第7話 具体的に言えば、お臍が見えていた

「ただいまー」

 家の扉を開け、声をかけてから晶は気づいた。

 玄関に母の靴がない。締め切り明けだと言っていたし、外出でもしているのだろうか、と考えながら靴を脱ぐ。台所キッチンのテーブルの上にメモを見つけた。

『温泉でトモちゃんとリフレッシュしてきます』

「またか」

 しかも、週の始めから友人の作家を引きずりまわして大丈夫なのだろうか。晶は毎度のことながら心配になってしまう。行き先は定宿にしている長野の温泉旅館だろうと分かっていた。

 メモの脇には財布がひとつ。何日留守にするか分からないが、この軍資金で乗り切れってことか。

「はいはいっと」

 いつものことである。もう慣れた。

 財布のなかは百円玉が3枚。

「ちょっと待てい!」

 携帯が鳴る。

『ごめーん、お金入れ忘れちゃった!』

「やっぱり……ああ、うん。だいじょうぶ、手持ちがあるし。ゆっくりしてきていいから……」

 携帯を切ってから、しかし晶は安堵の笑みを浮かべた。

 ──でも、助かったかも。

 ポケットから宝石を取り出してフローリングの床に置いた。テーブルを端に寄せる。

「これくらいあれば……出てきていいよ!」

 そう言った晶が瞬きで目を閉じた一瞬で、天井に向かって伸びをするセントールの娘が目の前にいた。

「んー! やはり、外はいいな!」

 相変わらず豊かな胸が大きな縦揺れを起こす。ごくっと唾を呑んでしまい、晶は慌てて首を振って雑念を追い払う。

 ──だから、上半身だけ見るからいけないんだ。全身を見れば、ほら、古代ギリシア神話の彫像だって思えてく……。

「──るわけないって! 無理だよ!」

「どうしたのだ、主殿?」

「な、なんでもない!」

 なんとか目を逸らした。鉄の意思が必要だ。

「……ええと」

 これはまずい。母の居ない二人きりの状況で、こんなに無警戒で半裸で可愛い女の子とひとつ屋根の下なんて。晶は隣の居間に駆けこむと、箪笥から自分のTシャツを引っ張り出してフレアのほうに向かって投げた。

「これ、着て!」

「む? この世界の服だな。慣習には反するが、我らもいくさのときには軽い鎧はつけるゆえ、頼みとあれば──主殿」

「な、なに」

「丈が足りぬ」

「たけ? ……そんなはずは──げっ!」

 うっかり視線を送ったのが運のつき。

 足りないのは服の丈ではなくて、胸だ。肩幅が同じでも胸の厚みの分だけシャツが上に押し上げられて大変なことになっている。具体的に言えば、おへそが見えていた。

「かえって、腹まわりがすーすーするのだが、こういう服なのか?」

「見せつけなくていいから!」

 反論する前に母の服を探した。ボタンの服では胸元が留まらず全滅で、ゆるいTシャツ系に落ち着く。素肌にTシャツでは、かえって気になる気もするけど。しかし、箪笥の中を母の下着まで漁ることはどうしても晶にはできなかったのだ。どうしても! できない!

「やっちゃいけない気もするし」

「ところで、ご母堂は何処に?」

 先ほど晶とやりとりしていた携帯の声が聞こえたのだろう。着替え終わったフレアが服を借りた礼を言いつつ尋ねてきた。声で母と分かったということは、卵を割ったあのときから、フレアは既に石の中に居て聞き耳を立てていたということになる。

「旅行に行ったよ」

「父君は?」

「あー、居ないんだ。10年前から行方知れずって、その話はまた後にしよう。とりあえず今夜は石の中に戻らなくても大丈夫だから」

 フレアが、まずい質問をしたと顔を曇らせたので、晶は務めて明るい声でそう返した。実際、10年も経てば慣れもする。

「助かる。正直、外に居られるのは有り難い」

 礼を失わないのはフレアが姫だからだろうか。

「この中だと窮屈だったでしょ」

「それは違う。この中に大きさはないし、我の身体の機能は言葉のやりとり以外はほぼ停止した状態であるから、疲れもしない。飢えもしないし、歳も取らない。言ってしまえば、コカトリスによって石化された状態に近い──のだ」

「その例えだと……あまり嬉しくない気がする」

「楽しくはないが、我慢はできる。我には使命があるゆえに。ただ、閉じこもってばかりでは使命は果たせぬ。その意味でも外に出たい」

「使命かあ。その使命って──」

 ぐーっ。

 晶の腹が鳴った。 

 ぐーっ!

