参ノ話

「――八手やつで?」

 こちらの剣呑とした息遣いを聞き取ったのか、吃驚のあまり叫び声ひとつ上げなかったにも関わらず、火天はすぐに、羽交い絞めにされた八手の方を振り返っていた。

「あ、火天あぐに――」

「動くな! それ以上近付くと、この女の喉笛を掻き斬ってやるぜ!」

 血気に逸った様子で、手の中の鈍色を八手の喉元に押し当てた男は、髑髏しゃれこうべの一撃をお見舞いされ、真っ先に伸びていた刀傷の男だ。男の手は異様なほどがくがくと震えていて、たとえ当人にその意思がなくとも、何かの拍子に手元が狂おうものなら、易々とこの喉を裂いてしまうのではないかと思えた。

 再び言い知れぬ不安に駆られた八手は、瞬きすら惜しみながら、瞳だけをぎょろぎょろと動かして、男のおとがいと火天の面差しとを、交互に見比べていた。

「てめえ、そんなことして何になるんだ? 俺たちがここを立ち去るまで大人しく狸寝入りを決めこんでりゃ、それで済んだ話じゃねえかよ。そこまでしてその“ちんくしゃ”とやりたいってのか?」

「だ……誰が狆くしゃだ、お前は木偶の坊のくせに!」

 己を取り巻く状況が、胸の痛むほどぴりぴりと張り詰めていることは重々理解していたが、“千登勢屋の看板娘”とまで言われた小町娘を捕まえて“狆くしゃ”よばわりとは、ふざけるにもほどがある――八手は思わず我を忘れてまなじりを吊り上げてしまっていた。

 当の火天は、苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を浮かべてこちらをめつけている。その造作と言ったら、ものの数瞬で、疼く拳を抑えることに苦痛を感じてしまうほど、憎らしい面構えであった。

 百歩譲って、張り詰めた空気を彼なりに揉みほぐそうとしているつもりであった、と考えてみたとする。少なくとも、本気で怒っているわけではないと思いたいが、出逢って僅か数日の人間の考えていることなど、解りようはずもない。

 再び固唾を飲んで目の前の男二人の動向を見守っていると、最初に膠着を破ったのは火天の方であった。

 黒い三白眼を重たく座らせ、朱塗りの刀を肩に担いだまま、火天はそれこそ町を当て所もなく闊歩するかのように、躊躇することなくふらりふらりと近付いてくる。その様相は、見ているこちらがはらはらとしてしまうほど、無警戒も甚だしいものであった。

「動くなって言ってんだろうが! この女が殺られちまってもいいってのかよ!」

 刀傷の男は、信じられないようなものを見るような目遣いで火天を見つめている。顔色ひとつ変えぬまま、ゆっくりと歩を進める火天を牽制しようとしているのか、男は骨の軋むほど八手の体を締め上げ、隔靴掻痒とまくしたてていた。

「別に。好きにすりゃあいいんじゃねえのか」

 短く放たれた火天の言葉を、八手はすぐに受け入れることができなかった。

 ほんの一瞬、天と地がひっくり返るような激しい目眩に襲われたのは、締め上げられた体が悲鳴をあげているせいだけではないはずだ。

 よもや生きた人間の口から、そのような言葉が飛び出すことがあるのだろうかと、八手はひたすらに耳を疑っていた。

「ちょっと何言ってんのさ! あんた、この男の言ってることが――」

「ちょっと待てっての! この女、お前の女じゃねえのかよ!」

 途端にこみ上げてきたのは憤りばかりで、それはどうやら、敵であるはずの刀傷の男も同じであったらしい。

 憤る八手に便乗するようにして声をあげた暴漢は、それでも歩みを止めようとしない火天の様子を目にすると、狼狽したようによろよろと数歩後退っていた。

「違うね。確かに俺はさっきまでそいつと一緒に居たが、そいつは俺の側から勝手に居なくなったんだ。さっきまで、さんざ俺と一緒に歩くのは嫌だと抜かしてやがったくせに、都合のいいときだけ使おうとしやがって――そんなうざってえ女がどうなろうと、俺には知ったこっちゃねえよ」

