名探偵は夜歩く
冬野氷空
名探偵は夜歩く
第三次世界大戦が終結してから、もう五年が経過した。
私が
「先生! 事件です!」
電話口に唐突に発せられた彼女の“事件”という単語が、私を動かしたそれである。
私は夜型の人間なので夜更かしをすることに抵抗はなく、加えて“探偵”という職業を名乗っているため、事件と聞いては黙っていることはできなかった……というのは方便で、本当は金のためである。本来ならば深夜のこの時間帯はお気に入りの店で酒を呑みながら読書をすると決めている私であったが、稼ぎのために出勤することを決意した次第であった。金がなければ酒も呑めない。
私はグレーのスーツに着替えるとその上に外套を羽織り、さらにはもじゃもじゃと鬱陶しい頭にチューリップハットを乗せて、探偵事務所兼自宅である雑居ビルの一室を後にした。
廊下に出てエレベーターに乗る。その狭い鉄の箱の中は、ひんやりとしていた。十月ももう末だ。それもこの時間となれば薄ら寒く感じるのは妥当である。故に外套を羽織ることを決めたのは賢明だったと、少しだけ体を縮こませながら思った。
一階まで降り、エレベーターの扉が開く。薄汚れ、寂れたたエントランスにはまだ灯りがあった。人がいる証拠である。
いくつか並べられたソファには酔っ払いの男が横たわっている。しかし、この男のために灯りがあるのではないだろう。
さらに歩を進め、出口付近まで来て、脇を見た。
そこには形ばかりの案内室がある。案内室とエントランスはガラス窓で仕切られており、用向きのある客人には案内用の小窓が開くという仕組みである。そして私は、そのガラス張りの小窓の向こうに人影を見つけた。おそらく人影は管理人のオヤジのものだろうということが分かった。しかしこちらを向いているのはそのオヤジの禿げた頭だけであり、番をしているうちに寝入ってしまったのだと、私は推測した。だから灯りがあるままなのだろう、と。
オヤジを尻目に、私は雑居ビルを出た。
都市郊外に佇むその雑居ビルがあるその場所は、戦時中、真っ先に空襲された土地でもある。終戦からもはや五年と過ぎようとしてはいるが、復興は進んでおらず、そのビル近隣でも未だに瓦礫が積み重なっていたり、廃墟のままであったりと、散々たる有様だった。
私はそんな灰色の街をおよそ十分ほど歩いて抜け、呑み屋街に出た。
呑み屋街は、戦後、最も初めに復興した街である(と言っても都市中枢ほどではないが)。いや、復興という言い方は正確ではないかもしれない。三列のアーケードからなるその街は、数々の商店や呑み屋が立ち並ぶが、しかし決して戦前のような小綺麗な店ばかりというわけではなく、ほぼ立ち飲み、立ち食い同然の店ばかりであった。中には未だに建物を支える鉄骨が剥き出しという店もある。
それらの店は確かに活気づいてはいるが、賑やかすぎるし、何よりどこか下品な雰囲気があって、私の好みではない。故に私がその街で呑むということは、数えるほどしかなかった。
ちなみに私が通う呑み屋は、戦前からある由緒正しいバーで、店内には軽く三世代は前だと思われるジャズが響くだけの、静かな酒呑み場である。私が根城にする雑居ビルを中心に、呑み屋街からは丁度真逆に位置している。私はそのバーに、もう三年近く通っていた。
私は呑み屋街に一歩足を踏み入れた。
街はこんな季節、そしてこんな時間であるにも関わらず、お祭り同然の騒ぎであった。道の左右の店からは歌声や爆笑が絶え間なく聞こえ、思わず両の耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
さらに道は多くの人が往き交い、肩がぶつからないようにするのにも神経を必要とした。私はその道を歩く度に戦後すぐに流行った闇市を想像せざるを得なかった。
苦心しながらも人混みを掻き分け進み、何とかアーケードを抜けた辺りで、私は目的のものを見つけた――タクシーである。
おそらく呑み屋から帰る客を想定しているのであろうタクシーが、十台ほど、路肩に並んでいた。オレンジ色を基調とした車体や、屋根の上に乗せたランプは、戦前の名残だそうだ。
私はその十台の内から、真ん中の一台を選択し、運転席の窓をノックした。私の存在に気付いた運転手が素早く操作し、後部座席の扉が開いた。
「清澄養老ラインまで」
言いながら、タクシーに乗り込む。扉が自動で閉められた。
「清澄養老ライン? 随分遠くだねぇ」
白髪交じりの運転手が、ハンドルを操作しながらのんびりとした口調で言った。後部ミラーで私の顔を覗き込んでいるようだった。
「お客さん、そんな所に何の用だい?」
「ちょっとした野暮用ですよ」
「ふーん」
タクシーが静かに走り出す。どうにも運転手の男の腕は確かなようで、乗り心地は悪くない。下手をすれば寝入ってしまいそうだ。どうやら私は当たりのタクシーを引いたらしい。
初老の運転手が、再度バックミラーを覗きながら、尋ねる。
「あんなとこ、何もないんだけどねぇ」
「そうなんですか」
しかし、大和時子の電話では、確かに「清澄養老ラインで事件だ」とあったはずだ。彼女は清澄養老というのを一字一字どういった漢字を充てるのかすらも説明したのだから、間違いはない。
「昔は、ほれ、養老渓谷って言って、日本の地質百景なんかにも選ばれた渓谷があってさ、それなりに観光客もいたんだ」
「はあ」
「けどさ、ほらあ」
少し声を低くして、重々しく、
「戦争があったからさぁ」
と、運転手は言った。しみじみと。自身の過去を回想するように。
戦争は文化を破壊する。観光地などというのは、まさにその良い例だ。
「景色自体は昔のままなんだけどさぁ……すっかり人が寄り付かなくなっちゃったよ。まるで忘れられたみたいだ」
「それは寂しいですね」
「ホントだよ……今じゃあ、地元の走り屋小僧が大勢たむろしてるくらいで」
「走り屋小僧?」
私が訊き返すと、運転手は前を見ながらも頷いてみせた。
「バイクだ車だとかで、スピードを競う輩がいるんだよ。ほら、清澄養老ラインって、カーブとか多いし、攻めるとスリルがあるんだわ。ま、安全運転を生業にしてる俺らからしちゃあ、考えられない神経だけどねぇ」
