伍ノ話
「坊ちゃん、いけませんよ! 火天は今日、旦那様から
満面朱をそそぐ、とはこのようなことを言うのかもしれないと思った。
鏡を見たわけでもなく、人から指摘を受けたわけでもないが、兎にも角にも目許耳許、頭のそこかしこが熱くて仕方がない。その総てが、あの男への憤りによるものであることは分かっていた。
「うるさいな、僕は怒ってるんだ! 火天の奴、僕のことを子供だと思って馬鹿にして――」
鬱積した感情を吐き出すように雷声を上げながら、ずかずかと惜しげもなく足音を響かせて、八雲は軋めく
わたわたと慌て調子で自分を宥めすかそうとする八手の追走を振り切り、八雲は雇い人の寝床の襖をぴしゃりと開け放っていた。
数日前まで物置として使われていたそこには、つんと鼻孔を突き抜けるような樟脳(※1)の香りが立ち込めている。
千登勢屋の雇い人たちは皆、だだっ広い大部屋に数人で枕を並べて寝起きをしているが、この部屋の使用者は、今のところたった一人だ。
それもそのはず、彼が寝起きをしているそこは、部屋と呼ぶには少々――否、かなりの度合いで忍びない、“押入れ”と呼ぶべき場所だったからである。
しかしながらこの押入れ部屋の主は、“雨風が凌げるなら何処だろうと充分。それに、男と枕を並べて寝るくらいなら、押入れで寝た方がましだ”と、日ごと満足そうに寝起きをしていたから、さしたる問題もないようなのだが。
押入れの二段目を隙間無く埋め尽くすように敷かれた一組の布団は、朝四つ時(※2)を過ぎた今も、ぷっくりと膨らんだその腹の中に、獲物を抱え込んだままでいるようだった。
掛け布団の隙間から覗く燃え髪を目に入れた八雲は、先にも増して両目を三角に吊り上げ、烈火の如く怒声を上げていた。
「火天、起きろ! よくも僕を謀ったな!」
「何だよ、朝っぱらからうるせえな……」
彼の普段の派手な身なりと比べると、地味すぎるほど地味な
しかし、たったのそれだけで、以来うんともすんとも言わなくなってしまった滅紫は、深い浮き沈みを繰り返しながら、見る間に再びすやすやと寝息を立て始めていた。
「起きろって言ってるだろ! もう昼前だぞ!」
再び体の隅々までが、煮え湯の如く沸き立つ感覚を覚えた八雲は、側でただおろおろとする八手には目もくれず、力の限りに声を散らして、火天の掛け布団を引っ剥がしていた。
「あの刀、竹光だったなんて聞いてないぞ! おかげで僕は昨日、酷い目に遭ったんだ!」
「阿呆か……お前みてえな子供に真剣なんぞ渡したら、危なっかしくて仕方ねえだろうが。あれは、金に困って仕方なく刀を質入れしたとき、格好付けるために持ってたやつだよ。金が工面出来て刀が戻ってきたんで、要らなくなったからお前にやっただけのことだ」
心底気だるそうな重々しい
「僕は子供じゃない! 火天だってそう変わらない歳のくせに!」
「お前、いくつだ」
「九つだ!」
「正真正銘の餓鬼じゃねえかよ――俺は十六、立派な大人だ。どこが“変わらない歳”だってんだよ、全く」
話すうち、ようやっとお目当ての掛け布団を探し当てた火天は、首の辺りまでを再びすっぽりと滅紫で覆うと、いかにも大儀そうに長嘆息を漏らし、くるりとこちらに向かって寝返りを打ってくる。
「とにかく俺は今日、調子が悪いんだ。お前はこんなとこに居ねえで、また表で猿と追いかけっこでもしてろ。但し、俺がいいと言うまでは、あの山には近付くな。迷子になったお前をいちいち捜しに行くのは面倒だからな」
「ぼ、僕は迷子になってたわけじゃないぞ!」
思わず噛み付くように言い返しはしてみたものの、実際のところ八雲は、振り返った火天のあまりに異状な様子に酷く驚嘆し、言葉を失いかけていた。本人の言う通り――否、本人の言う以上に、火天の
やや褐色に近い色合いをしていた健康的な
兎にも角にも今の火天は、昨日までの彼と同じ人間であるのかということすら疑わしくなるほど、すっかり生気を失い、弱りきってしまっていたのである。
がちがちと小刻みに歯を鳴らしながら戦慄する火天を見ていると、今が残暑の厳しい折節であることも忘れてしまいそうになる。思えばこの暑さの中、締め切った押入れの中で、頭から布団を被って寝ていること自体が甚だしく異状だと、もっと早くに勘付くべきであったかもしれない。