「そりゃああんたが、こいつらと同じことをあたしにしようとしたからじゃないか!」

 こんな男にいっときでも頼ろうと考えた自分が馬鹿だったかもしれない――

 ふんと鼻を鳴らした八手は、一歩も譲らずにその睥睨へいげいを撥ね付けようとしていた。

 確かにこんなにも昏い山の中を女一人で歩き回ろうとしたことは、この上なく無謀だったかもしれない。けれど、最初に非があったのは向こうで、何事もなく目的を果たすことさえ出来れば、このような目に遭うこともなかったはずではないか。

 はなからろくすっぽ話をすることもなく、一方的にあの男を毛嫌いしていたことも、良くなかったとは思っている。けれど、こうしていつまでもあの男との間に深い堀溝が存在したままになっているのは、あの男の気質が想像したものと幾らも変わらなかったせいではないか。

 八手の切り返しを受けた火天は、いかにも不愉快そうに眉を吊り上げ、何やら言いたげに口許をへの字に曲げてこちらを見ていた。

「お前、こんな奴らと俺を一緒にするってのか……ああ、もうやめだやめだ。さすがに女一人で何かあっちゃいけねえと思って戻ってきてやったのに、すっかり白けちまった。おい、お前。やるなら好きにしな」

「ちょ、ちょっと!」

 この期に及んで、自分にも良心はあったと言い張りたいのだろうか。

 拗ねたようにそっぽを向いた火天は、あっさりと踵を返し、元来た道を再び辿ろうとし始める。

 どうすれば良かったと言うのだろうか。

 このままあの男に好き勝手に振る舞われ続けるのも御免だが、ここに置き去られてしまうよりはまだましであると思いたい。そんなことよりもまず、今更引き留めたところで、あの男は素直に自分のもとへなど戻って来てくれるのだろうか。