「戦後すぐに軍用の車やバイクが民間に卸されましたからね、性能の良いマシンは簡単に手に入る……という一面もあるんでしょう」
「その通り。お客さん、理解が早いね」
感心しているようで、運転手はうんうんと何度も頷いていた。
戦時中、車やバイクのメーカーは重宝されていたそうだが、しかし敗戦と共に今度は戦争責任の一端を問われるようになった。メーカー側としてはただ単に商売をしていただけなのだろうが、しかし一民間人たちからすれば、言わば兵器を提供したようなものである。そういうわけで、それらのメーカーのほとんどは批難され経営が立ち行かなくなり、それまで販売していた軍事用のマシンを軽くデチューンし、多く民間に卸し売りしたのだ。
しかし、走り屋か……私が大和時子に呼び出された一件と何か関連があるのだろうか。
「お客さん、野暮用って言ってたけど、どんな野暮用だい? タクシーなんかに乗るってことは、走り屋というわけでもないんだろう?」
「ええ、まあ」
「私もこの仕事を始めて長いんだけどねぇ……お客さんみたいな人は初めてだよ。酔っ払いってわけでもなさそうだし」
「はあ……このお仕事が長いと仰っていましたけど」
「うん?」
「どのくらいなんですか?」
「二十年になるかなぁ」
「では戦前から」
「そうだよぉ。戦時中はさすがに休業したけど、それ以外は毎日ね」
「それはすごいですね」
「全然。そんなことない。実際に戦場に行った兵隊さんの方が、よっぽどすげえよ……ただ、まあ」
「ただ?」
「ああ、いや……街がすっからかんになっていく様子は、見てて辛いものがあったなあってさ」
「あの辺りも空襲がありましたからね……」
ここ三年ほどで随分と賑わいを取り戻したが、戦時中は避難する人、死んだ人、壊される建物群……文字通りすっからかんというやつになったことだろう。
「戦争が始まった時、俺なんかはもう歳くってたから兵隊にならずに済んだけど、兵隊に行っちまった若い連中は、可哀想だったねぇ……当時は御国の為とか言ってもさ、やっぱりさ……戦争はダメだねぇ……」
「同感です」
「そういった連中のことを思うとさ、ほら、さっき言った走り屋小僧っての? そういうのはさぁ……もうちょっとちゃんとしてくれよって思うわけさ。何の為にあの若い連中は死んでいったのかって」
「……」
「あんな事件があったってのに、ねえ……」
「あんな事件?」
「お客さん、知らないかい? 去年の暮だったかな、若い女の人が走り屋に暴行されて殺されたって事件があったんだよ」
「それは、存じませんでした」
「犯人はまだ捕まっていないらしいから、本当に怖いねえ……」
「捕まっていないのに、犯人は走り屋だと断定できたんですか?」
「さあ、俺も詳しいことは知らないけどさ、新聞で読んだんだよ……って、ああ、スミマセン、お客さん。こんなこと、お客さんに言ってもどうしようもないのにね」
「いえ、お気になさらないで下さい」
「アンタ、随分と立派だねぇ。歳を訊いても良いかい?」
「今年で二十八になります」
「もしかして、アンタも戦場に?」
「最後の一年だけ。中国の方に」
「そうかい……大変だったねぇ」
「ええ、まあ」
それから、私たちの間に会話はなかった。沈黙だけがそこに横たわっていた。
私は始終視線を窓の外に向けていた。呑み屋街から離れるにつれ、建物が少なくなり、街灯もまばらになる。その代わりに木々などの自然物が増えていくのを、私はただ何となく眺めていた。
視線こそ窓の外に向いていたが、私の意識が向いていたのは、あの忌々しい戦地での記憶だったのかもしれない。血と硝煙の薫りが立ち込め、ドロドロになりながら駆け抜けたあの土地での記憶――それはきっと忘れるべきではないのだろう。
そこからさらに三十分ほど走って、タクシーは停車した。
私は運転手に料金を手渡し、降車する。
「気が向いたら、また乗ってよ。お客さんとの会話は俺も楽しかったし」
別れ際、わざわざ窓を開いて運転手がそう言ったので、私は帽子を脱いで一礼し、返した。
「では、今度は奥さんと息子さんのお墓参りをさせてください」
「アンタ、そいつをどうして……」
男が目を丸くする。
男のハンドルを握る左の薬指、その付け根の部分は不自然に白くなっていた。それはつい最近まで指輪をしていたことを示す。結婚指輪だ。では、どうして現在は指輪をしていないのか――奥さんが亡くなったのだ。
そして奥さんがいれば子供がいてもおかしくはない。加えてあの若者の未来を危惧するような男の視線に、私はピンときた。推理と呼ぶにもおこがましい、ただの直観に等しいのであるが、しかし私には不思議と理解することができたのだ――この運転手には戦争で亡くした子供がいる、と。
戦争で子供を亡くしたとなると最も考えられることは戦死だ。戦場に行くのは何も男ばかりといった話ではないが、しかしそのほとんどは男だったわけで、必然的に子供の性別は男だと思った。
私が一通りの説明を終えると、運転手はなるほどと納得したように頷いた。そして顔を上げ、私を見る。
「墓参りの件、是非お願いします。戦死した息子も、アンタのような人に墓参りされたら、きっと喜ぶでしょう」
男の声は、僅かだが震えているように思えた。
私は再度頭を下げた後、目の前に
清澄養老ラインの元々は観光客用であろう登山道を、脇腹と膝の上あたりが僅かに痛覚を訴え始めるくらいに進むと、少し開けたところに出た。
道の右手側に駐車場があり、そこにはやけにハイカラな車だとかバイクだとかが並んで停められている。その周辺には乗り物同様ハイカラな若者たちが、何やら緊張した面持ちで集まっていた。人数は、およそ二十人といったところか。おそらく先程のタクシー内で聞かされた“走り屋”という連中だろう。
私はその若者連中に、見知った顔を見つけた。
「あ! 先生、こっちです!」
どうやら向こうもこちらを見つけたようで、少女が一人、右手を大きく振りながら駆け寄ってきた。
長い黒髪を後頭部で一本に結い、今時見ないような明治や大正時代の女学生を彷彿させる袴姿の彼女は、僕の目の前まで来てようやく自身の襟元の辺りが乱れていることに気付いて慌てて居住まいを正した。会うのは数カ月ぶりになるが、お転婆なところはどうやら相変わらずらしい。
