第6話 この子と待ってる

 廊下で待っていた少女に晶は問いかける。

「君は……?」


「5組の伊東……伊東瑠砂るさ


 それだけ言うと、くるりと背を向けて先に立って歩きだした。

 ──ついてこい、ということかな?

 伊東瑠砂は言葉のひとつも発することなく黙ったまま廊下を歩いた。

 後ろをついていく晶は、幾度か声を掛けようとしたのだけれど、何をどう言ってよいものか分からずに、結局は黙って後を追う。

 渡り廊下を過ぎて、第2校舎へ。なかば予想していたが、瑠砂が晶を連れていったのは美術室だった。晶は彼女の背を見つめながら美術室に入る。行儀は悪かったが、片手はポケットに突っ込んだまま。手の中にフレアのいる宝石を握りしめていた。

 放課後の美術室は人気ひとけが無く、西に傾いた日差しが窓から差し込んで、壁際に並べられていた石膏の胸像たちを赤く染めていた。少し、怖い。

「ええと、伊東さん、話ってなに?」

「あなた……に、見て欲しいものがあるの……」

「見て欲しいもの?」

「そう……感想を聞かせて」

 晶は当惑してしまった。美術室まで連れてきて感想を、ということは何か美術品についてだろうか。

「僕、美術を選んでるけど、絵は得意じゃないよ」

 文字を書くことや、歌を歌う、あるいは楽器を演奏することに伴う苦手意識に比べたらマシだったからだ。母には「歌は父さん譲りの音程の外し方ね」と言われている。けど、そこは似て欲しくなかった。絵はそれらに比べれば──ふつう、だと思う。上手くはない。

「知ってる。昼間見たから」

「絵を見てたの!?」

 じっと見つめられてのは、それ!?

「そういうわけじゃなかったんだけど……」

 彼女は氷りついたような表情を変えずにそう言った。

 そこで晶は違和感を感じたのだ。2年になってから半月ほど。伊東さんとは選択科目だけの付き合いだ。ろくに話したこともない。

 だから断言はできない。できないが……。


 ──こんな無表情なひとだっけ?


 伊東瑠砂は美術室の中を歩いて、覆い布を掛けられ、画架イーゼルに飾られたキャンバスたちの前まで晶を連れていった。

「これ」

 立ち並ぶキャンバスのひとつの覆い布をさらりと外した。はっと晶は息を呑む。

 白いキャンバスに描かれていたのは、見知った少女の姿だった。

 線書きなので色は付いていないが、晶はキャンバスに描かれたその少女の髪が炎を思わせる赤であることも、瞳が赤みがかった橙色レディッシュオレンジであることも知っている。下半身は漆黒の毛並みをもつ馬の姿をしていた。


 そこには半人半馬のセントールの娘が描かれていたのだ。


 ふわりとした髪が、くるりと肩のあたりでカーブを描いて、背中へとなだれ落ちている。通った鼻筋に、少々太めの意思の強そうな眉が乗っていた。

 よく、似ている。

「……これ、伊東さんが描いたの?」

 こくりと頷かれた。

 目の前の絵は、まるで写真で写したかのようにそっくりだと晶には見える。

「う、うまい……」

 正直に誉めたつもりだったが、瑠砂は表情を変えずに言う。

「ほんとうに?」

「う、うん。すごく上手だと思うけど……」

「上手……。そう……」

 感想を言い間違えたのだろうかと晶は訝しむ。この絵を見せて、瑠砂は何かを期待しているらしい。晶は改めて絵を見直してみた。

 ──あれ?

