漆ノ話
「八手、大丈夫か?」
八雲の手を引き、半ば逃げるように見世の裏手の
どれだけ拭っても、どれだけ押さえつけても、柑子の袖を濡らす涙は止め処なく溢れ続けるばかりだ。
そうするうちにとうとう堪えきれなくなり、気が付けば八手は、さめざめと泣いていた。
「坊ちゃん――ごめんなさい。瑞雲様には、坊ちゃんのことをって頼まれてるのに」
咽びながらやっとのことで紡いだその言葉を、八雲は優しく八手の背中を擦りながら、何度も頷きながら、懸命に拾い上げようとしてくれていた。
「気にすることないよ、八手。泣きたくなる気持ちも分かる。心配になるのも分かるし……」
「どうして火天が、あんな目に――あいつはあたしを助けてくれたのに。斬られちまえなんて言ったけど、本当はあたし……」
「僕も同じ気持ちだ。僕が夜更けまであんなところをうろついてさえいなければ、火天はあんな目に遭わなかったかもしれない。それに、実際に人面疽を見たのは僕だけだったのに、どうして火天だけが――」
八手の背中からそっと手を離した八雲は、眉根を寄せて
言われてみれば、と思い当たった八手も、それに倣って気遣わしき窓辺を見上げる。
八手と火天の二人が人面疽を目にしたのは、今朝方が初めてであったはず。昨晩、一度喧嘩別れをした後、自分と再会するまでの火天の足取りは定かではないが、彼は少なくとも、肌で“厭なもの”だとは感付いていても、あの蛍火の
それにもかかわらず、何故火天一人だけが憑かれることになってしまったのだろうか――考えれば考えるほど、謎は深まるばかりである。
刹那のこと。
二階部屋の方から、晩夏の空に鳴き満ちた蝉時雨を
「火天――!」
思わずそこへ向かって走り出しそうになった八手を、驚くほどの強い力で引き戻したのは、先ほどにも増して険しい表情を浮かべた八雲であった。
「八手、行っちゃ駄目だ! 辛いのは分かるけど、僕達が行ったところで、邪魔になるだけだ!」
「でも、でも!」
どうして。
どうして。
貴方の大事な兄は今、あんなにも苦しんでいるのに。
あの人は、大事な――
波立つ心悸に煽られ、すっかり乱心していた八手は、必死に八手の腕を掴む八雲に憤りすら覚えていた。
けれど、噛み締めた唇を小刻みに震わせ、空を溶かし出したような
触れた手の平から温もりとともに伝わってきたのは、強い言葉とは裏腹の、
生身を削られるほどの辛い思いをしているのは、自分だけではない。
渦中の火天も、八雲も。そして、苦しむ彼の姿を側で見ていなければならない瑞雲も。
誰しもが心を痛めているはずなのに、自分は――
「ねえ八手。僕、今日は怠けずにちゃんと見世番をやってみせるから。だから、見世に戻ろう?」
「坊ちゃん……」
ようやっと落ち着きを取り戻した自分に、八雲はいかにも“精一杯”を浮き彫りにした、ぎこちない笑みを向けてくる。
こんなにも小さな子供にまで心許ない思いをさせるなどとは、情けないにもほどがある。
自らの浅薄さを噛み締めながら、八手はただただ八雲の言葉に頷くより他なかったのだった。
「あの、すみません……お取り込み中のところを大変申し訳ないのですが」
そのとき。
後方から、
「い、いつからそこに?」
見れば、いつの間にやら八手の目と鼻の先に、見慣れぬ男が立っている。
いくら話し込んでいたとはいえ、この距離に近付かれるまで、気が付かないことがあろうとは――
それは側に居た八雲も同じであったようで、まるで狐狸に化かされたかのような顔つきで、呆然と男を見上げている。
「いえ、あの……見物するつもりはなかったのですが、何だかその、声を掛け辛い雰囲気だったものですから」
困ったように眉を寄せた男は、小さく苦笑いを零すと、空いたもう一方の手で、高く結い上げた黒髪をぼりぼりと掻いていた。
見上げるほどの上背を持つその男の声は呑気そのもので、身を寄せ合いながら艱苦を分かち合っていた自分と八雲の様子を、妙な方向に履き違えているようにも思われた。
こんな時に何ともまあ、すっ
さらりと一見しただけでも分かるほどの、艶のよい絹地で仕立てられた羽織や袴は、如何にも御仕着せと言わんばかりの真新しさばかりが目立っている。
――気質に余る位牌知行を押し付けられた、坊ちゃん侍。
さぞかし見世にとっては上客であることだろう。
出逢って間もない人間の
「あの、こちらに瑞雲殿はいらっしゃらないのですか? 見世の入り口は混むからとお気遣いをいただきまして、ここで待ち合わせをしていただけることになっていたのですが」
八手の予想は的外れではなかったようである。
主人と直接待ち合わせを取り付けられるような身分となると、やはり襟付きの上客である可能性が高い。すぐさま面差しを入れ替えた八手は、ぴんと背筋を張ると、未だぽかんと口を開けたままの八雲を後方へ押し遣りながら、必死にいつもの見世先の笑顔を引っ張り出そうとしていた。
「もしかして、お得意様でしょうか?」
僅かに首を傾げ、いつもよりもほんの少し高めの余所行き声とともに、八重歯を見せてにっこりと笑う。
多少の不行き届きがあったとしても、相手が男でありさえすれば、大抵はこれだけで幾分か心機を入れ替えてもらえる。
これは、愛想笑いなど死んでも御免だと常々思い込んでいた八手が、千登勢屋で商い事に精を出すうちに培ってきた処世訓であるが、時折この術をもってしても、さっぱりと手応えのない強敵も現れたりする――それが、この男だ。