「やあ、時子君、今晩は」
「今晩は。わざわざお越し頂き、申し訳ありません」
「構わないよ。それにしても、夜遊びとは感心しないね」
確か、大和時子はまだ十六歳のはずだ。こんな時間に、こんな場所にいるというのは、一人の大人として放ってはおけない。
しかしそれと同時に、好奇心旺盛な彼女の性格を鑑みるに、当然の行動だとも言えよう。彼女はものぐさな私と違って、新しいものや面白そうなものには一通り手を出す積極性を有しているのである。その積極性はむしろ褒められるべきものなのかもしれないし、逆にあまり行き過ぎた行動をとるあたりは、矯正しなければならない短所とも言えよう。
「申し訳ありません。ですがお叱りは後でお願いしますわ。今は、先生のお知恵を拝借したいのです。私と初めて会った時のように」
「なるほど。“事件”と言っていたね」
「ええ……いえ、正確にはまだ事件と決まったわけではないんですけれど」
「随分歯切れの悪い言い方をするんだね。詳しく聞こうか」
私は言いながら、チューリップハットを脱ぐ。ここまで登ってくるのに、頭と背中がじんわりと汗をかいてしまった。ついでに外套も脱いでしまいたいが、逆に風邪を引いてしまいそうなので止めた。代わりに脱いだ帽子でパタパタと顔のあたりを仰ぎながら、彼女の話に耳を傾けることにする。
清澄養老ライン。正確には千葉県道81号市原天津小湊線というその山道は、かつては日本の地質百選に選ばれ、観光地としてそれなりの賑わいを見せた。しかし戦争の呷りを受けその人気は激減し、今では地元の“走り屋”しか立ち寄らない有様である。
既に山の中腹辺りであろう現在地に辿り着くまでにも急なカーブはいくつも見受けられ、なるほどここでレースをしたくなる気持ちも理解できないわけではなかった。
「ここでは今晩もレースが行われる予定でした」
「過去形ということは、そうならなかったんだね?」
私が聞き返すと、すぐ左脇を歩く少女はこくりと頷いてみせる。
「今日のレースでは地元の走り屋チームと、他県から遠征に来たチームとが対戦する予定だったんです。勝負は上りと下り、それぞれ行われます。細かいルールは特にありません。合図と同時にグループの代表者が同時に発進し、上りは麓から頂上まで、下りは頂上から麓までのタイムを競います。百メートル走と同じ要領です」
「百メートル走と違うのは人ではなく車やバイク、そして走るコースが山道ということだね?」
「その通り」
彼女に話を続けるように促す。
「まず上りの勝負が初めにあって、その後に下りという形になります。そして上りの勝負は定刻通りにスタートしました」
「結果は?」
「地元チームが僅差で勝利しました」
「それは何より」
「はい……ですが」
「下りの勝負で問題が発生した……そうだね?」
時子君が首肯する。
「事件と言うか、事故に近いのかもしれませんけれど……」
「事故?」
「地元チームの一人が、レース中にコースに入って、撥ねられたんです」
「なんと!」
「チームメイトの中には医療に関わる者もいましたから、すぐに容態を診たのですが、残念ながら即死だったようで……」
「なるほど……それで、警察に連絡は?」
「既に済ませてあります。もうじき到着することでしょう」
「では、どうして私は呼ばれたんだね?」
「それは……」
と、彼女が俯く。
何か後ろめたいことでもあるのだろうか?
「いいえ、後ろめたいというわけではないのですけれど……少し気になることがありまして」
「気になること?」
時子君が立ち止まるのに合わせて、私も少し前で足を止めた。彼女がじっとこちらを見てくる。
「亡くなった方……
「ほう! それはどうして?」
「彼はチームの中でも古参の方で、公道でのレースを誰よりも理解していました。ここ、清澄養老のコースだって熟知していたはずです。それなのに、不注意で道に飛び出したなどというのは……」
あり得ない、というわけではないが、しかしなかなか考えにくいことだ。もしこれが事故ではなく意図的に引き起こされたものだというのなら……と、彼女は考えたのだ。そしてそれは、つまりチームの人間を疑うことに繋がる。正直な性格の彼女が後ろめたく感じてしまうというのも自然な運びだ。しかし確かに彼女の言う通り、調べてみるだけの価値はありそうに思えた。
「よろしい。調べてみましょう」
私が一度頷いてそう答えると、彼女の表情が一気に明るくなった。
「本当ですか!」
「ああ、本当だとも。しかし料金はしっかり頂きますがね」
「そこはしっかりしていらっしゃるんですね……」
「こちらとしても、生きていくので苦労しているものですから」
「それで、おいくらほど包めばよろしいのでしょう?」
「そうですね……現場の状況などにもよりますが、十万といったところでしょう」
「十万円……分かりました。父に頼んでみます」
その言葉を聞いて、私は心底安心した。大和時子の父親というのは名高い貿易商であり、何より労働には対価が伴うべきだと論じるような人間であるから、報酬について心配する必要がなくなったのだ。これで心置きなく調査に没頭できるというものだろう。
「それで、事件現場というのは?」
私が言うと、時子君は少し目を凝らすような仕草を見せた後、目的の場所を見つけたようで、そこを指さした。
「あそこです!」
指さされた方に目をやると、そこには何台かの車両が停車しており、ライトの先に数名の若者が立ち話をしていた。ちょうど、カーブと崖とが隣接している部分であった。
私たちはそこに近づいていく。
車は全部で四台。
青、赤、黄、シルバーの色をしていて、私は車種などには明るくないため詳しくは分からないが、しかしどれもこれもが如何にも速そうな形状をしているのが素人目からも判別できた。
その車の先頭の、赤い一台は前方のエンジンルームの辺りがべっこりと凹み、フロントガラスにはヒビが入っていた。被害者を撥ね飛ばした車というのは、おそらくあれのことであろう。その傷からも、事故の衝撃が読み取ることができた。