 次々と降っては湧いてくる思いに煩悶していると、腕の力をほんのりと緩めた刀傷の男が、眉を曇らせてこちらを覗き込んでいるのが分かった。

「お前見てたら、何か気の毒に思えてきたぜ……とりあえず今日のところは、大人しく俺についてこねえか?」

「何であんたに同情されなきゃなんないのさ! そんなの嫌に決まってんだろ!」

 もはやこれでは、どちらが敵であったのかということすら分からなくなってしまっているではないか。

 しかし心のどこかでは、この刀傷の男を供につけた方が、随分ましなのではないかと考えて始めていたことは事実だ。

 思いがけないところから差し伸べられた憂慮に激しい心のぐらつきを感じながらも、八手は激しくかぶりを振って、その何とも言い表せぬ感情を否定しようとしていた。

「でも俺、あいつよりはまだ自分のこと、ましな人間だと思えるけどな……」

「そ、そんなことあるわけない――たぶん」

「じゃあ、俺とあいつとで、あいつの方がましだってとこ、言ってみろよ」

 言われてすぐに思いついたことはあったのだが、それはあまりに度が過ぎるほど底浅い答えで、とても素直に話す気にはなれなかった。

「えっと――」

 しかしながら、どれほど考えたところで他に思い当たる節もなく、結局思索を一巡させた八手は、仕方なくそれを口に出してしまっていた。

「顔」

「何だよ、結局顔かよ……ちくしょう」

 落胆したように深く肩を落とした男は、大きく溜め息をついていた。

「じゃあな、八手。俺は一人で八雲を見つけて帰ってやるよ。お前はお前で、せいぜい楽しんできな」

 もはや火天の姿は、力いっぱい目を凝らさなくては、頭の横で手を振っていることも分からないほどに遠ざかってしまっている。

 篝火の如き紅の髪が、夜闇の漆黒に溶け消えてしまうまでの時間は、おそらくもう幾許もない。

 やれるだけのことはもうやってきたはずだ。自分ひとりの力でどうにもならないものを、いつまでも意地を張り続けたところで、意味があるはずもない。

 もう、どうにでもなっちまえばいい。

 自尊心さえ捨ててしまえばもう、怖いものなど何もないから。

 儘よ、と腹を括った八手は、再び声を限りに叫びを上げていた。

「待って、火天! あたしを助けてくれたら、後から何でも言うこと聞くから! もう勝手なこと言ったりしないから!」

 八手の叫びを聞いた途端、それまで一度も立ち止まることなく歩き続けていた火天の足が、まるで石の塊にでも変じてしまったかのように、ぴたりと動きを止める。

「何だって? こっからじゃ遠くて、よく聞こえねえな」

 そんなはずはない、ということは、さしたる熟思がなくとも理解が出来ていた。

 聞き漏らしをしていたものが、あのようにしたり顔を浮かべて嗤う用などどこにもないはずである。

 悠然とこちらを振り返った火天は、もう一度言ってみろ、と言わんばかりに耳元でひらひらと手を動かし、煽るような目遣いで八手をちらと側めていた。

 ――なんて厭な男だろう。

 その小癪な面構えそのものは決して気持ちの良いものではなかったが、ものは考えようかもしれない。

 あの男の中に、この詮方無い状況を落着させられるだけの根拠があるのだとすれば、これ以上頼もしいことも他にないではないか。

「あたしを助けてくれたら、あんたの言うこと何でも聞いてあげるから! だからあたしを助けておくれよ!」

 今一度腹を括った八手は、滾る抗い心を拳で握り潰し、喚叫していた。

「言ったな、八手――――忘れんなよ」

 顎先の無精髭を撫で付け、にんまりとほくそ笑んだ火天は、朱塗りの刀を突き付けるようにこちらへ向けると、静かに目を閉じていた。

『ウフイ・ウフイ・タヌクランエ・ウフイ エク・エク・カムイフチ タヌクランエ・エシカ』

 それは、何ともくすばしく、何とも怪訝な――それでいて、どこかわらべ歌を思わせるような、とても懐かしい気這けわいを纏った言葉ことのはであった。

 すると途端に、夏の夜の茹だるようないきれとは違った、体の奥の魂魄までもをじりじりと焦がすような熱波が、螺旋の渦をぐるぐると描いて火天の四囲に凝集し始める。

「行け、火蜥蜴アペハラム!」

 続けざまに火天がその勇声を轟かせると、逆巻く熱風の渦を駆けのぼるように、紅蓮の炎が舞い上がる。

 気が付けば火天の頭上には、燃え盛る炎の衣を纏い、紅雨の如く火の粉を散らす有翼の蜥蜴が姿を現していた。

「そうか、あの真っ赤な髪――あいつまさか、常磐人ときわびと――――」

 男のどもり声を掻き消すかのごとく、金切り声のような火蜥蜴の咆哮が響き渡る。

 それを皮切りに、地表すれすれの位置にまで急降下した火蜥蜴は、紅の尾を引きながら、電光石火のきおいで突進を始めていた。

「じょ、冗談じゃねえ! 丸焼けは御免だ!」

 ひい、と一際甲高い裏声をあげたのと同時に、刀傷の男は、すっかり硬直していた八手を思い切り突き飛ばしていた。けれども、その“思い切り”が功を奏してくれたおかげで、八手は火蜥蜴の燃え盛る顎門あぎとから、まんまと逃げ果せることが出来ていたのである。

 地面を這い蹲らんばかりの屁っ放り腰で駆け出した男は、火蜥蜴の体当たりを何とかやり過ごすと、すぐさま体勢を立て直し、そのまま脱兎の勢いで、一目散に闇の中へと消えていった。

 しばしの間、遥か彼方を飛び交う怪し火の紅蓮が翻るたび、夜のしじまに男の悲鳴がこだましていたのだが、やがて炎も見えなくなると、城鉦の山道にはすっかり、もとの静けさが戻ってきていた。