 違和感を感じる。何かが違う気がする。

「目、かな」

 よく似せて描いてはいる。写真のように。だが、瞳に力がない。

 フレアは確かにいわゆる美少女なのだけれど、晶が彼女に見つめられるとドキドキしてしまうのは、顔が整っているというだけではない。


 赤みがかった橙色レディッシュオレンジの──瞳の、輝き。


 フレア・アルトュース・アラトラールが、晶に対して強い印象を抱かせるのは瞳に込められた意思の輝きなのだ。

 強い決意を秘めて、あの人馬の姫君は晶たちの世界にやってきた。彼女の心の奥底に眠る決意の秘密は分からない。だが、強い決意があるからこそ、真っ暗な宝石の中でじっと待つことも厭わないのだろう。

 その瞳の輝きがこの絵には表現されていない。そして、それがなければ、いくら似ていてもこれはフレアではない。いちばん大事なところなのだ。

 まるで機械が模写したような──晶にはうまく言えなかったけれど、強いて言えばそういう感じだろうか。瑠砂の絵はそんな感じだ。

 正直にそう言った。

「あなたには分かるのね……みんなは分からなかったのに」

 ぽつりと瑠砂がつぶやく。

 声を聞いたとき、晶は彼女が泣いているのだと思った。だが、顔をあげた彼女の瞳に涙のあとはない。それどころか哀しみの表情さえなかった。

 4月の初めに美術の時間に会ったときの彼女は、こんな風だっただろうか?

 晶はもう一度、思い返してみた。喜怒哀楽の激しい子に見えなかったのは確かだ。だが、こんなに表情の読み取れない女子には見えなかった。

「美術の先生はケンタウロスの像なんて持ってない……」

「っ!」

「それに、授業が終わった後の準備室にも、この絵の像はなかった」

「そ、それは……」

 じいっと表情のない瞳で見つめられ、晶は思わずポケットの中の宝石を握りしめる。

 だが、瑠砂はそれ以上を追求することはなかった。

 代わりに言う。

「あのひとに伝えて」

「あ、あのひと?」

 狼狽うろたえる晶から視線を外し、瑠砂が自分の描いたキャンバスを見た。

「今夜も練習がある」

「えっ? 練習って、なんの……」

「心を取り戻すための」

 訳が分からなかった。

「ここで」

「ここって……学校ということ?」

 頷かれた。

「でも、たぶん、成果が出ない。わたしたちだけでは限界なの」

 そう言いながら、隣に立ててあったイーゼルの覆い布を外した。

「これが、春になる前に描いたわたしの絵」

 思わず晶は息を呑む。

 大きなキャンバスに描かれていたのは一匹の巨大なドラゴンの姿だ。

 想像上の生物であるのに、コバルトブルーの鱗で全身を覆われた竜の姿は畏怖さえ感じさせるほど恐ろしげで、蒼い瞳を覗き込むと、見つめている自分のほうが凍りついてしまいそうな気分になる。

 巨大な青い竜が巻きついた丈高い塔は氷に覆われ、眼下の街並みは厚い雪に閉ざされていた。家々の窓の向こうに小さく見える暖炉では、

 声も出さずに晶は見つめてしまう。ようやく思い出した。

 確かまだ1年のときに、絵画のコンクールで賞を取った女生徒がいたはずだ。朝礼のときに賞状をみなの前に出て受け取っていた。頬を紅潮させ、顔には満面の笑みを浮かべていたっけ。先生たちもそろって褒めそやしていた。

 そうだ。その女子の名が、伊東瑠砂。

 絵の中の竜を見つめる。生きているよう。これが──瑠砂の描く本当の絵。

「この子と待ってる」

 呆然と立ち尽くしていた晶が気づいたときには、2枚のキャンバスには元通りに覆い布が掛けられ、瑠砂は美術室から出るところだった。

「この子―─?」

 瑠砂はスカートのポケットから何かを摘みだすと、晶に向かって掲げた。夕日の淡い日差しの中でも分かる。

 鮮やかな緑色ヴィヴィッド・グリーン

 晶がポケットの中で握りしめているものと同じくらいの大きさの──。

「それは、は──」


「ペリドットっていう宝石らしいわ」


「待ってるわ、今夜」

 それだけ言って、伊東瑠砂は美術室を先に出て行った。

 

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