その赤い車のヘッドライトが照らし出している人間は、全部で四人だった。車と同じ人数である。全員がい私より一回り以上若く見えた。服装はてんでバラバラであるが、しかしテーマカラーはおそらく登場する車に合わせたのだろうということができた。
ゆっくりと近づいてくる人影に気付いたのか、彼らは一斉にこちらを見た。
「皆さん、お待たせしました!」
と、時子君が声をかける。
「大和? 警察の人を連れて来てくれたのか?」
リーダー格らしい青色の格好をした男がそう言った。
時子君が首を横に振って、答える。
「いいえ。探偵の方をお連れしました」
「探偵?」
そこで彼らはじろりと、まるで品定めでもするかのような視線を私に向けた。私のことを、と言うより、探偵と名乗る者を紹介された人間は、皆一様にそのような態度をとるので私としては既に慣れたものだった。私は早速、本題に入ることにした。
「早速、遺体の具合からお伺いしたいのですが」
「ああ、それなら向こうだよ」
青色の格好をした男が親指で指した先は、切り立った崖下だった。他の男連中は皆同様に口を紡いでいるが、赤色の男だけは地面に視線を落とし、僅かに震えていた。おそらく被害者を直接轢いたのは彼なのだろうということが推測できた。
そんな彼らを脇目に、私は気休め程度に設置されたガードレールから身を乗り出し、崖下を覗いてみた。
私が立っている地点から崖下まではそう距離はなかった。せいぜい二十メートルほどだろうか。ギリギリだが、車のヘッドライトの灯りが届くほどだ。確かに道路のすぐ下の部分は切り立ってはいるが、そこから先はなだらかな坂道といったところだった。そしてその坂道の途中に、私は一つの人影を見つけた。
あれが遺体だということは、一目見た時点で直感できた。
遺体の損傷はここから見ただけでも酷い有様だった。手足はそれぞれまるでデタラメな方向を向き、頭からは血を流しているようだ。あれでは即死と言われても納得できる。
さて。
「確か医療関係者がいて、下の彼を診たと聞いたが」
「ああ、それは俺っす」
そう答えたのは黄色の格好をした青年だった。歳は他の連中より少し下と言ったところか。可愛らしい、整った顔立ちの小男だ。
「君は?」
「山内って言います。医大生っす」
「なるほど。では山内君、下の彼の容態は?」
「見ての通り、酷いもんっすよ。下に降りて診たんすけどね、両手足は骨折、あばらも折れてて、内臓がぐちゃぐちゃ。おまけに脳挫傷ときたもんっすから、もうフルコースっすね」
「ふむ」
妥当な判断だろう。
私はガードレールに足をかけ、乗り越えた。
「先生? 何をなさるおつもりですか?」
心配したような口調で、時子君がそう尋ねた。
「山内君の検分を疑うつもりは微塵もないが、私は自分で見たもの以外は信じない性分なんだ」
そう言い残し、私はゆっくりと、すべるようにして崖を降り始めた。なかなか膝に負担がかかるが、慎重に進めば降りられなくもない崖である。
ものの三分ほどで、私は崖下に到達した。
遺体を前に、私は一度手を合わせる。
別に熱心な仏教徒というわけではないが、人の死体を見るとどうにも手を合わせざるを得なかった。人間の……いや、私自身の性といったやつだろう。
思い返せば、戦場にいた時でさえ、自分の安全さえ確保できていれば敵味方問わず、死体に手を合わせていたように思える。中には私が助けられなかった味方、または私が自ら手にかけた敵だっていただろうに。人間の情というのは何とも奇妙なものだ。
私は肉塊同然の男の元に、そっと膝をついた。
持参した手袋を装着した後、死体の検分を始める。
私は戦地に赴く前、先程証言してくれた山内君と同じように大学で医学を学んでいた。加えて戦地での、いわば実地研修とも言えよう経験も相まって、怪我人や死体を見るのは慣れたものだった。
身体のあちこちを触り、曲げ、押してみる。が、それはごく普通の
私は今度は死体のズボンのポケットを探った。案の定そこには財布が押し込められていた。私はそれを引っ張り出すと、中身を改めた。
現金は数千円ほど。その他カード類と一緒に、免許証を見つけた。免許証の名前は
その他に何かないかとさらに探ってはみたものの、目ぼしい持ち物は特に発見されることはなかった。
気になった点としては、彼の右手の指が不自然な形状になっていたことと、その掌が真っ赤に染まっていたということだ。血の方はともかく、人差し指と中指とが交差されたその右手は、どうにも無視しがたい気がしてならなかった。
私は柏木の財布を彼のポケットに戻すと、先程降りてきたばかりの急な坂道を、今度は逆に上り始めた。そして半ば四つん這いになるような格好で上ること約五分、私はようやく崖上のガードレールにしがみつくことができた。
私が乱れる息を整えていると、時子君が話しかけてきた。
「先生、何か分かりました?」
「ああ、まあね」
答えながら、ガードレールを乗り越える。
「何が分かったのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「そうだね……ただその前に、何があったのか順を追って話してもらっても良いかな?」
その台詞は時子君だけに言ったのではなく、その場にいた人間全てに向けて言ったことだった。時子君は勿論構わないといった様子で頷き、他の連中も半ば不承不承といった感じであったが、取りあえずの了承は得られたようだった。
さて。
「取りあえず、君たちの名前から聞きたいのだけど」
私がそう言うと、男連中は一度顔を見合わせた後、順々に自己紹介を始めた。
「
青いTシャツを着て、首にはジャラジャラと多量の首飾りを下げた間島という金髪の青年は、どうやら私の見立て通りリーダーであったようだった。
視線を隣の黄色い服装の男に向ける。
「
被害者の検分をしたという黄色いナイロンジャンパーを着た男は、山内と名乗った。良く言えば気さくそうな、しかし悪く言えばお調子者といった感じの小男であった。年齢は二十一だという。
「
短くそう答えたのはワイシャツの上にシルバーのベストを着た男であった。先程の山内君とは打って変わってもしや二メートルはあるのではないかと思えるほどの高身長の彼は、口数は少ないようで、どこか鋭いナイフのような雰囲気が感じられた。年齢は、せいぜい二十五の辺りだろうか。