 火天の披露した、この世のものとは思えぬ不可思議な術――あれはおそらく、静賀の西に緑溢れる肥沃な大地を横たえた、“常磐国ときわのくに”の民の持つ不思議な力だ。

 紅の髪に、異俗の紋様をあしらった着物。その出で立ちからして、火天の生まれが常磐国であるということにはおおよそ予測がつけられていたのだが、まさか彼が“鬼道きどう”を操る力を持っていたとは――音に聞こえた話でしかないが、常磐人の持つ“神通力”とも言えるその不思議な力は、大半において、女のみにしか宿らぬ力なのだという。万に一つ、その神通力を持った男子おのこが生まれたときには、それだけで国の中枢に召し抱えられるほどの大事なのだと聞いたことがある。

 俄かには信じがたい話だが、この火天という男にも、その神通力が備わっていることは確かなようである。だとすれば、立身出世を約束された身でありながら、この男は一体、こんなところで何をやっているというのだろうか――

 たった数瞬の間に、いろんなことが起こりすぎている。

 山道の脇にへたりこんだままぼんやりと火天を見つめていた八手は、目の前で起こった顛末を如何せん噛みしだくことができず、じっと黙ったままひたすら混乱していた。

 それ故のことなのか、八手は道の奥に突っ立った火天が、弥次郎兵衛のようにふらふらと両肩を揺らしていることにも全く気が付けてはいなかったのである。

 どすん、と鈍く重い音が響いたことで、八手はようやっと火天に訪れた変調を汲み取ることが出来ていた。

「火天?」

 力なくその場に片膝をついた火天の困憊こんぱい振りは著しく、杖代わりに地面に突き立てた刀に寄りかかることで、どうにかこうにか倒れ込むのを免れたと言わんばかりの様子であった。

 滝のような汗を流しながら、激しく両肩を上下させる火天を目の当たりにした八手は、慌てて立ち上がると、すぐさまそこへ駆け寄っていた。


 ――静けさのせいだろうか。琴線を爪弾く音に似た、甲高い耳鳴が響いている。

 耳鳴が大きくなっていくにつれ、それまでずっと規則正しい間隔で耳に届いていた息差しの音が、徐々に遠のいていくのが分かった。

「だ、大丈夫かい?」

 不安に駆られた八手は思わず、安らかな面持ちで瞳を閉じたままの火天に、声を掛けていた。

 八手の膝上に頭を乗せた火天は、いかにも気だるげな様子で、うっすらと片目を開けてこちらを見上げたのだが、数瞬とたたぬうちにまた、まどろみに落ちていくようにゆっくりと閉眼してしまっていた。

「んな訳ねえだろ……あの術はここぞって時の必殺技だぞ。俺の場合はちゃんと順を踏まえて習ったわけじゃねえから、あれをやると大概気力を使い果たしちまうんだ。しばらく休ませてくれ。でないと、もう動けねえ……」

 安らかだった表情がほんの僅かに強張りを見せる。細く鋭い眉を寄せた火天は、またも苦しそうに息を荒げ、途切れ途切れに言葉を繋いでいた。

 汗を拭おうとしたのか、火天は瑠璃色の刺青を刻んだ腕をゆっくりと持ち上げ、びっしょりと塗れてしまった前髪を乱暴な手付きで掻き分けようとする。

 火天の腕に刻まれた風変わりな刺青は、その奇抜な色合いもさることながら、殊更目を引く物珍しい紋様を宿している。けれど、それよりも何よりも八手の目を引いたのは、その刺青の側に刻まれた、真新しい刀傷であった。

 これは、先ほど笹薮の中から現れた暴漢と斬り合った折に、付けられてしまったものなのだろうか。

 よもやこの男が、体を張ってまで自分を救おうとしてくれるとは思ってもみなかった。

 もしかすると、火天が自分を置き去るような言動をみせたのは、本人なりに何か考えがあってのことだったかもしれないのに、と今更ながらほぞを噛むような思いが湧き起こってくる。

