肆ノ話
「坊ちゃん、大丈夫かな――倒れたときに、頭を打ったりしてなきゃいいんだけど」
火天の背に負われた八雲の顔色は、蒼白であった。
山道の真ん中で、いつもより数段と激しく、袴の白地に泥染みを躍らせて突っ伏した八雲を見つけたときには、生きた空もないほど背筋の寒くなる思いがしたものだが、見たところ八雲は酷い怪我を負っているわけでもなく、熱に浮かされているわけでもないようであった。
八手の眼前では、柔らかな朱色の光を湛えた吊下げ提灯がゆらゆらと踊っている。
予期せぬ変事ばかりが起きたせいで、陽の目を――とはいえ、今はもうすっかり小夜中ではあるのだが――見せてやる機会など訪れないものと思っていたが、さんざ走り回っていたおかげで、少しばかり
これでようやく帰路につくことが出来る。
ひとまず八手はほっと胸を撫で下ろしていた。
「こいつ、倒れたって言うよりは道の真ん中で寝てただけなんじゃねえのか。顔色は少しばかり良くねえ気もするが、こいつの肌の生っちろいのは、元々のことだったろ。俺にはただ寝入ってるようにしか見えねえけどな」
少し大掴みが過ぎるような気はするものの、言われてみれば、火天の言う通りかもしれない。
事の真相を確かめようと、八手がそっと提灯の明かりを近づけてやると、八雲は、朝陽を
その何ともあどけない様子に頬を緩ませた八手は、“鬱陶しい”と身も蓋も無い御咎めを零した火天の仏頂面を気にするでもなく、浮かれ調子で鼻歌を響かせ、薄闇の下り坂を弾むように歩いていった。
「こいつよりも俺の方がよっぽど満身創痍だっての。斬られた跡も痛えし、鬼道を使ったおかげでヘトヘトにはなるし……何より、お前に殴られた横っ面がジンジン疼いてるし」
目的を果たすことが出来た高揚感で、気分が上擦っているのだろうか。ぶつくさと不平ばかりを垂れ流す火天の言動も、何故だか今は気にならない。それどころか、両手が塞がっているお陰で、悪態をつく以外に返し業のない火天をからかってやりたくなる気持ちが、むくむくと湧き起こってくるのを感じる。
「うるさい男だね、あんたは。そうやって無駄口ばっか叩いてるから、すぐに疲れちまうんだろ」
したり笑顔とともに、ひらりひらりと提灯の明かりをちらつかせてやると、しかめっ面を浮かべていた火天は、思った通りすぐに不機嫌さを浮き彫りにし始め、苛付き顔を隠そうともせずに悪態をつき始める。
「覚えてろよ、この阿婆擦れ……恩人を殴り飛ばしといて、何なんだその言い草は! だいたい、何でも言うこと聞くっつったの、お前じゃねえかよ」
「それは――」
刹那のこと。
後方から吹き付けた湿深い
弾かれたように背後を振り返った八手の目には、薄らぼんやりと輝く小さな光の塊が、笹林の切れ間から次々と生まれ出でる様が映っていた。
「変なの。こんな時期に蛍が飛んでるなんて――」
そういえば、暴漢たちに追われていたあの時も、これとよく似た光を見かけたような気がする。
急迫しすぎていたおかげですっかり忘れていたが、今になって思えば、何とも奇々妙々な光景ではないかと思えた。
「――――蛍?」
「そうだよ。あんたまさか、蛍を見たことないなんてことは無いよね?」
ぽつり。
ぽつり。
次々と現れる蛍火たちは、闇の中を滑るように飛びながら、軽やかに鮮やかに、八手の脇をすり抜けていく。
それにしても、風変わりな蛍も居たものだ。
蛍に限らず蟲というものは、光に群がる習性があったはず。ところが、現れた蛍火たちは、八手の手元で揺れる提灯明かりを易々と通り過ぎ、何故だか、明かりを持っていないはずの火天の周囲にばかり寄り集まって、ふわふわと群れを成していたのである。
「蛍ってのはあれだろ、夏の初めに水場の近くに飛んでる、光る蟲のことだろ?」
はたと足を止めた火天は、寄り集まる光の群れを怪訝げに見つめている。
瞳だけを動かし、負ぶさった八雲を庇うようにしながら
特別な力など何も持っていない自分にその真意を知る術などないが、もしかすると彼は、彼にしか持ち得ない不思議な感覚でもって、あの光の
――待てよ。
ざわ、と、胸のどこかで異物が蠢くような心地がしていた。
先ほどからも繰り返していることだが、蛍というのは“蟲”であるはず。
とかく八手は、蟲と名の付く気味の悪い生き物が大嫌いである。
何故なら、蟲というものはどれもこれも皆、武者の鎧兜のような外相を纏った、おどろおどろしい風体の生き物であるからだ。
だのに、この蛍火には――
「これはどう考えても蟲なんかじゃねえ。よく見てみろよ、飛んでるのは光だけじゃねえか? 俺には蟲ってより、何だか鬼火みてえにしか――」
ばさ、と足元から、乾いた音が昇ってくる。
それが、手にしていた吊下げ提灯を、砂利道の上に思い切り転がしてしまった音だと気付いた時にはもう、八手は無我夢中で火天の胸元に飛びついた後であった。
気恥ずかしいだの、決まりが悪いだのと言っている場合ではない。
怪しげな蛍火をまっすぐに見る余裕など、もうなくなっていた。
かといって、再び瞼を開けた折、もしも自分が見たことも無い場所に放り出されていたらと考えると、瞼の中の総てを真闇の奥に沈めてしまう勇気も起こってこなかった。
覆いの上面を舐めるように炎が走り、足元の明かりは見る間に燃え尽きてしまう。
その折も折、灯花に残された
「八手、走るぞ」
背に負っていた八雲を軽々と肩に担ぎ上げた火天は、空いた手の平で八手の腕を強く掴むと、駆け出していた。
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