「た、
しどろもどろになりつつもそう答えたのは、赤のジャケットを身に纏った青年だった。先程から怯えきったような表情を浮かべていた青年である。
私は車列の先頭――ボンネットがすっかり凹んでしまっているそれを指さして、尋ねた。
「田名部さん、その赤い車は貴方のものでしょうか」
「え、ええ……」
「では、その凹みや傷は柏木さんを轢いてしまった時に?」
「はい……まさか、突然飛び出してくるとは思わず……」
「なるほど」
言いながら、私は件の赤い車両に近づく。膝を曲げて、観察してみた。
RX―777。戦時中、マツダ社が開発した高速マシン。特徴は、確か加速するのに距離を必要としないことだったか。最大速度こそ従来のマシンと大差ないが、そこに至るまでの時間が極端に短い。故に入り組んだ市街地戦などでよく使用されていたはずだ。とは言え、田名部氏のマシンは当然ながら武装解除され、レースにより特化したような形状である。
しかしそのようなスーパーマシンも、事故の影響で実に無残な有様であった。ライトは割れ、ボンネットは凹み、フロントガラスにヒビが入っている。動かすことすら可能かどうか、それほどの状態だ。
「探偵さん、調べても無駄だぜ。あれは間違いなく事故なんだからな」
「ほう……間島さん、詳しくお伺いしても?」
「詳しくも何もないさ」
言いながら間島氏は煙草を取り出し、咥える。そして火を点け煙を吐き出すと、話しを続けた。
「レースの最中、柏木の野郎がいきなりコースに飛び出してきたんだよ。法律上は、そりゃあ轢いた奴が悪いってことになるんだろうけど、俺から言わせてもらえば、飛び出す奴が悪いね」
「随分な言いようですね。柏木氏と貴方方は同じチームに所属していたのではないんですか?」
「人間、死んじまったら仲間も何もないさ。そうだろう?」
「ふむ」
その考えに、私は幾分かの理解を示してしまった。これも戦場に出ていたことの後遺症か。私は戦場で多くの死体を目撃した。仲間も敵も。死んでしまえば、人間は終わりである。その先にある、いわゆる死後の世界などというのは、現状生きている人間の逃げ口上に過ぎないのだろう。
だがしかし、それはあくまで戦場を体験した私の考えである。見たところ、この間島という男は戦場に行ってもいないし、兵役経験もないだろう。もしかしたら人の死体すらろくに見たことがないかもしれない。そんな人間が死生観を語ったところで、寒々しいだけである。
私はその深紅のマシンから視線を上げ、立ち上がった。
「レースと仰っていましたが、そのお相手は今どこに?」
「麓で待ってもらっているが、まあ、そろそろ帰っちまうだろうな」
ここに来る道中集まっていた車があったが、あれがそうか。
「事故があったのはいつ頃ですか?」
「三十分くらい前かな」
「では、そろそろお相手が痺れを切らすのも無理はないでしょうね。ただでさえ遅い時間ですし」
「ああ、まったくだな」
と、間島氏が肩を竦ませてみせる。
「元々はこちらのチームから無理にお願いして勝負して頂いたのですから、仕方ないでしょうね」
「そうなのかい、時子君」
「ええ」
彼女が頷く。
「今回のお相手の“レッド・サンズ”は、正直、私たちのチームより格上のチームなのです。ですから今回の勝負もかなり無理をして頼みこんだと、柏木さんが亡くなる前に仰っていましたわ」
「ふむ」
「対戦相手にお話しを聞きたいのですか、先生?」
「まあね。しかし、また麓まで歩くのは疲れるからね、考えものだよ」
「疲労より事件解決が最優先じゃありません?」
「事件じゃねえ。
と、間島氏が口を挟んだ。
さて、どうしたものか。
などと思惑を巡らせていると、麓方面からサイレンが聞こえてきた。その方角に目をやると、チカチカと赤い光が点滅しているのが見える。おそらく警察が到着したのだろう。
サイレンの音はやがて近づき、私たちの前で停止した。
やって来たのは二台の車だ。一台は県警のパトカー。もう一台は黒のポルシェ、覆面パトカーとしてはかなり珍しいが、しかしその車には見覚えがあった。
パトカーから制服を着た二名の警官が降りてくる。おそらく交通課の人間だろう。
対してポルシェから降りてきた人間は、それら凡庸な警察官とは明らかに一線を画しているようだった。紺のレディススーツの上に外套を羽織り、眼鏡の内の眼光は決して真実を見逃さないように鋭い。歳の頃は二十代後半くらいだろうか。凛とした雰囲気というのがぴったり合致する彼女は、私たちの前に立つと警察手帳を突き出した。
「警視庁の
差し出された警察手帳には
これは少しばかり驚いた。なぜなら彼女と私は旧知の仲だったからだ。
私は彼女に挨拶しておくことにした。
「やあやあ、鏡花さん、随分久しいね」
「げっ……アンタ、こんなところで何やってんのよ!」
やや強い口調で、そう返された。やれやれ、気の強い性格は相変わらずらしい。
「例によって事件の捜査をね」
「事件って……事故だと聞いているけど?」
「それを決めるのは早計だと思うよ。しかし、鏡花さん、警視庁のエリート様が、どうしてここに? 私が言うのもなんだが、これは事故と判断するのが普通だと思うよ」
「通報があったのよ。亡くなった柏木の父親からね」
「ほう!」
「彼の父親は大病院の経営者でね、無下にはできないって上からの命令」
「通報というのは?」
「息子が交通事故なんかで死ぬはずがない。殺されたんだって、血相変えて怒鳴り込んできたのよ」
「それでこんな時間に出勤ですか。御苦労なことです」
「探偵なんかやってるアンタに言われたくないけどね」
こうして話していると、昔を懐かしく思う。
「あの、探偵さん、こちらの方は?」
「ああ、そう言えば時子君は初対面だったか……彼女は犬吠埼鏡花。警視庁の敏腕刑事で、私の大学時代の同期だよ」
今度は逆に時子君のことを鏡花さんに紹介する。以前の事件で出会った少女であること、彼女の父親は貿易商として大物であること、などである。貿易商の大和のことは鏡花さんも聞き知っているようで、紹介にそう手間はかからなかった。
