと習った」
「……フレアって日本語上手だよね」
「配属先が決まると半年間の研修がある。そこで覚えた」
「これって異世界出張だったの!?」
──なんだか急に世知辛くなってきたぞ!
「語学だけではなく、習慣も叩き込まれるのだ」
「へ、へえ」
「ちなみに、『おかえり』の後は『ご飯にする、お風呂にする。それとも、わ・た・し?』という慣用表現があるのだ」
そう言ってニコッと笑みを浮かべるのだ。
──完璧な笑顔と声だった。
晶の頬は自然と熱くなってしまった。なんでそんなに囁くように言うんだよ!
「そんなの誰が教えてるの!?」
「異世界交流事務官」
「事務官」
「担当はサキュバスの大佐だった」
「サキュバス」
「最前線で活躍中。交渉で失敗したことがない。相手が男性のときだけだが」
「ぜったい、人事の配属ミスだよね、それ!」
なんでそんなのに研修を任せてるんだ。どう考えても間違ってる!
「……この対応はいらないのか?」
「いらないよ!」
「そうか……残念だ」
がっくりと項垂れた。
晶は気づいた。
「もしかして……またお腹が空いてる?」
言った途端にフレアのお腹がぐぅと鳴った。
「ちょ、ちょっとだけ。ちょっとだけだぞ」
「……なんか作るよ」
「ほんとうか?」
ぱぁっと無邪気な明るい顔になるのだから、晶は苦笑しつつも作ってやろうという気になるのだ。
台所へと場所を移し、手軽に済まそうと晶はホットケーキを焼いた。
量の加減が分からなかったので、小さめのフライパンで数をこなすことにする。試しに3枚焼いて出したら、一瞬で空にされたので、思い切って10枚追加した。9枚まで食べてから、思い出したように「晶もどうだ?」とおそるおそる最後の1枚を差し出してきたので、食べちゃっていいよと遠慮した。結局13枚めもしっかり食べていた。
──セントールって、めっちゃ食べる!
果たして母が帰ってくるまでに食費が持つだろうか。急に母が晶に食費を渡し忘れたことが気になってきてしまう。まあ、心配しても始まらないか。いざとなれば多少の貯金はある。
食後の紅茶を入れてから、晶は改めて今日の出来事を思い返していた。
気になることは幾つもあったが、やはりいちばん気になるのは……。
「伊東さんのことなんだけど──」
「あれは夢喰いの怪物に夢を喰われている」
「夢を……」
「神官たちの予言したとおり、この街にいるのだ」
「その……夢喰いの怪物が?」
フレアが頷いた。
「我ら《宝石の夢魔》は、夢喰いの怪物の出現が預言された地に送られる」
──派遣社員みたいなこと言ってる。
「ということは、もっとも夢喰いの怪物と遭遇しやすいということでもある」
「あ、じゃあ!」
「あの小人は間に合わなかったのだろう。辿りついたときには主の夢は喰われていたわけだ」
「そ、その怪物は──」
「どうなったかは分からない。まあ、あのチビすけと夢を喰われた夢使いでは退治まではできなかったと思うが。怪物の行方は聞いてみないと確かではない」
それ以上はフレアは語らなかった。
推測以上のことは言えないということなのだろう。詳しいことは明日になってからでも、伊東さんに直に聞いてみるしかない。
「でも、どうしてあんなことをしてたの?」
夜の学校で、絵を描いていたわけだ──なぜ?
「しかも、魔法で描いたものを呼び出していたんだよね?」
「それが彼女の《夢使い》としての力だからなのだろう」
「《夢使い》の力って……まるで魔法だよ……」
そう言ってから晶は気づいた。フレアがまさに言っていたのだ。フレアたちは魔法を使えない。魔法を使えるのはヒトだけだと。
「もしかして、僕も使えるの、魔法?」
頷かれた。
「で、でも、僕はそんなことできた記憶が……」
「《宝石の夢魔》が──我らのことだが──横にいれば使える。あの娘も、あの小人がいるから使えるのだ。その力こそが夢喰いの怪物を倒すために必要なのだ」
「小人……ポンペくんだっけ? コロポックルって……なんで、アイヌの小人がフレアたちの世界にいるんだろう?」
それを言ったら、セントールがいるのも何故だ? 晶の知る限り、それは自分たちの世界の神話の生物のはずだった。
「晶。我らを呼ぶその名前は、こちらの世界の者が勝手に決めたものだ。同じ存在が受け取る側によって捉え方が変わり、結果、名前が変わるだけ。我らは昔からいた。《妖精郷》に」
「ええと……どゆこと?」
「晶、『世界』というのは幾つも存在するのだ」
言いながら、フレアはテーブルに置いてあった新聞のちらしを取った。
ちらしを幾枚も重ねつつ言う。
「このように、それらの世界は互いに重なりあっている」
「
「並行、という言葉は正しくない。それらは実際は同じ場所に重なりあって存在する」
そう言って、重ねたちらしを横にして見せつけてきた。確かにそうすると、ほとんど厚みがなくなって一枚の紙に見える。
「同時に存在する幾つもの世界の間には薄い被膜のような境界があって、そのおかげで相互の世界は混ざらない」
「う、うん」
なんだか難しい話になってきた。
フレアは晶のほうへと向きなおった。しばし口を閉ざしている。どう言ったら分かってもらえるのかと、迷っているふうでもあった。
コチコチコチと時計の針が時を刻む音だけが聞こえていた。時刻は、すでに深夜2時をまわっている。明日は起きるのが大変そうだ。
