玖ノ話

「なるほど、そういう事か――救えねえな」

 激しい雷雨の逆巻く中、咽ぶほどの強烈な腐臭が漂っている。

 小さく呟きを零した空冥は、足元に横たわった、その腐臭の源泉をぼんやりと見下ろしていた。

あつかう病人やみびとを騙し、すがる弱者を騙し――あんたは、己さえも騙すのか。つくづく救えねえ」

 残夏の炎威に、雨の繁吹しぶきに、風の削剥に。

 ありとあらゆる侵蝕に蹂躙されたその亡骸はもはや、人であった頃の面影など微塵も残さず、朽ち果てている。

 枯色の骨にぶら下がった、水飴のように溶けかけたはだえ

 雅やかな葡萄染えびぞめの衣は、溶け出した脂でもって、醜悪なまだらに染められている。

「黄泉路で待ってな。お前の仇は、俺が討ってやる」

 笹薮の切れ間から墨色の迅雲を見上げた空冥は、降り荒ぶ神立に瞳を凝らすと、走り出していた。


*****


 永く降り注がれた雨風によって老い朽ち、すっかり傾きかけたあばら屋で足止めを食い始めて以来、数日の時が過ぎようとしている。

 ここで誰かに足取りを捕まれては、これまで積み重ねてきた首尾が水泡に帰してしまう。

 いつまでも収まりきらない長雨に痺れを切らしていた嵐角は、苛立ちを露わに曇天をめつけていた。

「いつまで私を降り籠めるつもりなのだ――忌々しい」

 数日前、静賀へ辿り着いた矢先、食うにも事欠く状態であった嵐角の元に一つの朗報が舞い込んできた。

『不気味な人面の瘤に憑かれた若者が居る。何でもその瘤というのは、如何なる薬、祈祷をもってしても祓うことができず、若者は日に日に痩せ細るばかり。憐れな若者の余命はもはや、幾許も残されてはいないだろう――』

 ふらふらと小見世の立ち並ぶ通りを歩いていたとき、どこからかそのような噂話が、空音のようにふわと耳に届いた。

 人面の瘤――どこかで聞いたことがある。大昔、故郷の常磐でそれと思しき書誌を流し読んだ折、取り憑いたものの内から精を喰らう、“人面疽”なるあやかしの見聞が記されていた。

 通りの至るところで噂されていた面妖な瘤の話柄は、聞けば聞くほど、その人面疽を彷彿とさせた。

 自分は、医者だ。自分は、その瘤を祓う方法を知っている。

 そう言って近付けば、件の若者の家人は、この忌むべき朱の髪を持つ自分を――常磐人である自分を受け入れるだろうか。

 旅の途中、行き倒れの抱えていた風呂敷包みを物色していた折、なけなしの路銀と、作り革の袋に包まれた医術道具の一式を見つけたことがあった。何かの役に立つこともあろうと残してあったものだが、それをちらつかせれば、或いは――

 魔が差したのだと、たった一言で片付けるにはあまりに非道であったかもしれない。

 しかし、そうでなければ自分も、遅かれ早かれ件の若者と同じ末路を辿る運命であったのだ――深々と思案する余裕など、とうに無くなっていた。

 そこから今に至るまでの首尾は、ときに薄気味悪ささえ感じるほど、すこぶる上々であった。

“治療”と称して見得を切ると、当てずっぽうが当たってしまったのか、若者は何とか動き回れる程には活力を戻してくれた。

 噂が噂を呼び、その後、間を置くことなく、嵐角の元へはまたも治療の依頼が舞い込んでくる。

 続く依頼人は、町一番の大店おおだなを構える、呉服屋の主人だ。

 これはおそらく、るか反るかの大博打。下手を打てばたちまち、この町に留まることは赦されなくなるだろう。

 ――否、元よりここに長く留まる必要などない。

 常磐人を忌み嫌う静賀の民と共に暮らすくらいならば、いっそ東の武科たけしなへ渡る方が、幾分ましというものだ。何の彼のと言いくるめて前金をせしめたら、直ちに雲隠れを決め込んで、武科へ落ち延びれば良い。