鏡花さんが間島氏たちの方を見直す。
「それでは、状況の説明をお願いします」
そして私や時子君を交え、再度の状況説明がなされた。
十月二十三日。夜九時。清澄養老ライン。
我が県代表のチーム“ブラック・ドラゴン”と隣県の代表チームである“レッド・サンズ”の対抗戦が行われた。
勝負は上りと下り、それぞれ一本ずつ。
まず初めに行われた上りの試合、“ブラック・ドラゴン”から出場したのは
続いて行われた下りの試合、“ブラック・ドラゴン”の代表は赤いRX―777を駆る
「時子君、そもそもなぜその二人が代表になったんだい?」
私と時子君は鏡花さんのポルシェの中で、事のあらましを説明していた。おそらく他のメンバーももう一台のパトカーで順々に話を聞かれているだろう。
「間島さんの実力はチームのナンバー2ですから選ばれるのは当然なのですが、田名部さんは推薦があったからだそうですよ。試合前に柏木さんに教えて頂きました」
「推薦?」
「ええ、本来なら一番運転が上手だった柏木さんが走る予定だったのですが、田名部さんが何でも最近になってめきめき上達なさっていると推薦されたからだとか……ああ、推薦したのは間島さんを始めとする他のチームメイトです」
「と言うと、間島さん、山内さん、河野さん?」
「そうです」
大事な試合ではあるものの、本来走るはずだった柏木さんは、代表の座を田名部さんに譲り、勝負がスタートした。
序盤はRX―777の加速性能もあり、互角で勝負が進んだものの、やはり実力に差があったためか、対戦相手との差はみるみるうちに広がっていった。
そして終盤、ついにその事故が起こった。
対戦相手が見えなくなった頃――それでも田名部氏は懸命に追いかけた。そしてそんな彼の車の前に柏木氏が飛び出し、崖下に撥ね飛ばされた。当然ながら柏木氏は即死だった。
そして田名部氏がチームのメンバーに連絡し、中でも時子君が私を呼び出した。
「――これが、今晩あったことの概要だね?」
「ええ、その通りですわ」
時子君が頷いてみせる。鏡花さんは私の話をまとめたメモ帳を睨んで考え込んでいた。
「しかし、どうして君が突然、公道レースになんて興味を持ったんだい?」
「ああ、それは亡くなった祖父の蔵書が発見されたからです」
「御爺様の」
「ええ、戦時中に禁止されたものを、祖父は蔵に隠し持っていたのです。その中に走り屋を題材にした漫画がありまして」
「それで興味を持った、と」
「ええ」
「こういった集まりはよくあるのかい?」
「他県のチームとの試合となると、あまりありませんね。せいぜい月に一回ほどでしょうか。勿論、そのチームの方針にもよるのでしょうけれど」
「君はこのチームに関わるようになってどのくらい経つの?」
「もう二カ月になりますね」
ふむ。チーム内の関係性を知るには十分な期間と言えよう。もっとも、それで全てが計れるわけではないだろうが。
「あのチームはどのような起源で結成されたものなのか、分かるかな」
「ええ。確か、私立病院を経営なさっていた柏木さんの御父様と、警察庁長官をなさっていた間島さんの御父様が元々知り合いで、お二人はそこで知り合ったのだとか。そこに間島さんの大学時代の後輩である田名部さんと、病院で知り合った山内さんが加わったという話でした」
「河野さんは?」
「あの方は元々この辺りを走るのが好きだったようで、間島さんがスカウトしてきたらしいですよ」
なるほど。
「チームと言っても、実際に走るのがその五人だったというだけで、車の整備やチューンをする人間や、試合の日取りを決める人間もいますから、一概に間島さんを中心にしているとも言えませんけれど」
「と言うことは、反間島のような人間もいた?」
「いいえ! そんな話は聞いたことがありませんよ。ただ……」
「ただ?」
「ああ、いえ……ただ、どちらかと言えば柏木さんの方が人気があったと思いまして」
「人気が、ねえ……」
まあ、どんな世界でも人の好き嫌いというのはあるだろう。
「しかし、この概要を見れば見るほど、事件ではなく事故のように思えるが」
先程からメモ帳とにらめっこをしていた鏡花さんが顔を上げ、そう呟いた。
「ですが、私はどうしても信じられないのです。亡くなった柏木さんはとてもチーム思いの方で、コースも熟知していました。そんな方が、果たして不用意にコースに入るなどということをするでしょうか」
「
「それはそうかもしれませんが……」
反論の材料がなくなったのか、時子君は俯き、黙り込んでしまった。
「いやあ、これは間違いなく事件ですよ。それも、実に凶悪な殺人事件です」
「何!?」
「それは本当ですか、探偵さん」
私はこくりと頷いてみせる。
亡くなった柏木氏の遺体を見た段階で、私はこれが殺人事件だと確信していた。
「遺体の様子? 別段変わったところのない、普通の交通事故の被害者のように見えたが……」
「根拠がいくつかありますが、そうですね……時子君、この辺りの地図はあるかな?」
「地図ですか? 少々お待ちください」
言って、時子君はスカートのポケットから携帯端末を取り出した。あまり電波は良くはなさそうだが、地図情報のダウンロードくらいはできるだろう。
「出ました」
差し出された携帯端末の画面を見る。
「私が遺体を見てまず気になったことは、被害者の柏木氏がどうして
「と言うと?」
「ゴールの手前というわけでもないし、カーブがあるところでもない。道幅が広いわけでもないから、追い抜きがあるとも思えない」
地図を指さしながら説明していく。
「つまり、あそこで見学をするメリットが何もないんですよ。現に柏木氏以外の観戦客は、あそこにはいなかった。そうだね、時子君?」
私の呼びかけに、彼女は首肯した。
時子君の話によれば被害者の柏木氏はここのコースを熟知していたという。ならばもっと優先すべき観戦ポイントをいくらでも知っていたはずだ。
「どこか別の場所で観戦していて、移動したんじゃないか? その過程で事故に遭ったのかもしれない」
「おそらくそれはないでしょう」
「どうして」
「真っ暗な山道を歩いたにしては靴が綺麗すぎました。歩いたとしたらここらがいくら舗装されているとはいえ、もっと汚れたり傷が付いたりしているはずです」
