第5話 妖精の匂いがする
部屋には油絵で使う
5時間目は芸術の時間で、晶の選択は美術だった。昼休みの後で、もっとも眠くなる時間の授業で、なおかつ、またも担任が休みだった。石膏デッサンという課題は与えられたけれど、真面目に取り組んでいる生徒のほうが少ない。ただ、おしゃべりもまた少なかった。
芸術選択は3クラスの合同になるから、4月のこの時期では親しい友人の数も減る。晶自身も話し相手がおらず、クロッキー帳に鉛筆を押し当てつつ、うつらうつらと舟を漕いでいた。
「伊東ちゃん、ちょっとここ、どうしたらいいか教えて~」
「ええと、あたし、そこまでうまくない、よ」
声に目を向けると、ひとりの少女の周りに幾人かの女子が群がっていた。伊東と呼ばれた子はたしか美術部だ。隣の5組の生徒だった。ショートの髪をボブカットのように切り揃えている、少し気弱でおとなしい性格のようで、周りに群がる女子たちにやや引きつった表情を浮かべつつも、無碍にできないでいる。
女の子たちがわちゃわちゃ会話している光景を、やや羨ましそうに男子たちが見ているが、女子の集団に割って入る勇気はないらしい。
「……主殿」
小さな声が聞こえて晶はぎくりと身を竦ませる。
ポケットの中からだ。フレアの声。大声は出さないでくれたので、周りには幸い聞こえなかったようだ。晶は左右を窺った。誰も自分のことに関心を払っていないのを確認すると、宝石の中のフレアにささやく。
「なに?」
「……妖精の匂いがする」
晶は驚いてふたたび左右を見回したが、いつもどおりの美術室には生徒たちの姿しか見えない。すこし考えてから、隣の席の男子に声をかける。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
「あ、オレも行くわ」
「えっ!?」
予想外の答えに晶の心拍数があがる。
「あ? ……なんだ、さぼりか?」
「いやいや、まさか」
晶は、慌ててそう否定したけれど、用を済ませてから「先に戻ってて」と告げたのを見て、彼はやはりという表情になった。
──今日一日で、すごく不真面目な印象をもたれちゃったなぁ。
美術室の隣には細長い美術準備室がある。デッサン人形やらイーゼルやらの、道具置き場になっている。幸い鍵は掛かっておらず、晶はそっと扉を滑らせて中に入った。宝石を取り出してから告げる。
「ここなら出られると思う」
宝石の中の小さなセントールの表情がぱっと明るくなった。それを見て、晶は罪悪感を感じてしまう。
「ただし、静かにだよ?」
こくんと頷いてから、フレアは片手を振り上げた。
一瞬の
晶の目の前に、馬の
こうして目の前で見ると、やはり大きい。
「揺れてるし」
「何が?」
しまった、大きいって、そこじゃない!
「い、いや、背が高いなって。大きいなって話! 身体が! 身体がだよ!」
大声を出せないのが辛い。
「我は一族では小さいほうなのだが」
「そ、そうなんだ」
「うむ、しかし、やはり外は良いな。んーーーーんっ」
大きく両手を上につきあげて伸びをする。
晶は慌てて顔を逸らした。
──見てない! 僕は見てないから! 駄目だ。全然慣れない。そろそろ見慣れるかと思ったけど、そんなことはなかった。晶は心臓の音が聞こえてしまうのではないかと怖かった。
墓穴を掘る前に晶は話を戻すことにする。
「さっきのだけど……ええと、なに? 妖精の匂いって」
「我と同じ《妖精郷》のものがこちらに来ているぞ。気配がする。どこかに──」
フレアが左右を見渡しながら言う。
「──痕跡があるのだろう」
「でも、別に何も匂わないけど」
「少し探したい」
「ちょ、ちょっと待って」
ただでさえ狭い部屋なのだ。晶と彼女が辛うじてすれ違えるほどしかない。ましてや、美術準備室には壊してはいけないものが山ほどある。
「大丈夫だ。我を信じるが良い。ここが芸術の為の部屋だということくらいは理解できるぞ。宮殿にも王宮画家のアトリエがあるからな」
