第3話 できるだけチチのでかいカノジョつくってもってきて

 その日の朝にまで話は遡る。


  †


 水瀬晶みなせあきらの朝はそれなりに早い。

「ふわぁぁあ」

 口が大きく開いて、あくびがもれる。

 彼が立っているのは台所キッチンのコンロの前だ。時刻は6時28分37……いや、今40秒になった。

「早朝ってやだなあ、うすら寒くて」

 そう言いながら卵を割るのが晶の日課だった。

 片手で割った卵の中身をフライパンに投下し、卵の黄身を潰さないようにフライパンを回して白身を丸く広げる。蓋をして、隙間からわずかな水を流し込み、そのまま蒸し焼きにする。

 これを2回繰り返すのだ。母の分と自分の分と。

「あのひと、目玉焼きは半熟で、黄身が潰れてただけで、その日のテンションが落ちるひとだからなー」

 水瀬晶の家は母ひとり子ひとりである。

 父は10年前からいない。

 だから、朝食を作るのは晶の役目だった。10歳のときからフライパンを持たされ、もう7年になる。慣れたものだ。蓋を開けて確認し、フライ返しで皿の上に目玉焼きを移動させた。

「かんぺき!」

 皿によそったときに半熟の黄身がぷるんと震えた。いい感じだ。キャベツの千切りを脇に添えて、これで一品完了だった。

 次は自分の分。油を敷き直し、ガスの炎の加減を確かめてから、用意しておいた卵を手に持った。割る。

 カツン、と硬い何かがフライパンの上に落ちる音。

「え?」

 キラリと光る小さな物体が、焼けたフライパンの上で転がった。

 とっさにフライパンを引き上げる。転がったそれを濡れた布巾の上に転がしてから、フライパンを取り敢えずコンロに置いて火を止める。それから布巾の上を見た。

「なに、これ?」

 まじまじと晶は見つめてしまう。

 宝石に見えた。

 晶は自分が割った卵の殻を見る。2つに割れてまだ手の中にあった。ごくふつうの割ったばかりの卵だった。ところが──割れて出てきたのはドロリとした黄身と白身ではなくて、硬くて小さな光る石だ。


 赤みがかった橙色レディッシュオレンジの小石。


 油まみれになってぬめったような光になっているけれど綺麗な石だった。

「宝石って、確か熱したりしちゃダメなんだよね?」

 昔テレビの特番でやっていた気がする。宝石の中には熱を加えると結晶構造が変わってしまい、元の価値が無くなってしまうものもあるのだ。

 冷やしたほうがいいのかな? とりあえず冷水で洗ってから、ティッシュの上に置いて水気を取る。これが本当に宝石だったら、傷つけるとまずいからだけど、そもそも、そんな価値のある宝石がなんで卵の中から出てくるのか。誰かが卵のなかに隠したのか──。

「まてまて。あと5分考えろ僕! おかしなこと言ってるぞ!」

 晶は自分で自分に突っ込んだが、だからといって、目の前で何が起こったのかを正確に理解できたという自信はなかった。宝石を卵の中に隠す理由に至っては、思いつかないどころか、自分の正気のほうを疑うレベルだ。夢を見ているのかと思ってしまうほど。まさか、近所のスーパーの特売卵のパックの中から、そんなものが転がり出てくるとは思わない。

 でも、妙にテンションが上がってしまったのは、ダイニングテーブルの上に置いた橙色の小石がとても綺麗だったからだ。

 本当に何か価値のある宝石じゃないかって思ってしまうくらい……。

「そうか、卵の中に隠して密輸! って、そんなわけないだろ! 誰がそんなことするんだよ! 近所のおばちゃまのなかに国際スパイでもいるってのかよ! ないよ、ないない!」

 セルフツッコミのボルテージがあがった。


「うーるーさーいー!」


 ガラッと戸の滑る音がして、瞼をこすりながらよれたジャージ姿の女性が姿を見せる。

 ぎくりと晶は身を竦めた。

「こらー、あーきーらー」

「あ、ごめんなさい」

 母の文香ふみかだった。

「うー。……なんじ?」

 晶は視線を掛け時計に滑らせてから答える。

「6時45分だけど……また徹夜?」

「うん……終わんなくて……頭いたいよー、あきらー」

「ああ、はい。ほら、水」

 起き抜けとひとめでわかる赤いジャージ姿のままで目許を指で擦っている。ウェーブのかかった髪は、寝グセであちこちハネているし、目には連日の徹夜でできたクマさんを飼ったままだ。