「……だが、世界の被膜は時々破れてしまうことがある。我々の世界と晶の世界とは、過去に何度もそうして繋がったことがある。神官たちはそう言っていた。そして、我々の世界のものたちが晶の世界に現れるたびに、我々はそちらの流儀で名付けられた」
「あー、なるほど」
なんとなく晶にも分かってきた。
ポンペのような小人が異世界からやってきて、それを晶たちが見つけたとき、西洋ではノームとかコボルトとかレッドキャップとか名前を付け、アイヌの人々はコロポックルと呼んだ。そういうことなのだろう。たとえば、空を飛ぶハーピーと天狗は、ひょっとしたらフレアの世界から現れた同じ種族なのかもしれない。
「世界が野放図に混ざり合うことは混沌をもたらすとされており、世界の皮膜を護ることを使命としている者たちもいる。我らの世界にも、この日本国にも居たはずだ」
「僕たちの国に!?」
驚いた。
ということは、《妖精郷》が実在するということを知っている者たちが地球にもいるということで……。
晶は強く頭を振った。いきなり色々な話が出てきて混乱しそうだ。
ただ、自分たちの世界とフレアの世界とは、意外に昔から付き合いがあったのだな、と晶は思った。
「だが、いまや、どちらの世界も夢喰いの怪物に喰われつつある。我らは世界を喰われ、晶たちは《夢》を喰われ。喰われた人間は、あの娘のようになってしまう。夢使いとしての力が消えてゆく」
瑠砂のことだ。
「なおら……ないの?」
瑠砂の顔を思い出しながら晶はおそるおそる聞いた。瑠砂の、泣くことも笑うこともできないでいる顔。見ている晶のほうが胸の痛くなる表情だった。
ほうっておけない気がしていた。
「すべて喰われてしまったわけではないならば癒せる可能性はある。夢のかけらでも残っていれば、それを育ててやればいいのだと思う。おそらくあの小人もそう考えたのだろう」
「夢を……育てる?」
それと絵を描いて呼び出すことがどう繋がるんだろう?
「あれを見て、晶はどう思った?」
フレアに尋ねられ、僕は校舎を徘徊する鬼火たちを見たときのことを思い返してみた。あのときの感情を……。
まず、なによりも驚いたっけ。
怖かった。
そして、それ以上に──いや、それゆえに、かも。
「……なんか、きれいだった……」
「それが恐らく答えだろう。
驚異とか。
恐怖。
美しさ。
強い感情が夢を育てる……。
「だから、異世界の生物なんて呼び出してたって?」
「おそらくな。あの小人の入れ知恵だろう。この世界の者たちは我らの世界のものたちを見たことが少ないはずだ。驚くだろ?」
「そりゃまあ」
こんにちはって挨拶できるほど、妖精がそこらを歩いてたりはしないし。
「主殿も、我を始めてみたときには驚いてたぞ」
言われて、晶はフレアとの出会いを思い出した。
確かに割れた卵から出てきた宝石に驚いたし、軽自動車を軽々もちあげたセントールの力を目の当たりにしてっびっくりした。あれはすごかった。青い空に舞う白いタンポポの綿毛を背景にして、赤い髪に黒い毛並みの半人半馬の少女が、強い意思を秘めた
だが心を揺さぶられたのは確かだったのだ。心を揺さぶられ、惹きつけられる不思議な体験。
異世界の異種族の姫君を見たら、誰だってそうなるのでは?
そしていつの間にか、晶は、次に何が起こるかが楽しみになっている。
待ちわび、それが起こるたびにびっくりして、でも、それが楽しくて。
「そうか。そう言えば、昔、母さんが言ってたっけ……」
「うん?」
フレアの耳がぴくんと動いて、晶の言葉に反応した。こういうところは、妙に獣っぽい。
「うんとね。ぼくの母さんはファンタジー……空想物語を書いているんだけど、なぜファンタジーなんて書いてるのかを聞いたことがあったんだよ。そのとき、言ってたんだ」
『晶、あたしたちはねぇ、目の前からいつの間にか不思議を失ってしまったんだよ~』
目の前でイカのゲソを肴に安いワインを呑みながら言っていた。
締め切り明けで目の下にクマを飼っていて、なんでそこまでして書いているのか不思議だった。毎度のことながら、自分で「こんな変な世界書けるかー」って叫ぶ声が聞こえてくるのだ。自分で作ってるくせに。
窓の外、しとしとと雨が降りつづける梅雨だったっけ。
『不思議が失くなった?』
『そうだよー。世紀の始めに、宇宙への挑戦はやめちゃったし。技術の進歩だって止まっちゃったし。ただ、小手先の技があがっただけでさー。くそー、なんで未だに火星に基地がないんだろー』
『母さん、お酒くさい……』
『ぐすぐす。小説だって映画だって、最近はリメイクばっかりで、どこかで見た場面と登場人物ばかりなんだよー」
普段から子ども相手にも普通に話しかける母だったが、そのときは晶はまだ小学1年で、理解するには難しい言い方だった。たぶん、酔ってたんだろう。
『あたしは、子どもたちに見たこともない不思議なできごとってやつを見せてやりたいんだよ~。たとえお話の中であってもさー。それで、なにがどうなるってわけでもないんだけど。でも、子どもたちの心には、それが必要だと思うんだよ~』
そんなことを言いながら、数分後にはすやすやとテーブルに突っ伏して寝てしまっていた。父の名を何度か呼んでいたことを覚えている。
寝床まで運ぶのが大変だった。
でも、子どもたちの心には、それが必要だと思うんだよ……。
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