第2話 ええとその……からだ?

 3時間目の授業が終わり、2年4組の教室に緩い空気が漂う。

 水瀬晶はため息とともに歴史の教科書を閉じた。

 5分の短い休憩の中、トイレに行く者、机に突っ伏して寝始める者、おしゃべりに興じる者と様々だ──とはいえ授業の予習など誰もしないところがこのクラスの特徴だよなと晶は思う。まだクラス替えから1ヶ月も経っていないが、それだけは把握した。

 前の席の船山がくるりと振り返り、話しかけてくる。

「寝坊か、水瀬みなせ?」

「うん、まあ、そんなとこ」

 晶は言葉を濁した。

 まさか、登校中に自動車に跳ねられて、空に放り出されたところを、美少女セントールにお姫さまだっこで受け止められて助けられちゃいました。とは言えないだろう。言っても信じてもらえそうにないし。晶でさえ、本当のところ何が起きたのか、未だに理解できたとは言い難かった。あのあと、消えた少女の姿も見かけない。夢だったんじゃないかと思ってしまう。少女に出会ったことさえ。


 フレア・アルトュース・アラトラール。

 赤みがかった橙色レディッシュオレンジの瞳を持つセントールの姫。


 こうして目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ肌色の双丘……。

 ──じゃない!

「なにやってんだよ、水瀬。頭こわれるぞ」

「いいんだ。煩悩は去るべきなんだ。退け悪魔!」

 そう言って額を机に打ちつけていた晶を、船山がおいおいと止める。

「顔、真っ赤になってんぞ」

「うう。でも、綺麗だったんだ」

「は?」

「だから、お──、じゃない! ええとその……からだ?」

「……水瀬、おまえ」

 自らの身体を抱きすくめて距離を開けた船山に、晶は慌てて言う。

「なに考えてんだよ! 違うよ!」

「……まあ、水瀬もようやく性少年として目覚めたってことか」

「いま、なんか不適切な漢字で言わなかった!?」

「けど。グラビア眺めて夜更かしするのはいいが、遅刻はいかんな」

「誤解だ!」

 というか、今時「ぐらびあ」とか言うかな。水瀬晶は目の前の級友をジト目で見つめる。なんというか……生まれる時代を間違えてないか、こいつ。

「そんなことはどうでもいいんだ」

 船山がしれっと言った。

「言い出したの、君のほうだよね!」

「いったい、何があったんだよ。おまえ、遅刻はしないやつだろ」

「ちょっと……ね」

 晶はセントールの少女の部分は省きつつ、朝の出来事を話すことにする。

 信号待ちの交差点で、信号が変わって走り出そうとしたところを、脇から出てきた車に驚かされたこと。そのために並走していた自動車が運転を誤り、もう少しで晶は事故に巻き込まれるところだったこと。

「そりゃ……災難だったな。

 えっ、と疑念を挟むが、先を続けろという友人の仕草に話の残りを語る。

 警察に連れて行かれてあれこれ聞かれたけれど、晶としては巻き込まれただけだし、学校もあるからと言って何とか解放してもらえた。2時間目が終わるのを待って、3時間目から教室に入ったのだった。

「あの……さっきの、お前もかって、どういう意味?」

「見てみろって」

 船山がクラスの中を見るよう、首を振って促した。

 それで、ようやく晶も気付く。教室の中は、ぽつりぽつりと席が空いたままだ。トイレ……というわけでもないみたいで、机の脇に鞄が掛かってないのを見ると、休みのようだった。

「風邪が流行ってる……とかじゃないよね」

「1時間目が始まったときは、もっと少なかったんだぜ」

「なんで?」

「理由は……色々だな。電車の遅延もあったみたいだし。ただ、何人かは水瀬と同じで交通事故に巻き込まれたって話だ」

「……こんなに?」

「多いのは信号機の故障だとさ。赤になるはずなのに青のままだったとか、その逆とか、なかには赤と青に数秒おきに点滅し始めたのもあったって」

 今の所、けが人はいてもそれ以上の事故に巻き込まれた級友はいないらしい。

 そう聞いて晶は少しほっとした。

「でも、一体なんなの?」

「街の交通管制システムをクラッキングされた──って言われて分かるか?」

「ぜんぜん」

 正直に答えた晶に船山がため息を返した。

「判りやすく言うと、だ。誰かがこの街にイタズラをしている」


『それはおもしろい話だな!』


「ん? なんだ、今の声?」

 船山がきょろきょろとあたりを見まわした。女の子の声だった。しかも、晶にはものすごく聞き覚えのある声だ。 

「おい、佐竹。お前、いまなにか言ったか?」

「うん? いやなんも言ってないけど?」

 船山がいちばん近くにいた学級委員長に尋ねたけれど、彼女の声でないことは晶には分かっていた。

「あ、ぼく、ちょっとトイレ行ってくる!」

「これからかよ! おい、もう鬼崎が来るぞ!」

 秋山の声が背中にぶつかってくるが、晶は気にせず走る。心臓がドキドキしているのは決して全力で走ってるからじゃない。トイレの個室に駆けこむと鍵をかけた。

 そうしておいて、晶は片手を制服のポケットに突っ込んだ。さっきの声はのだ。晶の指が、ポケットの中で小さく硬いそれに当たる。

 たしかここには……。

 指に当たったを摘んで引っぱり出した。手のひらにコロンと転がったのは小さな宝石だ。


 赤みがかった橙色レディッシュオレンジの石。

 どうして気づかなかったのか。彼女の瞳と同じ色。

 ──インペリアルトパーズ皇帝の黄玉


 これを見つけたのは今朝のことだったっけ。

 指で摘んで覗き込む。透明な小石の中に何かの影が見えた。

 ──中に、何か、いる。

 宝石の中に閉じ込められるように、馬の身体に少女の裸身を乗せた生き物の姿が見えていた。


『なんだ、ここは? なんという狭い部屋! 居心地もよくない。それにおかしな形の椅子がひとつだけとは!』


 うすうすと予想していたことではあったが、晶はごくりと唾を呑んでしまう。橙色の小さな石の中にいる小さな生き物がしゃべったのだ。

「ねえ、君」

 小石に向かって話しかける。

「主殿! もしや、ここが主殿の住処なのか? 我は同情するぞ。苦労しているのだな……」

 ──この偉そうな喋り方……間違いない。

 宝石の中なので小さくてよく見えないが、それでも彼女が誰か明らかだった。

「フレア?」

「いかにも。主殿、また会えたな! 再会を嬉しく思うぞ」

 黒い馬身と炎の色の髪、赤みがかった橙色レディッシュオレンジの瞳をもつセントールの姫の声だった。小さな石の中に見える姿は琥珀の中の虫と間違えてしまいそうだけれど、よくよく見れば、ちゃんと姿かたちが判る。

 声が、トイレの個室の中で響いた。


「さあ、主殿、さっそく世界を救う仕事を始めようじゃないか!」

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