 近寄るとかすかに湿布の香りが漂ってしまうのは、慢性肩こりゆえだった。

「あーきーらー。聞いてよーーー。編集ちゃんったら、ひどいのー」

「う、うん。ほら、座って座って。とりあえず母さんの分はあるから、それを食べようね」

「……まだ寝るから。寝る前に食べると太るし」

「じゃあ、ほら、目玉焼きだけでも。朝はちゃんと食べないと太るってさ」

「ん、わかった」

 おとなしくテーブルに着いた母の前に目玉焼きの皿を滑らせる。

 箸と、ソースと醤油とケチャップと小皿に盛った塩を並べた。文香はトッピングを気分で変えるタイプなのだ。

「ありがと、晶」

「どういたしまして。で、編集さんがどうしたって?」

「ユミちゃんが言うには、文香さんはヒロインに色気が足りないって……」

「う」

 晶の苦手なタイプの相談事だった。

 水瀬文香は若者向けの小説、とくにファンタジーと呼ばれるタイプの物語の書き手だ。

 ただし、「売れない」と付く。

 それでも、夫のいなかった10年間を息子を育てられるだけの仕事はしてきた。だが、不景気は小説家には辛い時代である。書くだけではなく、売れなければならないのだ。売れないと即打ち切りである。シビアで情けのない仁義なき世界──らしかった。学生の晶にはピンとこなかったが。

「ねえ、晶。お願い」

「なに?」

「できるだけチチのでかいカノジョつくってお持ち帰りしてきて」

「な、なに言ってるの! かあさん!」

 しかも、連れてきてじゃなくて、もってきてって……。問題あるよ、その言い方!

「だって、わかんないよー。色気ってなんなのー! ぐすぐす。あたしは、でっかいドラゴンとちっさい小人と可愛いいニンフとかっこいいエルフが書ければ満足なんだよお」

 うん。知ってる。

「若い子向けだから、判りにくいのはダメですって言うし。イマドキそんなこと言うのってナンセンスだよー。これでも遠慮してナルガンもリャナンシーもストリゴイも、それどころか、マンティコアさえ出してないのに」

「そ、そうだね」

 今、晶の母があげた固有名詞はぜんぶモンスターの名前である。しかも、マイナーなやつ。

「モンスターちゃんを登場させたら、色気なんて書いてる余裕なくなるんだってば。どんな姿をしているのか、何を食べているのか、会話ができるくらい頭のいい奴だったら、何を考えて、どういう常識をもっている奴なのか。そういうことって大事でしょう? そして、そういうことを丁寧に書き込んでこそ、生き生きと、ほんとにそこにいるように描けるものなの。わかる?」

「うんうん、わかるわかる」

 愚痴っている女性に反論をしない。人生の真理を17歳にして学んでしまっている晶である。

「くそー、ユミちゃんめー。自分だって貧乳戦士のくせにぃ」

「それ、編集さんの前で言っちゃだめだからね」

「ん、言わない。……美味しい。うん、やっぱり目玉焼きはソースだよね」

 昨日はケチャップだったし、一昨日は塩で食べてたけどね! 晶は内心でツッコミを入れたが、もちろんそれも口にはしなかった。

「あー、色気かあ。ねえ、あきら。だから、そろそろ爆乳で露出度高めの美少女カノジョをよろ!」

「できないよ!?」

「かあさんの一生に一度のお願いなのに」

「一生のお願いを、先週も先々週も言ってたよね……」

「言ってないよお。それってたぶんあたしじゃない他の女だよ」

「この家に母さん以外の女性が居たら怖いよ!」

「部屋の隅にミルクを入れたお皿を忘れないようにね。それ忘れると、怒って祟るから、あの子たち──ん? これ……」


 文香がつまんだのは、ティッシュの上に置いてあった橙色の小石だった。


「あ、それ……」

「へえ。まさか、これ、インペリアルトパーズ?」

「インペ……なに?」

「インペリアルトパーズ──皇帝の黄玉。トパーズの一種でね。ほら、こんな感じの赤みがかった橙色レディッシュオレンジでちょっとスリムな卵型をしてるの」

 トパーズという宝石は聞いたことがあった。

「トパーズの語源は、サンスクリット語で『火』を意味する言葉って説もあるんだよ。黄色のイメージが強いけど、こんな風にシェリーカラーのやつもあって、それがインペリアルトパーズ。こんなに大きかったら、すっごく高いよー」

「そ、そうなんだ」

「本物ならね」

 急にテンションを落として文香が言った。

「やっぱりニセモノ?」

「でしょ? こんなに大きな本物があったら、次の一冊は好きなものが書けるよー」

 働かないで済むとか、美味しいものが食べられるとか、旅行ができるでもなく、お金があったときの母の願いは、好きなものが書ける、なのだった。晶は目の前の働き中毒ワーカホリックな母を見つめた。

 ──まあ、かあさんらしいけど。

「ごちそうさま」

「あ、どういたしまして」

 のそりと立ち上がった文香が扉を開けて出ていく。そのままベッドに向かうのだろう。

「起きたときのために、もうちょっと何か作っておこうかな」

 冷めても美味しいものをもう一品。そう考えながら、橙色の宝石をつまむ。親指よりも大きな宝石は確かに母の言うとおり本物などではないのだろう。

 それでも、いつまでも見飽きない綺麗な石だった。

「どうやって卵の中に入れたんだろう?」

 シーリングライトにかざしながら晶はつぶやいた。

 ぼうっとしていた晶がふたたび時計に目をやったときには、時計の針は7時どころか8時を回っていた。タイマーで点くはずのテレビが起動せず、おかげで登校目安の朝番組がとうに始まっていたことにも気づかなかった。

 母の食事の用意を済ませて家を飛び出したときには、始業ぎりぎりになっていた。

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