捌ノ話

 ビードロの風鈴が短冊をはためかせ、涼やかな音を奏でている。

 しかし、響き渡る清音の爽涼さとは裏腹に、窓辺から吹き込む風はじめじめと重たく、それでいて酷く生温なまぬくとい熱を孕んでいた。

 雨の匂いが立ち込めている。

 降り続く長雨が強さを増す度、元より虫の息であった“あいつ”の寝音は、掻き消えるように小さくなっていった。

 不意に、ばたばたと激しい音を立て、かつてないほどの篠突く大雨が空から零れ落ちてくる。

 虫籠窓むしこの向こうの雨景色をぼんやりと見つめていた八手は、ふと顔を上げていた。

 ――聞こえない。

 ぞくりと背筋を冷たいものが走り抜ける感覚があり、八手は考えるよりも早く、すっかり痩せ衰えた火天の胸にぴたりと耳をつけていた。

 そこからは、規則正しい命の音が聞こえてくる。

 ――良かった、彼はまだ生きている。

「火天、そろそろ起きないと。旦那様も、坊ちゃんも、もうすっかり待ちくたびれてらっしゃるんだよ」

 けれど、その鼓動は日に日に弱さを増すばかりだ。

 今にその脆弱な音がぱたりと止んでしまったらと思うと、恐ろしくて夜も眠れない。

 それならばいっそ、いつまでもこうしていればいい。

 絶え絶えに浅い気息を繰り返す胸元に、ずっとずっとすがり付いていればいい。

 右手に握り締めていた小さな御守り袋がぽろりと転げ落ち、封じ紐に括り付けられていた金色の鈴が、か細く音を漏らす。何度も強く握り締めるうち、すっかり手跡のついてしまった御守り袋は、涙で滲んだ視界に溶け消え、次第に見えなくなっていった。

 火天の派手やかな装いと同じ。燃えるような朱の錦に包まれたその御守りには、“鴇田神社ときだじんじゃ”の文字が刻まれている。件の社は、城鉦山の麓に神廟を構える、この町で唯一の神社だ。この御守りは、八手がまだ今の八雲よりも随分小さかった頃、夏祭りの折節に、あらゆる災厄から身を護るご利益があるのだと言われ、瑞雲から買い与えられたものだった。