 つられたように目の前の少女の腹も鳴る。

「なんか食べる?」

 フレアは顔をやや赤らめたのだが、意外にも首を横に振った。

「それはできない。先ほど言ったことと反するが、食べると、この世界にしてしまう。石の中に戻っても時間が経過するようになるのだ。我は頻繁に出てきてはいかんのだろ?」

「それは……」

 だからといってお腹を鳴らしている女の子の前で自分だけ食べる気にもならない。昼食のときはそこまで気が回らなかったが、今はもうダメだ。この我慢強い姫君は晶が気づかなければどこまでも我慢してしまうのだろう。そこまで考えてから、晶はふと思いつく。

 つまるところ──外に出ても気づかれなければいいのだ。

「何か手はないの? ほら、ファンタジーならよくあるでしょ、姿を消す魔法とか目くらましの魔法とか」

「我らは魔法を使えない」

 意外な言葉に、晶は驚いた。

「存在そのものが魔法的な生き物には魔法は使えないものだ。使えるのは主殿のほうだ」

「ぼ、僕?」

「可能性がある。だからこそ我を呼べたのだし」

「僕は何もしてないよ!」

 言い返した晶を、フレアはじっと見つめるだけだった。しばらく見つめあった後、フレアは口にする。

「我は食べてもよい」

「……大丈夫なの?」

「主殿を困らせるつもりはなかった。すまない」

「まあ、どうせ母さんは1週間は家に戻ってこないだろうし。その間は家の中なら出てきてもいいから」

 問題は、軽自動車なみの体重の者が家のなかを歩き回っても大丈夫なのかということだ。今のところ床は耐えてくれているが。

 冷蔵庫を漁ると、冷凍したおにぎりがたくさん出てきた。作り置きしていってくれたらしい。解凍してから醤油を垂らし、オーブントースターに放り込む。こんがりと焼けた醤油のいい匂いが部屋の中にたちこめた。チン、と鳴る。

「はい。どうぞ」

 勧めたときには、もうフレアの手は焼きおにぎりに伸びていた。

「あひらはりょうひがうまひのふぁな!」

 口いっぱいに5つめの焼きおにぎりほうばりながらフレアが言った。

 晶は料理が上手いのだな、と言いたかったらしい。

「そ、それはどうも」

 はたして、焼いただけのおにぎりを料理と呼んでよいものだろうか? 晶としてはちょっと恥ずかしい。作っておいたのは晶ではないし。


 いつのまにか時刻は夜の7時をまわっていた。

 家の中は静かで、フレアが時折思い出したようにフローリングの床を蹄で叩く音だけが響く。

「で、その使命ってやつだけど」

 晶が問うと、フレアは6つめに手を伸ばしながら言った。

「この世界は狙われておる。我らの使命は主殿に協力して奴らをこの世界から追放することだ」

「奴ら……って?」

「夢喰いの怪物だ」

「夢喰い……」

「奴らは夢を喰う。我らは世界の半分を喰われた」

 フレアが言った。

 言葉が頭に染み込むと晶はぞっとしてしまう。

「世界を……喰われただって?」

「ああ。最悪なのは王都だった。その日のことは今でも覚えている。王宮から念話による連絡があり、我が駆けつけたときには街の3分の1が消えていた」

 理解できない言葉だった。

「大きな怪物にかじられたかのように、大地はある処を境にすっぱり抉り取られていた。父の務めていた王宮も砂糖菓子をスプーンで削ったかのように無くなっていたのだ。想像できるか、主殿? 建物が、道が、それどころか生き物さえもが、ヤツに喰われたところだけ、言葉通りにしたのだ」

「君の父さんは……」

「腕ひとつだけ、残った。苦しまなかっただろうことだけが救いだ」

 晶は言葉を失って黙り込む。

 少女の決意の裏にあるものを垣間見てしまった気がした。

 晶の父は行方知れずなだけだ。生きている可能性はある。それなのに、彼女は晶の心を案じて心配してくれたわけだ。

「〈妖精の女王〉を長に立て、あらゆる種族が諍いを棚上げして、夢喰いの怪物をめっしようとしたが、できたのはヤツの半分を消滅させることだけだった」

「半分……」

「残りの半分は世界を越えて逃げ延びた。奴が逃げた先の世界が──」

 ──僕たちの世界、だっていうのか。

「そいつらは僕たちの世界も食べようと?」

「この世界は食えない。夢喰いの怪物が食えるものは夢だけだ」

 晶は首を捻るが、フレアは構わず先を続けた。

「だからこそたちが悪い。誰も食われたと気づかないからな。だが、奴らは確かにこの世界に来ており、既に夢を食べ始めている」

「ど、どうしてそんなこと分かるの?」

「主殿も見たであろう? 夢を食べられた者を」

 ──僕が、見た?

「夢使いであるヒトが夢を食べられることは、夢を使えなくなることを意味する」

 おにぎりを口に詰め込みながらフレアが言った。

 冷蔵庫からもってきたウーロン茶をコップについでやり、フレアに差し出してやる。それをごくごくと飲み干すと、彼女はようやくひと息ついたようだった。

「夢を使えない……と、どうなるの?」

「症状としては、全身を襲うだるさ、眩暈めまい、頭痛に動悸に息切れ、肩こり、吐き気、食欲不振と不眠などだな」

「なにそれ」

「ようするに気力が湧かず、それに伴い想像力が枯渇する。人形のようになる、と言えば分かりやすいか? 決まりきったことはできるが、そこに夢を乗せることは叶わなくなる。主殿も見ただろう、そういう人物を」

 どうしてか晶にも分からない。だが、その人の名が晶の口をついて出たのだ。

「伊東瑠砂るさ……」

 フレアが頷いた。

 最後の8つめを食べ終えて、ようやくフレアは満足げに微笑んだ。

「うまかった! では、行くとしようか、主殿! そろそろ時間だろう」

 晶は反射的に時計を見て、それから窓の外を見た。

 既に日は沈み、夜の帳が降りている。


『この子と待ってる』


 緑色の宝石を掲げて言った瑠砂の別れ際の言葉が晶の脳裏に蘇った。

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