「車で移動したのかもしれない」
「彼の車は近くにはなかったんだよ?」
柏木氏の愛車は麓の駐車場で見つかっている。
そこまで言うと、鏡花さんは「そうか……」と言って黙り込んでしまった。どうやらこれ以上の反論はないらしい。
「では、亡くなられた柏木さんは、どうしてあそこにいたのでしょうか?」
「良い質問だね、時子君――私が言いたいのは、つまりね、亡くなった柏木氏は、どこか別の場所で轢かれ、その後にあそこに遺棄されたということなんだよ」
「そんな」
思わず時子君が息を呑んだ。知り合いが死んだ――それも、殺人事件となるとやはり動揺が隠せないのだろう。
「しかし、それは憶測だろう。証拠は何もない」
「ところが、あるんだよ、その証拠がね」
私はそう言って、にやりと口角を上げた。
「何だそれは?」
鏡花さんが怪訝なそうな視線をこちらに向ける。
「遺体にあったもう一つの特徴ですよ……それでは、続きは犯人たちの前で話すことにしましょう」
「あ、おい!」
私は鏡花さんの制止を振り切り、車を降りた。今夜ももう遅い。ここらで幕引きといこうじゃないか。
「皆さん、寒い中お集まり頂きありがとうございます」
私は集まった“ブラック・ドラゴン”、時子君、そして鏡花さんという面々を前に話し始めた。
「えー、今回の事件は、シンプルでしたが、立証するのが非常に難しいものでした」
「おい、ちょっと待てよ、探偵」
と、間島氏が私の言葉を遮った。
「事件って何だよ。コイツは事故だろ」
「いいえ、れっきとした事件――それも、殺人事件です」
「殺人だァ? 誰かが柏木のことを殺したってのかよ」
「ええ、と言っても、田名部さんがやったとは言いませんよ」
「じゃあ、誰がやったって言うんだよ」
私はゆっくりと、右手の人差し指を、目の前の四人の青年に向けた。
「貴方たちですよ。“ブラック・ドラゴン”の皆さん」
その瞬間、明らかに四人の顔色が変わるのが分かった。驚きや動揺の表情である。
「な、何言ってんすか! ありゃあ、事故っすよ、間違いない!」
「そう仰ると思っていましたよ、山内さん。ですから私の方でもいくつか証拠をご用意しました……ですが、その前に、もう一度事件の流れを確認してみましょう」
まず第一のレース。これを走ったのはチーム内でもナンバー2の実力を持つ間島氏。結果は勝利に終わった。
そして件の第二レースの幕が上がった。走ったのは田名部氏だ。実力で明らかに劣る彼は、敵チームの代表からどんどん離され、終いには見えなくなるほどだった。そしてレース終盤、突然道路に飛び出してきた柏木氏を撥ね飛ばしてしまう」
「――ここまで、何か間違いはありますか?」
そう尋ねると、彼らは異口同音に間違いないと答えた。私は話を続ける。
「それでは田名部さん、柏木さんを轢いてしまった貴方は、どのような行動をとりましたか?」
「どのようなって……まず、チームの皆に連絡したよ」
「そして?」
「警察や救急車を呼んでもらった。そこにいる大和は警察ではなく探偵を呼んだみたいだけど」
「その間、遺体に触れた人は?」
そう尋ねると、山内氏がおずおずと手を挙げた。
「俺っす」
「医大生の山内さん。他には?」
青年たちが一度顔を見合わせ、そして首を横に振った。
「分かりました。では、話しを進めましょう。チームメイトに連絡した田名部さんですが、他のメンバーが到着した具体的な順番を覚えていますか?」
「え、ええと……すみません、詳しくは。でも、ほぼ同時だったと思いますよ」
「その通りだぜ」
と、間島氏が付け加える。
「俺らは同じ場所で観戦していたからな。駆けつけるのもほぼ同時なはずだ」
「なるほどなるほど。では、皆さんで山内氏が遺体を検分なさるのを見ていたと?」
「警察だの救急だのに連絡しなくちゃいけなかったら一部始終ってわけにはいかなかったけど、大体はな」
“ブラック・ドラゴン”の面々が各々に頷く。
しかし私は、思わず、笑い出してしまった。
まさか、こうも簡単に自白してくれるとは。
「何がおかしいんだよ!」
「貴方たち、今嘘をつきましたね?」
「ハァ?」
「貴方たちは検分に立ち会ってなどいない! 貴方たちは柏木氏を別の場所で殺害し、崖下に遺棄したんです! 事故に見せかけるためにね!」
「んなわけねえだろ! あれは確かに事故だったんだ!」
「どうしてそう言い切れるんでしょう?」
「は」
「貴方は先程、離れたところで観戦していたと仰ったんですよ? そして田名部氏の連絡を受けて駆けつけたと。ではどうして事故だと言い切れるのでしょう。見てもいないはずなのに」
「それは……山内が死体を見てそう言ったから……それに第一、アンタがそう言ったんだろうが!」
「そうでした、そうでした。失礼しました。では、少し見方を変えてみましょう」
そう言って、私は右手の人差し指と中指を交差して体の前に突き出した。
「
意表を突かれたのか、全員が一瞬だけきょとんとする。私は続ける。
「山内さん、これは何に見えますか?」
「え、俺っすか」
「そうです。何に見えるでしょうか」
「えっと……小文字のLを筆記体で書いたやつ? 逆さまだけど」
「なるほど、数学などで使われる表記ですからね。理系の貴方らしい。では河野さん、貴方はどうでしょう?」
「俺か?」
「ええ、黙って話を聞いているのも退屈でしょうから、是非お答え願いたいものです」
「……囲碁の、碁石の持ち方に似ているな」
「ほう! 貴方は囲碁を嗜まれるんですか?」
「下手の横好きだが」
「なるほど、少し意外でしたが……正解は違います。では、時子君、君はどうかな」
「私ですか?」
突然指名され、彼女は驚いた表情を見せる。当然だが、別に彼女に聞かないことにしているわけでもない。話を振っても別に構わないだろう。
「ええと、手話でしょうか」
「なるほど。ちなみに手話でこれは何という意味か知っているのかな」
「いいえ、そこまでは……検索すればすぐに分かるでしょうから、調べましょうか?」
「いや、そこまでする必要はないよ」
と、そこまで言ったところで、間島氏が口を開く。
「おい! いい加減にしろよ。こんなやり取りに一体どんな意味があるっていうんだ!」