「いえ、私がここに来るのは初めてですが、前々からお約束はさせていただいてたんです。それで、瑞雲殿は何処に?」
柳に風か――つまらない。
小町娘の飛び切りの笑顔に目もくれない様子でキョロキョロと四囲を見回す男を前に、思わずしかめっ面を零しそうになるのを堪え、八手は尚も愛想を振り撒き続けようとしていた。
「すみません。ちょっと病人が出て、立て込んでいるもので。ここでお待たせするのも何ですから、宜しければ奥のお座敷でお茶でも――」
「病人?」
刹那、てんで考えの読めない糸目から、男が僅かに群青色の瞳を覗かせるのが分かった。
「私は医者ですが、宜しければ診て差し上げましょうか?」
そうした途端、男の醸す風采を、いかにその締まりのない糸目が和らげていたのかということが知れる。瞼を持ち上げた男の眼光は、吹きすさぶ
「ありがとうございます。でも、もう既にお医者様はお呼びしてあって」
「そうでしたか、それなら良かった」
しかし、気が付いたときにはもう、男の殺伐とした気這は、霞の如く消え去った後であった。
気のせいだったのだろうか――あのときの心地が、白昼夢であったのかとすら思える。
ほっと安堵したように胸を撫で下ろした男は、すっかり元の呑気な糸目を取り戻していた。
「お医者様は、
その時、背後に押し込めていたはずの八雲が、今度はこちらを脇へ押し遣らんばかりの勢いで、八手に体当たりを掛けてくるのが分かった。
ああ、また始まってしまった――
ずんと頭の奥が重たくなるような感覚をおぼえた八手は、いやに熱のこもった眼差しで長身の男を見上げる八雲を、うんざり顔で見遣っていた。
八雲の両瞳にちらつくものは、憧れと羨望。
それもそのはずである――商家に生まれた彼が将来へ抱く夢は、“侍になる”こと。
いつの日かこの静賀を出て、東の隣国
「ええ。まあ一応、私の生まれは
けれど、やはりこの若侍は、八雲が憧れを抱くような“強いお侍様”ではないようである。
目の前の少年から、まるで救国の志士に対するような熱い眼差しを向けられた男の方は、困惑を露わに苦笑いを浮かべていた。
「何だ。お侍様は、みんな強いわけじゃないのか……武科では、刀を使えなくてもお侍になれるんですか?」
「ちょっと、坊ちゃん! なんて失礼なことを!」
身も凍るような心地に後押しされ、八手は考えるよりも早く、背後から回した手で、八雲の馬鹿正直な口を押さえ込もうとしていた。この期に及んでまだ“だって”と不満げにこちらを見上げる八雲は、八手の取り乱し様を目の当たりにした後も、その辛辣な言葉を飲み込む気はないようであった。
こっそりと上目に映した若侍は、気を悪くした風でもなく、相変わらずのほほんとした空気を纏ったまま、しきりに頭を掻いている。
「いやいや、いいんです。使えもしない刀を差して歩いているなんて、これほど滑稽なことはありませんからね」
すっかりむくれてしまった八雲に代わり、ぺこぺこと平謝りを繰り返す八手に、男は更に困惑を強めた様子で“気にするな”と応えてくれる。
瑞雲の商談相手といい、あの常磐の医師といい、何だか今日は朝から謝り倒してばかりいるような気がする――けれど、どの相手も、こちらの咎を一笑に付してくれるような、懐の深い人間ばかりであったことは、逆に幸運であったかもしれないと思った。
深々と息をついた八手は、再び襟を正し、目の前の“客人”を丁重にもてなそうと畏まっていた。
通用しないことが分かっていながら、無意識のうちに商売道具であるあの笑顔を持ち出そうとしてしまうのは、自分にとってはもはや、それが浮世の
「あの……それで、今日のご用向きというのは」
「ああ、いいんです。この町にはしばらく留まる心積もりでいますから、また日を改めて出直しますので。大変なときにお邪魔してしまって、申し訳ありませんでした」
そう言って深々と頭を下げた男は、くるりと踵を返し、あっさりと立ち去ろうとする。
こちらが興味を示さぬうちは逃げも隠れもしないが、いざ、ひとところに捕まえておこうと動くと、決まってそれをするりと受け流し、僅かに手の届かない場所へ逃げ込もうとする。
掴み所のない男の印象は、その品性において雲泥の差はあれど、どこかあの火天にも似ているところがあるような気がしていた。よくよく見てみれば、年の頃も近そうである。
そこまでを考えたところで、ゆるゆると口許の綻ぶ感覚に甘んじていた八手は、ようやっと我に返っていた。
――いや、そんなはずはない。この二人が似ているなどということがあろうはずもない。いきなり何を考えているのだろうか。
気が付くと、若侍の背中は、もう随分と小さくなってしまっている。追いすがるように手を伸ばした八手は、大慌てで甲声をあげていた。
「あ、ちょっと! せめてお名前を聞かせていただけませんか!」
再び吹き付けた長閑やかな流風が、男の
結い上げた黒髪を風に躍らせ、振り返った男は、微かな笑みと共に、またもあの糸目の隙間から群青の瞳を覗かせていた。
「私は
男が言い終える折を窺っていたかのように、緩やかだった風が瞬時に
思わず固く瞑った瞳を再びゆっくり開けると、空冥と名乗る男の姿は、忽然と消え去った後であった。
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