 出逢ったばかりの人間の為人ひととなりを、その上っ面の言動や面付きだけで判断しようとすることが、如何に陳腐で愚かであったかということを、身に染みるほど痛感させられたような気になっていた。

「火天、ごめんね。あたしが勝手にいなくなったりしなけりゃ、こんなことには――それに、あの時はあんたが本当に助けてくれないんじゃないかって思って――」

 目頭に溜まった熱いものを零しながら、気がつくと八手はぽろりぽろりと懺悔していた。

 涙を零す八手を見上げた火天は、途端にその顔色を入れ替え、冷水を浴びせかけられたかのように勢い良く跳ね起きる。そうしてしばらくは、何か言いたげな様子で何度も口を開きかけては閉じることを繰り返していたのだが、そのうちに結局はばつの悪そうな相好をふいと真横に背けると、口許をつんと尖らせ、たどたどしい話し振りで言葉を零し始めていた。

「泣くなよ、馬鹿。お前みたいなのが泣くと、その――気持ち悪いだろ」

「だって……」

「簡単に謝るくらいなら、最初から面倒な事すんじゃねえよ。ちょっとやそっと謝られたぐらいで、この後も素直に言う事聞いてもらえるなんて思うなよ、この阿婆擦れが」

 後悔と逡巡。それと同じくらいの安堵と喜悦。

 だって、ともう一度零すつもりだったその言葉は、もはや後から後から湧いてくる感情の波に飲まれてしまったおかげで、幾らも出てきてはくれなくなっていた。

 そうして、ようやく八手の嗚咽が小さく収まりかけてきた頃のこと。

 泣きじゃくる八手の姿を見守り続けていた火天は、唐突にその切れ長の三白眼を目いっぱい見開き、何やらとても神妙な面持ちでこそこそと耳打ちをしてくる。

「そういえばお前、本当に俺の言う事何でも聞いてくれんのか?」

「え、それって、今ここで?」

 胸の中心が大きく跳ね上がるのを感じ、思わず八手は、ぎゅっと強く、そこを押さえつけてしまっていた。

 それと同時に八手の胸の奥は、締め付けられるような痛みを伴いながら、とくとくと鼓動を刻み始める。

「そりゃそうだろ。後々忘れてもらっちゃ困るしな」

「で、でも……今は先に八雲の坊ちゃんを捜さないと。それにあたし、その……そういうのはまだ、慣れてないっていうかさ、その――」

 耳元で響く火天の低音が、熱を帯びて暴れ回る八手の動揺と焦燥に拍車を掛けている。

「八手」

 度を超えた緊張が、心底情けなくなるくらいに、激しく八手の両肩に震えをもたらしている。すっかり縮こまった八手の肩をがっしりと掴んだ火天は、それまで一度とて見せたことのないほど精悍な眼差しを浮かべ、瞬きすらせずに真っ直ぐこちらを見つめると、再び小さく、その低音を響かせていた。

「金、貸してくれ」

「は?」

 折節は未だ、真夏の暑さがじめじめと尾を引く、残暑の真っ只中である。

 それにもかかわらず、真冬の西風ならい(※)にも似た、凍て付くような寒さを孕んだ一陣の風が吹き抜けたような気がしたのは、気のせいであろうか。

「いやあ、実は昨日、瑞雲ずいうんの奴から当面の生活費だって言って、小遣いを渡されたんだけどよ。長いこと文無しが続いてたもんだから、憂さ晴らしに色街で遊んでたら、いつの間にか全部使い果たし――」

 悪びれた様子もなく大口を開けてにこにこと相好を崩した火天を見ていると、これが果たして己が内から沸いて出てきた感情なのだろうかと疑わしくなるほど、黒々としたものがこみ上げてくるのが分かった。

 ――前言撤回。こいつは、たぶん本物の馬鹿だ。

 その直後、竃にくべられたたきぎの爆ぜるような鋭い快音が、夜のしじまに染み入るように響き渡ったことは、言うまでもなかった。




※ 西風=ならい風。冬に山並みに沿って吹く強い風。

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