「ね、火天。あれから坊ちゃんがね、ちゃんと見世を手伝ってくださるようになったんだよ。あんたのお陰かもね」

 火天は答えない。

 相も変わらず固く瞳を閉じたまま、弱々しく呼気を漏らすばかりである。

 ――どうして、こうなってしまったのだろう。

 嵐角と名乗る医師からの執刀を受けたあの時、妖異の火種は絶えたはず。

 ここからの首尾は本人の活力次第だと、の医師は言っていた。

 あれから数日の時が過ぎ去っているが、火天の容体は一向に回復の兆しを見せることがない。

 嵐角の教授を当てはめるとするならば、火天は不運にも、弱りきった己の体を元に戻すだけの活力を持ち合わせていなかったということなのだろうか。

「聞いてんのかい――ねえ、火天」

 それでも尚、八手は呼びかけることをやめようとはしなかった。

 脆弱な命の音を、たったの一度とて聞き漏らしてはなるものかと、片時も火天の側を離れようとはしなかった。

 今朝も、昨日も、その前の日も。

 どれだけの疾雨に晒されようとも、大風が吹こうとも、貴方の元へお願いにあがったのに。

 どうして貴方は、火天を救ってくださらないのですか。

 かみさま。

 かみさま。

 歯痒さに唇を噛んだ八手は、血の筋の滴るほど強く拳を握り締め、ただただ嗚咽を漏らしていた。

「火天、目を覚ましてよ。お願いだから――目を覚ましたら、今度こそ何だって言うこと聞いてあげるから、お願い」

 刹那のこと。

 りん、とたった一度だけ。窓辺に激しく打ち付ける雨音の隙間を縫うように、冷たく澄んだ鈴の音が響き渡るのが分かった。

 見れば、八手の掌から零れ落ち、ちょうど火天の腹の上に置き去られていたはずの御守り袋が、何故か今、ぐるぐると晒しを巻かれた火天の左腕のすぐ側に落ちている。

 火天は先ほどから、浅く胸元を上下させる他には、いささかも動いてなどいない。元より意識も戻っておらず、動き回る気力など残っているはずがない。それは、火天の胸にずっとすがり付いていた八手が一番よく知っている事だ。

 窓辺に吊るされた風鈴を確かめてみても、金魚鉢をひっくり返したような丸いビードロにぶら下がった短冊は微動だにせず、しんと黙したままである。

 風もないのに、不思議なこともあるものだ。

 きょろきょろと辺りを見回しながら、八手は火天の寝かされた布団の淵をくるりと回り、晒しの巻かれた左腕の側へしゃがみ込む。

 そして、すっかりひしゃげてしまった御守りをそっと拾い上げた瞬間、とうとう気がついてしまったのである――きつく巻きつけられた晒しの一部分が、異常なほどぽっこりと膨らみを帯びていることに。

 ごくり、と自ら鳴らした喉の音が、糸を引くようにねっとりと耳朶を這い上がってくるのが分かる。

 震える手でゆっくりと晒しを巻き取った八手は、言葉を失っていた。

 火天の手首の傷口からは、膿血のこびりついた赤黒い肉腫が顔を覗かせている。

 それはまるで、赤子の頭ほどもある、瘤のような――――

「だ、旦那様――旦那様!」

 取り去った晒しを放り出した八手は、無我夢中で走り出していた。


*****


 軒を打つ滝降の雨のおかげで、連日賑わいを見せていた見世先はすっかり静まり返り、閑古鳥の鳴く有様であった。

 どうやら今日も、早めの見世仕舞いになりそうだ。

 売れ残りの反物を詰めた行李こうり(※)を抱え、土蔵つちぐらの側へとやってきた八雲は、軒口から怖々と時化空を見上げ、長嘆息を漏らしていた。

 不意に、降りしきる雨の音が僅かに音色を入れ替えたのを感じ、八雲は土蔵の角からひょいと脇を見遣る。

 ――いつから居たのだろう。

 以前初めて顔を合わせた折も、真っ先に胸に湧いてきたのは、確かそのように不可解な思いであったような気がする。

 そこには、弁柄色の番傘を背負い、ひょろひょろと細長い風采にそぐわぬいかめしい刀を帯びた、あの若侍が立っていた。

「貴方は、あのときの――」

 身を乗り出した拍子に、軒瓦をのた打ち回る雨の塊が、容赦なく頭上に降り注いでくる。

 行李の中身を濡らしては大変だと、慌ててそれを抱え込むように身を竦めると、自らが塗れそぼつ事も厭わず、さっとこちらに傘下を差し伸べた男――加賀山空冥は、柔らかく微笑んでいた。