 あの常磐人の若者は、今頃どうしているだろうか。

 多少なりと小康を得ていれば良いが、もしも急事に陥っているとするならば、今頃は、斯く斯くの遁走がことごとく暴かれている頃合に違いない。

 そうなる前に、この城鉦の山を越え、武科へ渡らなくては――――

 隔靴掻痒の感を持て余しながら、嵐角は再び曇天を見上げ、ぎりぎりと爪を噛んでいた。

「すみません、軒をお借りします」

 不意に、脇から人影の走り寄ってくる気這を感じ、嵐角は大きく身を竦ませていた。

 見れば、滅紫の絹羽織をずぶ濡れにした青年が、息を弾ませてこちらを見つめている。

「気にするな、此処に住んでいるものは誰も居らぬようだ。私もただ軒を借りているだけに過ぎん」

「左様でしたか。それなら良かった」

 酷い目に遭った、と小さく愚痴を零しながら、青年は羽織からしたたる水気を懸命に搾り出そうとしている。

「いやに降りますねえ……こうも雨が続くと、気持ちも鬱々としてしまいます」

「そうだな……私も山へ入ろうと思うのだが、此度の長雨で足止めを食っているところだ」

 そう言って、予期せぬ同席者の横顔をちらと側める。

 刹那、青年の羽織の下から黒塗の二振りが覗く様を見た嵐角は、吃驚きっきょうのあまり色を失っていた。

 侍だと――?

 思わぬ足止めを食い続けてきたおかげで、募り募っていた焦燥が、胸中を激しくざわつかせているのが分かった。

 もしもこの男が、町から自分を追いかけて此処へやってきた者だとしたら?

 僅かな隙を狙い、こちらへ斬りかかろうと手をこまねいているのだとすれば、一分の油断も許されぬではないか。

 しかしながら、商人の町である静賀に、侍が暮らしているなどという話は聞いたことがない。

 おそらくこの男は、武科の侍と見て間違いはないだろう。そして武科の侍は、主人の許しを得ることなく、私闘のために刀を振るうことはご法度とされているはず。

 少なくとも、ここで唐突に斬り捨てられることはない。

 恐れるな。

 恐れるな。

「嵐角殿」

「な、何だ」

 思案に耽るあまり、覚えず口走ってしまったその言葉に息を呑む。

 何故軽はずみに返答してしまったのか――“自分はそのような名ではない”と、白を切れば済む話であったのに。

 気がつくと嵐角は、動揺を露わにぎょろぎょろと瞳を動かし、にこやかな笑みを浮かべる青年の様子を、何度も見遣っていた。

「やはり貴方が嵐角殿でしたか。噂に聞いた御顔立ちとそっくりだったので、間違いないと思っていました。貴方が城鉦山へ入ろうとなさっているのは、これを探しておられるからではありませんか?」

 そう言って、青年が風呂敷包みの中からそっと取り出したものは、焦茶色をした桜皮の茶筒であった。

 当然の如く、自分にその茶筒の中身を想像することなど出来ようはずもなく、嵐角はただ怪訝げに、静やかな光沢を放つその茶筒と、青年の笑顔とを見比べる以外に術をもたなかった。

「これは“貝母ばいも”をもとに、私が調合した薬。先生のことですから、皆まで言わずとももうお分かりでしょうが――人面疽を駆除するための特効薬です。ここ城鉦山には、この薬の原料となる植物が自生していますから」

 ふと、頭の中が白一面に塗りこめられたような気分になる。

 あまりに予想だにしない言葉を聞いたせいか、青年の意図をすぐに解することが出来ない。

 しばし逡巡したのち、ようやくどうにか青年の言葉の上っ面を飲み込めた嵐角は、口許だけを引き攣らせてぎこちない笑みを作ると、冷や汗を拭っていた。

「お……おお、おお! そうであったか! もしや其方、私のためにその薬を?」

「ええ、そうです。私も一応のところ、医者の端くれでして。貴方の手でこの薬を患者のところへ届けて頂きたくて、こうしてお持ちしたのです」

 何のつもりだ?

 この男、一体何を考えている?

 お前が正真正銘の医者だと言うのなら、わざわざ自分などに声を掛けずとも、己自身でこの薬を届ければ良いではないか。

 何より、そうでなくては報酬を受け取ることも出来ず、せっかく薬を調合した手間が徒労に終わってしまう。

 出鱈目を言っているのか――それともこの男、利益を顧みることなく、本気で患者の身を案じているとでも言うのか。

 考えれば考えるほど、何もかもが不可解な心地がする。

 差し出された茶筒を、ちらと瞳だけを動かして見遣った嵐角は、ごくりと唾を飲み込んでいた。

「早くこの薬を届けてやってください。患者の家のものたちは、先生がここで貝母の原料探しをされていることを知りませんから、貴方のことを“雲隠れしたのではないか”と勘繰って、大騒ぎしていますよ」

「しかし、其方は何故これを私に? 其方がこの薬を届ければ、手柄は其方のものとなるはずでは……」

「千登勢屋のものたちは今、深い疑心暗鬼に陥っているようです。実は一度患者のところへこの薬を持って行ったのですが、お前のような青二才の言葉など信じられるかと、どなたも取り合ってくださらなかったので――ここはご高名な先生のお力添えをいただこうと、ずっとお探ししていたのです」

 邪気のない笑みを浮かべた青年は、狼狽する嵐角の掌に、半ば無理矢理押し付けるようにして茶筒を握らせると、満足そうに何度も頷いていた。

 一考の価値はある。

 それどころかこれは、一攫千金の好機であるとさえ言えるのではないか。うまく立ち回りさえすれば、今この懐に収まっているものなど、はした金と言ってしまえるほどの大金が手に入るかもしれない。

 しかし、相応の危険は付きまとう。

 しくじれば一巻の終わり。そうなればおそらく、もう逃げ場などありはしないだろう。

 ――どうする?

