黄昏の夢使いたち
はせがわみやび
第1話 ハダカじゃん!(だって馬ですから)
腕時計を見る。あと、7分……! このままでは間違いなく遅刻だ。
高校までの通学路は細くてあまり車も走っていない。そこをいつもなら自転車で突っ走るのだが、いつの間にかできた信号が晶を足止めしている。赤が……長い。
市内の信号機はこの春からすべてネットに繋がった──のは、今時さほど珍しいことではないけれど、機械学習を利用して最適の時間で切り替わる、とか聞かされると、少々嘘っぽさが匂ってくる。
だって、さっきからまだ切り替わらない。
あと、6分になった。
右手は建売の住宅地。左手はガードレールを越えると、そのまま土手になり川になっている。後ろからやってきた白い軽自動車が追いついて並んだ。
信号はようやく赤から青へ。
白い車と、晶の自転車が並んで走り出そうとしたときだ。T字路から黒い車が飛び出してきて目の前で急カーブを切った。
「うそっ!」
晶の脇を走っていた車は、慌てたのだろう、ブレーキの音とともに車体を晶の方へと滑らせた。
空と大地が晶の瞳の中でひっくり返る。
直後に大きな音。
車が、晶の自転車を追うようにしてガードレールに突っ込んだのだ。
崖の上へと放り出され、落下しつつ晶は考える。このままでは土手に身体を打ちつけて大ケガだ。せめて衝撃に備えよう、と身体を丸めて待つが──。
何時まで経っても衝撃が来なかった。
とさり、と衝撃を吸収され、柔らかく晶の身体が受けとめられた。ふにゃりとした感触が頬に当たる。晶の顔の上に声が降ってくる。
「世話が焼ける
無茶を言う。
少女の声だった。いくらかイントネーションのおかしな、けれど、凛としていて張りのある声だった。
叱りとばすようなその声に晶はおそるおそる目を開ける。
目の前に大きな胸があった。
水瀬晶の頬は彼女の胸にぴったりとくっついていた。顔を半分埋めるようにして抱えられているのだと気付く。小麦色の柔らかい胸だ。晶の左の頬が当たっている部分が少しひしゃげて形を変えている。温かい体温が伝わってきた。
自分がどんな態勢にあるか判るにつれて晶の頬が熱くなる。
裸の女の子に、お姫さま抱っこをされている。だって、服の感触がないもの。というか、目を開けて間近に見えているのは肌色がいっぱいのおっぱいだし。助かったという安堵も吹き飛ぶ。
心臓が記憶にないほどドキドキしてきた。目眩までしそうだ。
「な、なんで――」
胸から慌てて目を逸らすと晶は少女と視線が合った。
「あ……」
きれいな瞳の色だな、と晶は思った。
少女の瞳は
黄昏の太陽の色だ。髪は燃えるような赤毛で、ゆるやかなカーブを描きながら、背中と一部が胸の谷間へと落ちている。胸が浅く上下していて、谷間に汗が浮いていた。
気まずさに晶は身じろぐが、少女の細い腕は彼を支えてびくともしない。
橙色の瞳がなにかを探るように晶の顔を見つめてきた。見つめられて晶は指ひとつ動かせなくなってしまった。体を強張らせ、彼女の胸のなかで硬直してしまう。
顔立ちの美しさよりも、瞳の力強さに晶は惹きつけられてしまった。
「ダイジョウブそうだな?」
晶は彼女にぽんと放り出された。
土手の坂を2、3回転する。草を握り締めて止まった。
「い、いたたた!」
──だからって、放り出すことないよね!
少女が近づいてくる気配に、晶は涙目になって見上げ――
「え!?」
絶句した。
形のよい大きな胸、その下の小さな
脚は四本。
つまり、上半身は女の子だけど、下半身は馬だった。漆黒の毛並みの。
「セントール……」
上半身が人間で下半身が馬という、半人半馬の種族だ。
「ほう、よく我らの種族の名を知ってるな」
「あ、うん……母さんがそういうの得意で……」
平然と会話をしている自分が晶は不思議だった。きっとあまりの驚きに、
「ならば話が早い」
赤毛の少女は腰に手を当て、胸を張った(おかげで、大きな胸がぶるんと震えてしまい、晶は慌てて視線を引き剥がして少女の顔に固定することになった)。
彼女はその姿勢のまま尊大な口調で言い放つ。
「我の名はフレア。フレア・アルトュース・アラトラール。セントール族の長の娘にして、《宝石の夢魔》だ」
フレアと名乗った少女は、くいとおとがいを上げ、土手の上手から晶を見下ろしていた。風が彼女の赤い髪をなびかせている。
季節は4月も中旬で、彼女の背後に、半分ほど綿毛になってしまったタンポポの群れが、黄色と白の入り混じる絨毯みたいに崖を延々と覆っているのが見えていた。
吹く風が綿毛を飛ばして青い空に舞いあげる。青にぽつぽつと白が入り混じる空を背景にして、少女が傲然とした態度で立ち尽くしている。
立っている脚は4本だったけど。
尻尾が彼女の後ろで左右に揺れていた。
まるで一枚の幻想絵画のようだと晶は思ってしまった。それほど──美しい。
呆けたように魅入ってしまう。
「む? 反応がうすいぞ、主殿。ダイジョウブか? 1+1は?」
「2、……って、もしかしていま、正気を疑われてた! ひどい!」
「ナニカ言いましたか? ショーキってナンデスカ?」
「都合のいいときだけ判らないふりすんな!」
「これを馬の耳にネンブツといいマス」
「ああ、セントールだけに。って、ファンタジーの住人が
──なんなんだ、このヒト──じゃないや、セントールは!