「こんにちは。ご病気の方のその後は、如何ですか?」

 笑顔と共に零されたその第一声が、深々と心に突き刺さったような気がしていた。

 体の真ん中を突き抜けた鈍い痛みが、八雲の全身からゆるゆると力を奪ってゆく。

 刹那、小脇に抱えていた行李がするりと足元に転がり落ち、小さく泥を跳ね上げた。

 当然の如く、行李の中身は無様にぬかるみの中へとちまけられ、大切な“売り物”であったはずの反物は、瞬く間に遣りどころのない長物へと姿を変えていた。

 まずい――これが見つかればきっと、見世のものからこってりと油を絞られるに違いない。

 普段の八雲であれば、そんなことを思っていたかもしれない。

 けれど、今の八雲にはもう、そこまでの余裕など残されてはいなかった。

 考えないようにしてきた。

 自身で動かずとも、いつものように、きっと父がどうにかしてくれるはずだと、思い込むようにしてきた。

 それでも、本当は――

 こちらを窺うように、そっと膝を折った空冥の案じ顔を見るや否や、八雲の目頭からは、堰を切ったように涙が溢れ出していた。

 そして、気がつくと八雲は、知り合ってごく僅かの顔見知りでしかない男に、これまでの顛末を、洗いざらい打ち明けていた。

 城鉦山で出くわした、蛍火を吐き出す怪異のこと。

 火天の身に起きた異変のこと。

 嵐角という医師のこと。

 駆除されたはずの人面疽が再び現れ、今も変わらず火天の体を蝕んでいること。

 そして――

 火天の経過を受け、直ちに使いを走らせて呼び戻そうとした医師の姿が、既に何処にも見えなくなっていたこと。

「父さんは、火天をこんな目に遭わせたのは自分のせいだと言って、今必死で代わりの医者を探しているんです。でも皆、患者が常磐人だと分かった途端、治療に失敗したときの報復がどうのと恐れをなして、取り合おうとしてくれなくて――」

 そうして八雲が涙ながらに語り終えると、空冥はすぐさま相好を入れ替え、剣呑とした面持ちで深く頷いていた。

「何とも不運な話ですね――あの時もう少し詳しく事情をお伺いするべきでした。その嵐角という医者、薮医者にも劣る筍医者のようだ。治療方法も出鱈目ですし、おそらくその様子ではもう、この静賀からは既に姿を消している可能性が高いでしょうね」

「空冥様は、火天を治療する方法をご存知なんですか? だったら、今すぐ火天を診てやってください!」

 立ち上がった空冥にすがるように駆け寄った八雲は、必死に彼の羽織の裾を引き、懇願していた。

 正直に言えば、空冥のような若い医者に重篤な火天を診せるなどということは、忍びない気持ちの方が大きい。けれど町にはもう、火天の治療を引き受けてくれる医者がどこにもいないのである。

 見る影も無いほど痩せ細った火天の命は既に、風前の灯だ。

 何もしないままで居られるはずがない。

 少なくともまだ自分に出来ることはあると、信じずには居られなかった。

「以前お会いした時の非礼は、お詫びします! もしもまだお怒りが収まらないと仰るのなら、その刀で僕を――」

 そこまでを言ったところで、一心不乱に叫喚する八雲の頭を、番傘と同じ、弁柄色の手甲に覆われた細長い手が、ぽんと叩いていた。

 頬を伝いゆく熱い雫を拭おうともしないまま、懸命にすがりつく八雲を見下ろした空冥は、再び柔らかに頬を緩ませる。

「私は、刀を使えないと言ったはずでしょう。この刀は、人を傷つけるために持ち歩いているわけではありませんよ」

 あまりに勢い込んでまくしたてていたせいか、空冥の言葉の意味するところをすぐに理解出来ない。ぽかんと口を開けたまま、ただただ瞬きを繰り返し続ける八雲に、空冥はこめかみの辺りを掻きながら、やれやれとばかりに肩を竦めてみせいた。

「八雲、と言いましたね。貴方のお気持ちは分かりました。たとえ相手が仇敵であろうと、等しく手を差し伸べて救うのが、医者の務め。ですから私は、貴方のお友達の命を、必ずお救いすると誓います」

「空冥様――! ありがとうございます!」

 感極まる思いの込み上げてきた八雲は、気がつくと、嬉々として空冥の細腰に飛びついていた。

 滅紫の羽織に包まれた空冥の体は想像以上に骨細で、彼と同等の身の丈に、がっしりとした体格を備える火天とは、その存在感に雲泥の差があるように思われた。

 八雲に不意を突かれ、よろめいた拍子に番傘の持ち手を離してしまった空冥は、あたふたと何度も空を掴みながら、辛々に踏みとどまり、ふう、と小さく息を漏らしていた。

 ――やっぱり、何だか頼りないかもしれない。

 きょとんとする自分に弱々しく苦笑いで応えた空冥は、腰元にへばりついた八雲をよいしょと引っ剥がすと、再びきりりと群青の瞳を覗かせ、思案に暮れた様子で鈍色の雲を見上げていた。