 掴まされた茶筒を仕舞おうとした折、引き上げた襟の内側を側めると、本紫ほんむらさきの巾着の中から、ちらりと山吹の光が顔を出すのが見えた。

 何を迷っている?

 たった幾日生きられるだけの金を手に入れたところで、何の意味もない。

 またその幾日かが過ぎれば、死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされるのは目に見えている。

 これで終わりにしよう。

 屍肉を喰らう鴉のような生き様に、見切りをつけよう。

 まるで憑き物が落ちたかのように、両の肩に圧し掛かっていた重みがふわりと遠のくのを感じる。柔らかく笑みを浮かべた嵐角は、目の前の青年に深々とこうべを垂れていた。

「いや、本当に助かった。其方の気高い志には幾ら感謝しても足りないところだ」

「いえ、そのような……一人でも多くの患者の命を救うことが、医師の務めですから。それでは、私は所用がありますので、この辺りで――」

 覚束ない手つきで風呂敷包みを体に巻き直していた青年は、照れ臭そうに頬を掻くと、こちらに倣うようにぺこりと頭を下げた。

 刹那のこと。

 おそらく、巻きが甘かったのだろう――薬の調合に使っていたと思われる小さなすり鉢のようなものが、青年の風呂敷包みの中からぽろりと転げ落ちていた。

 小さく悲鳴を漏らした青年は、鉢を受け止めようと必死に手を伸ばしたのだが、難なくするりとその細い手をかわした鉢は、無常にも足元に落ちていた石ころに叩きつけられ、真っ二つに砕かれてしまう。

 嵐角はそれをすかさず拾い上げようとしたのだが、指先に鋭い痛みが走り抜けるのを感じ、一度は拾い上げたその鉢の残骸を、またも地の上に転がしてしまっていた。

「も、申し訳ありません――私の不注意で、お怪我を」

 青年の言葉を受けて指先を確かめてみると、人差し指の腹辺りには、ぱっくりと血の筋が走っていた。

「なに、こんな傷など舐めておけば治る。それよりも薬はしかと受け取ったぞ。後は私に任せよ」

 思いも寄らず訪れた好機に高揚しているせいなのか――青ざめた様子であたふたとする青年に向かって、嵐角はくしゃりと相好を崩し、満面の笑みでもって応えていた。

 そそくさと広げた風呂敷包みに、少々大掴みな様子で鉢の欠片を載せた青年は、今度は間違いのないようにと、細長く巻いた包みを、厳重な手つきで体に巻き直そうとしていた。

 その半途、何かを思い出したように顔を上げた青年は、野狐のような吊目でこちらを見上げてくる。

「あ……最後にあと一つだけ。貝母を患者に飲ませる際は、くれぐれもお一人で。宿主である患者も、人面疽とともに酷く苦しみます。その姿を身内のものに見せるのは、あまりに忍びないですから」

 どうにもこの若者は、鈍臭さに輪を掛けて心配性のようである。

 一丁前にいかつい刀を佩いているせいで、一時は殺伐とした気這さえ感じていたような気もするが、よくよく見てみれば、華奢で気弱げな、何とも人の好さそうな男ではないかと思う。大方、裕福な侍家に生まれた、世間知らずの学者侍といったところだろうか。

「分かっておる。言っておくが、私はまだ其方に手ほどきを受けねばならぬほど耄碌もうろくしてはおらんぞ? まあ、歳若い其方から見れば、爺同然であることには違いないが」

「こ、これは失礼しました――どうか、お気をつけて」

「うむ。私もすぐに仕度をして、先の呉服屋に向かおう。其方も、達者でな」

 ここはどうにか差し障りのない程度に、老熟した“ご高名な先生”を演じておけば、やり過ごせるに違いない。

 がははと大きく笑った自分に、青年は小さな会釈を添え、ばつの悪そうな苦笑いを零していた。

 そして、あばら屋の奥へ引き返そうと、嵐角がくるりと踵を返した折、重く念を押すような調子で、再び青年がこちらに向かって何やら囁きかけてくるのが分かった。

「どうか、くれぐれもお気をつけて」

 刹那、背筋を氷の塊が通り抜けたような感覚をおぼえていた。

 弾かれたように振り返ったそこに、の静やかな青年の姿は、どこにもなくなっていた。

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