「まあまあ、そう熱くならずに……ところで間島さん。貴方は亡くなられた柏木氏と大学の同期だそうですね」
「それがどうかしたのか?」
「彼は何を専攻していたのかご存知でしょうか」
「……確か、海外文学だったような」
「なるほど、海外文学ですね。ありがとうございます」
「おい! さっきから何の説明にもなってねえぞ!」
「ああ、そうですね、申し訳ありません。では、そろそろこの指の形の答え合わせといきましょう」
そう言って私は再び人差し指と中指を交差させ、今度はそれを鏡花さんの方に向けた。
「鏡花さん、君ならこの指の意味を知っているね?」
「ああ……エラリー・クイーンだろう?」
「その通り!」
二十世紀の推理作家エラリー・クイーンの著書『Xの悲劇』に登場するダイイングメッセージが、私が先程から質問している人差し指と中指とをクロスさせているそれだ。作中で殺害された被害者が、犯人は指を交差させてできる、つまり“X”に関する人間だと示したのだ。
「“X”ですか……見えなくもありませんね」
時子君が自身の指を私と同じようにクロスさせて呟いた。
「もっとも、このような海外の作品の多くは、戦時中に禁止されてしまったため、若い君たちが知らないのも無理はない。反面、私や鏡花さんはそれらの作品を読む機会があったから、その意味を知っていたというわけさ。そしてそれは、海外文学を専攻していた柏木氏にも当てはまる」
私が得意げにそう答えると、「何だかズルい……」と時子君が僅かに頬を膨らませた。そう言われるのも無理はないかもしれない。
「つまり亡くなった柏木氏のあの指の形は、彼のダイイングメッセージだったんだよ!」
「いや、ちょっと待て」
と、今度は鏡花さんの制止が入る。
「『Xの悲劇』で書かれているダイイングメッセージは、犯人を示すものだったはずだな」
「ええ」
「だが、ここにいる人間の中に、“X”に関わる者はいないはずだ!」
「その通り! しかし、被害者が残したかったメッセージは、犯人に“X”が関係するということではなかったのです」
「では、どうして」
「
「なるほど……」
「そして柏木氏は、何より決定的な、もう一つのダイイングメッセージを残していました!」
遺体を見た時には分からなかったが、しかし、遺体発見現場の斜面を登っている時に気が付いた。被害者は自らが殺害されたことを示し、さらには犯人が誰なのか、はっきりとした証拠を残していたのだ。
「それは一体、何ですか、先生!」
「簡単だよ、時子君」
被害者の右手は、被害者自身の血液で真っ赤に染まっていた。それは決して偶然ではない。
私はゆっくりと、青年たちの背後に回り込んだ。そして、そっと手を伸ばす。
「通常、ダイイングメッセージを残す時、犯人から隠すように残すものです。あるいは、先程の“X”のように犯人には分からないようにするものです。でなければ犯人に消されてしまう……クック、なるほど、柏木氏は、上手いところを見つけたものだ」
私がこのサインに気付いたのもまったくの偶然かもしれない。斜面を登っている最中、ちらりと見えただけなのだから。
私は目の前の青年――山内公平のフードを持ち上げた。
「間島、山内、田名部、河野にやられた」
動かしがたい確かな証拠が、明らかに血液だと分かるものでそこに刻まれていた。
「バカな……!」
間島氏がそう呟いた。
何もバカな話ではない。
「貴方たちは柏木氏を拘束し、人目につかないコースで待機した。そこに対戦相手からかなり離された田名部氏が到着する。彼の駆るマシンは加速性に優れている。つまり、短い助走で十分人を殺せる威力が出せるということだ。田名部氏がアクセルを踏み込み、タイミングを見計らって他の三人が道路に柏木氏を突き飛ばした。しかし、その場で遺体が発見されてしまえば、同時に様々な証拠まで見つかることになる。柏木氏も当然ながら抵抗したでしょうからね。だから貴方たちは、協力して遺体を運んだ」
おそらく、山内氏と河野氏が左右から挟んで肩を貸すような形で運んだのだろう。しかしそこで、まだ辛うじて意識のあった柏木氏が、ダイイングメッセージを残したのだ。
私がそのメッセージに気が付いたのは、柏木氏の遺体を確認するために崖下に降りた時だった。そこから上に登っている最中、丁度、上にいた山内の背中が――つまりフードに隠された部分が目に入ったのだ。
全ての説明を終えると、山内氏は地面に崩れ落ち、河野氏の肩が震えていた。田名部氏に至ってはもはや号泣状態である。
「そんな、どうして……!?」
時子君がそんな言葉を漏らした。何よりも固い絆で結ばれていると思っていたチームの人間が、仲間を殺したのだ。到底信じられるようなことではあるまい。
「アイツが悪いんだ……アイツが先に裏切ったから……」
「裏切った?」
鏡花さんが聞き返したが、その質問には私が答えることにしよう。つまりは殺人の動機であるが、それも大体の見当が付いている。
「去年の暮れ頃、若い女性がこの峠で暴行され、殺害された事件があった。走り屋の犯行だという話があったものの、肝心の犯人は捕まることがなかった」
「まさか!」
私は頷く。
「間島氏の父親が隠蔽したんだよ」
間島氏、山内氏、田名部氏、河内氏は去年の暮れ頃、女性を暴行し、殺害した。警察庁の長官だった間島氏の父親は事件を隠蔽する……が、その事実に柏木氏が勘付いてしまった。善人だった彼は他のメンバーを自首するように説得したのだろう。しかし、それは無駄に終わったのだ。柏木氏を除く四人は、口封じのために事故に見せかけて彼を殺害した。
これが、事件の大きな流れというわけだ。
「アイツが! アイツさえ、裏切らなければ!」
間島氏はそんな風に涙を流した。他の面々の眼にも涙が浮かんでいた。
「間島洋介、山内公平、河野雄二、そして田名部新一郎、柏木武志の殺害および死体遺棄の疑いで逮捕する!」
秋の終わりの養老渓谷に、手錠をかける無機質な音が響いた。
名探偵は夜歩く 冬野氷空 @aoyanagikou
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