「お話を聞く限り、貴方のお友達に取り憑いた妖の正体が人面疽であることは、まず間違いないと思います。あれを駆除するには、特別な薬が必要なんですが――八雲、貴方は“編笠百合あみがさゆり”の咲いている場所を知っていますか?」

「編笠百合?」

 野道に咲く花になど一度たりとも興味を持ったことのない八雲にとって、空冥の投げ掛けた質問が、相当な難問であったことは間違いない。

 ひくひくと引き攣るほど眉根に力を込めた八雲は、何度も首を捻りながら、記憶に沈んだおりを掬い上げようとする。

「春先に、釣鐘のような形をした白緑びゃくろくの花を咲かせる百合です。あの花の根は貝母ばいもといって、人面疽の特効薬を作り出すには、必要不可欠な材料なのです。この辺りだと、城鉦山に多く自生しているという話を聞いたことがあるのですが」

 貝母――その名前にはどこか、心当たりがある。

 以前八雲の前でその名を口にしていたのは確か、八手だ。

 真冬の折節、風邪をこじらせた八雲に、八手は“咳を鎮める薬を作ってやる”と言って、のた打ち回りたくなるほど苦い薬を無理矢理飲ませてきたことがあった。その時の薬のことを、彼女は確か“貝母”と呼んでいたような気がする。

 いつか八手が風邪を引いたときには、絶対に同じ目に遭わせてやるんだ――

 幼心に報復を誓った八雲は、いつものように家人に言い付けられて、八手があの城鉦の山へ自分を連れ戻しにきた折、貝母の生えている場所はどこなのかと尋ねてみたことがあった。今の今までそれを忘れていたのは、八手があれから、一度も風邪を引いたところを見た事が無かったからだ。

「それなら、わかります! 僕が案内しますから、一緒に山へ連れて行ってください!」

 ところどころで途切れていた糸が、瞬く間に繋がっていくような感覚をおぼえた八雲は、大きく声をあげていた。

 しかし、言われた空冥は気が進まないのか、やや戸惑ったように瞳を泳がせ、難しい顔を浮かべている。

「ですが、この雨では……山に入るのは少々危険かもしれません」

「構いません。元はと言えば、火天がこうなったのは僕のせいだし――」

 そこまでを言い終えると、八雲は、困惑していた空冥の顔色が大きく入れ替わるのを感じ、目を見張っていた。

「そうか、この雨――」

 野狐を思わせる鋭い瞳を大きく見開いた空冥は、何を思ったのか、唐突に頭上から番傘を下ろし、一段と競いを増して降り募る雨粒の源泉を見上げていた。

「八雲、編笠百合を見つけたら、貴方は一足先に此処へ戻っていてください。但し、私のことはくれぐれも瑞雲殿には御内密にお願いします」

「ど、どうしてですか?」

 瞬く間に濡れそぼちた漆黒の髪が、ぴったりと目許に貼り付いてしまっているおかげで、八雲の方から空冥の細かな表情を伺い知ることは出来ない。

 けれど、時化空を見上げる彼の立ち姿に、怖気おぞけの来るほど重く冷たい気這を感じたのは、気のせいだろうか。

「なあに、嘘つきな大人をほんの少し懲らしめてやるだけですよ。安心してください。どんな形であれ、必ず貴方のもとに薬を届けるとお約束しますから――さあ、今はとにかく急ぎましょう」

 再び八雲の方を振り返った空冥は、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべていた。




※ 行李=竹や藤を編んで作ったつづら。

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