「そんなことはどうでもいいのだな」
「よくない!」
「いやしかし、このままでは主殿は死にそうなのだが」
「何を言って! ……死にそう?」
「ほれ、あれがもうじき降ってくる」
セントールの少女が指差したのは土手の上だった。
ひしゃげたガードレールの向こうに、ぶつかった白い車が引っかかっている。ガードレールはゆっくりとたわみつつあり、車は今にもこちらに向かって転げ落ちてきそうだった。運転手は気絶してしまっているようだ。
事故の連絡が入ったのか。遠くからパトカーだか救急車だかのサイレンの音が聞こえている。迫ってくる音を聞きながら、ああ、間に合わないなと、へたりこんだまま晶は考えていた。
「だから逃げろと」
「言ってないでしょ!」
バキバキという金属の千切れる音とともにガードレールがついに砕けた。支えを失った自動車が崖を滑り落ちてくる!
ああ、もうだめだ。もう間に合わない。左右に逃げようにも、身体が恐怖で金縛りにあったように硬直して動かないのだ。絶体絶命だった。
目の前のセントールの少女だって──そうだよ!
「き、君は逃げて!」
「ほう──我の心配を?」
「だめだって──ああ、もう!」
余裕があるなら逃げればいいのに、と晶は思ったのだ。
「まあ、これくらいは」
滑り落ちてきた自動車に対して、セントールの娘──フレアは片手を前に出した。
「なにやってるの!」
「止める」
覆いかぶさるように転がり落ちてきた車に対して差し出した腕を、ぶつかった瞬間にフレアは少しだけ引いた。
それだけで車の回転がぴたりと止まる。
──へ? 衝撃を……吸収したのか、いま。
「川に投げ捨てるわけにはいかぬか。ヒトが乗っておるしな」
「だ、だめ! 投げないで!」
「投げないと言っておるだろ?」
そう言いながら、もう片方の手を車に当てる。
そのままゆっくりと両腕で車を持ち上げた。
「ええ!?」
崖の上に向かってセントールが登り始める。
晶はその目で見ていても信じられなかった。フレアは軽自動車をまるで発泡スチロールで出来ているかのように持ち上げたまま崖を登ったのだ。
──嘘、だろ……。
フレアの四本の脚についた蹄は、柔らかい土手の上にぽつぽつと穴を開けている。つまりあの車は決してハリボテなんかではない。重さがある。
証拠は土手についた深い足跡だ。
「軽自動車って、確か700キロくらいあるんだよね……って、そーいえば、確か馬もそれくらいあるって話じゃなかったっけ?」
晶は戦慄した。土手についた足跡には車2台ぶんの荷重が掛かっていたわけだ。
それは彼女の
土手の上の道にフレアは自動車をゆっくりと下ろした。それから晶のほうへと駆け下りてくると、手を差し伸べてきた。
「なにはともあれ、怪我なくて幸いだ、主殿」
「……あ、ありがとう」
「なんの。我を選んでくれたのは主殿だ。おかげでこちらに来れた。感謝しておる」
「選んだ……って?」
「しかし、我のこの姿は主殿には気になるようだな?」
「え……?」
「ほれ、また見ておる。おもに我の胸を。そんなに珍しいかの? こちらのヒト族も同じではないのか? もしやおっぱいがないとか。む? もしかして2つが珍しいのか? 4つとか6つとか。ふむ。地球の国のメスは多産なのじゃな」
「ちがうよ! ふつうに2つだよ! むしろ少子化で困ってるよ! じゃなくて……なんで、ハダカなの!」
慌てて胸から目を逸した。青い空に無理やり視線を固定する。ああ、白い雲がまぶしいな。ふんわりと柔らかそうで……柔らかかかったな──ちがう!
晶は首をぶんぶんと振る。煩悩退散!
「なにを言っている。我らの種族は昔からこうだぞ」
「セントールに羞恥心ってないの!」
「服など着ておるヒトがヘンだと思うのだが……」
確かに服を着たセントールの絵なんて晶は見たことがない。晶も納得してしまいそうだったが、だからといって同じ年頃の少女の(上半身だけとはいえ)裸を見て平静としていられるはずもない。
「まあよい。では、また後ほど会おう」
「──え?」
慌てて空から視線を戻したが、もうセントールの少女の姿はどこにもなかった。
「夢……じゃないよな」
壊れた車も晶のひしゃげた自転車もガードレールの向こうに見えていた。
夢じゃない。
救急車が到着し、運転手の救出が始まっていた。白い服を着た隊員が土手を降りてきて、晶を呼んでいる。
「はい! 大丈夫。怪我もないです……」
そう答えながら晶は土手を登る。
遠くから聞こえてくる始業の鐘を聞きながら、晶は「ああ、遅刻だな」などと、どうでもよいことを考えていた。
土手を登るときにさらに気づいた。4つの蹄の跡も消えずにそこに残っている。
「夢……じゃないんだ……でも、あの子は一体……」
なにものだったんだろう?
晶の疑問に応えてくれるのは土手を吹きすぎる春の風だけだった。
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