「――ふん、火天の奴はきっと、僕を騙した所為であの蛍のお化けの祟りにあったんだ」
けれど、ひとたび
「蛍の、お化け?」
誰かにそれを聞いてほしいと思っていたわけでもなかったのだが、意外にも八雲の逃げ口上に食いついてきたのは、傍らに佇んでいた八手であった。火天の方はというと、明後日の方角を見つめたままぼんやりと酔眼を泳がせるばかりで、話を聞いているのかどうかさえ怪しい状態だ。
もしかすると、何か厄介な流行病にでもかかっているのでは――
もやもやと胸を煽られる感覚を持て余しながら、八雲は八手と火天とを交互に見遣り、昨晩の怪異の一部始終を思い起こそうとしていた。
「そうだよ。僕は昨日、口から蛍火を吐き出す妖を見たんだ。せっかくやっつけてやろうと思ったのに、火天にもらった刀が偽物だったおかげで、酷い目に遭って――」
明らかに心当たり有、といった様相で、八手が水浅葱の
しばし口許に手を当て、八手は何やら真剣な面持ちで思索を巡らせていたようなのだが、ごくりと生唾を飲み込む音を響かせたかと思うと、彼女はこちらに向かって耳打ちをするように顔を近づけ、ぽつりぽつりと言葉を零し始めていた。
「蛍火に似た光なら、ゆうべあたしも火天も見ましたよ。でもあれが妖の内から現れた光だったなんて――その妖ってのは、どんな姿をしてたんですか?」
「えっと、何かこう――人の顔のような、
そこまでを言ったところで、ぼと、という重たい音とともに、何かが足元に落ちたような感覚があり、八雲は思わず大きく身を竦ませていた。
――なんだ、枕か。
寝返りを打った折に、落としてしまったのだろう。八雲の足元に転がっていたのは、箱枕を嫌った火天が何処からか持ち出してきた、古めかしい括り枕(※3)のようであった。
火天の着物によく似た、風変わりな
「あーあ、破けてるじゃないか。八手……これ、すぐに直してやってくれ」
床に散らばった蕎麦殻を拾い集め、そっと枕の中に戻してやった八雲は、今度は零さないようにと枕の穴を捻るようにぎゅっと掴むと、傍らに佇む八手に向かってそれを差し出していた。
「八手?」
しかし八手は、何故だかそれを一向に受け取ろうとしない。
それどころか彼女は、こちらの様子には目もくれずに、驚き入った様子で押入れ部屋の火天をじっと見つめているようであった。
弾かれたように体が動き、八雲は八手の視線の先を手繰ろうと振り返る。
刹那、胸の真ん中を鷲掴みにされるような強い圧迫感があり、その後すぐにざわざわと、臓腑の隙間を何かが蠢めいているような感覚が走り抜けていた。
振り返った先にあったもの――八手が息を呑んで見つめていたものは、うつ伏せの状態で僅かにこちらへ顔を傾け、虚ろな目を泳がせながら、浅い呼吸を繰り返す火天の姿――と、それだけではなかったのである。
「こ、これは――!」
押入れの淵から、だらりと投げ出された火天の腕。
手首をぐるりと囲むように刻まれた瑠璃色の刺青のすぐ側に、八雲は“それ”を見つけてしまっていた。
腫れぼったい瞼に嵌まった、黄ばんだ色の眼球。小さな鼻の下の、
よう、また逢ったな――
狂った獣のように喚叫を始めた人面の瘤が、そう言って嗤ったような気がしていた。
「八手、父さんを呼んで来てくれ!」
「は、はい!」
再び八雲が雷声を轟かせると、はっと我に返った八手は父の名を呼びながら、血相を変えた様子で、元来た階を駆け下りて行った。
只事ではない気配を嗅ぎ取ったのだろうか。廊下の方から怪訝そうにこちらを窺う使用人たちの姿もちらほらと見え始め、
「火天、しっかりしろ! 火天!」
もはや火天は、すっかり虫の息となってしまっている。
すがり付くように火天の肩を揺らした八雲は、ただ必死に声をあげていた。
※1 樟脳=衣類を保管しておくときに使用する防虫剤。
※2 朝四つ時=巳の刻。十時頃。ちなみに、一刻は約二時間。
※3 括り枕=箱枕が普及する前に使用されていた、綿や蕎麦殻、茶殻などを入れた円筒型の枕。現代で使われている枕に近い形状。
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