「そ、そうなんだ」
「うむ、こうして静かに歩き回るくらい──」
蹄が床を打つ音が高らかに響いた。
「あ」
「あ、じゃないよ!」
ざわっと隣の美術室でざわめきが置き、準備室と繋がるほうの扉が開いた。
「おい、なにか落としたのか! 壊してないよな!」
クラスメイトの男女数人が部屋を覗きこんできた。
「……水瀬、お前ここで何やってんだよ。何かいま落としたろ?」
「あ、……ちょ、ちょっと」
冷や汗が流れる。どうやってフレアの言い訳をしようと焦った。
「わ、すごい。なに、その人形。生きているみたい」
「へ?」
晶がゆっくりと振り返ると、フレアが表情を消したまま微動だにせずに立っていた。そうして立っていると、確かに大きな彫像に見えないこともない。なにしろ半人半馬の姿である。冷静に考えてみれば、生きて動いている、と思うほうがおかしい。ましてや準備室は電灯もつけてないから薄暗かった。
「先生のか、それ。すげえな」
「あ、ち、近寄っちゃダメって言ってたよ!」
咄嗟に出た嘘だったが、準備室に入ろうとしていた級友たちの脚が止まる。
「お前はいいの?」
疑いの目で見られて、晶は必死に頭を働かせる。何か言い訳が必要だった。
「先生に頼まれて探し物してたんだよ。廊下で会って頼まれて!」
友人の目つきがやや和らいだ。晶は安堵に息を吐く。
──あ。
入り口に群れている彼らの後ろに遠巻きにして伊東さんの姿が見えた。
──しまった。あの子、美術部……!
彼女は、この部屋にセントールの立像なんて無い事を知っているはずだ。駄目だ。もう言い訳が──えっ?
彼女はくるりと背を向けると、何事もなかったかのように自分の席に戻っていく。それをきっかけに、他のみなも三々五々、席に戻っていった。晶は、「もうちょっと探すね」と言ってから、美術室との境の扉を閉める。
「た、助かった……」
大きくため息をついてからフレアの元へと戻る。
「なんとか誤魔化せたかな……」
「すまない」
ぽつりと声が聞こえて、晶が視線を向けると、赤毛の少女がうつむいて沈んだ顔をしていた。
「言った端から迷惑をかけてしまった」
「大丈夫だったから」
「戻ってる」
そう言って、片手をあげて振り下ろした。
晶の目の前にいた少女の姿が一瞬で消える。
慌ててポケットに手を突っ込んで宝石を取り出した。セントールの少女が宝石の中でごろりと横になっていた。なぜかほっとしてしまう。本当に消えてしまったかと思ったのだ。
宝石の中にささやきかける。
「でも、あんな人形の真似をしなくても、今みたいに石の中に戻っちゃえば良かったんじゃ……」
「消えた瞬間を見られたら、もっと
──あ。確かにそうだ。その場合は、晶への追及ももっと厳しくなっていただろう。晶はそれほど嘘が上手いわけではない。真実を話して聞かせたとしても、信じてくれない可能性のほうが大きい。
「我らの存在は主殿の世界では認知されていない。それは知っている。迷惑をかけた……」
「大丈夫だったから……気にしないでいいよ」
寝転んで目を瞑っているフレアに晶は言った。
準備室を出るときに、晶は部屋の片隅に妙なものがあるのを見つけた。
部屋の角隅の目立たない所に、絵の具を解く小皿が置いてあった。溶かした白い絵の具に見えたが──。
「牛乳?」
美術部の誰かが猫でも飼っているのだろうかと訝しみつつ、小皿はそのまま置いておいた。
美術室に戻り、課題の残りに晶は取り掛かる。視線を感じて振り返った。顔がさっと伏せられたが、誰が見つめていたのか晶には分かった。伊東さんだ。
授業の残りの時間、晶は伊東さんの視線を感じ続けた。
その日は、授業がすべて終わるまで、フレアは宝石の中に戻って声を出さなかった。そして、放課後になり帰宅しようと教室を出た晶は、廊下で待っていた少女に声を掛けられる。
「すこし、時間ある?」
伊東さんだった。
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