弐ノ話

「隠れてねえで、出て来いって。女の足じゃ、そう遠くへ逃げられねえことは分かってんだぜ」

 柑子色の着物の上から、ちくちくと届いてくる鋭利な感触がこの上なく鬱陶しい。息も絶え絶えに飛び込んだこの物陰が“笹薮”であったことは、不幸中の不幸であったとしか言いようが無かった。

 それでも、あんな奴らに好き勝手にされることを思えば、万倍もましな居心地であることは間違いない。

 八手やつでは必死に息を殺し、城柵のように鬱蒼と生い茂った笹薮の切れ間から、山道を歩く男をじっと見つめていた。頬にくっきりと浮かんだ刀傷をいびつにゆがめ、男はへらへらとしきりに薄ら笑いを浮かべている。

 山道で最初に顔を合わせた折、あの暴漢たちは全部で三人居たはずだ。

 他の二人はどこへ行ったのだろう――諦めて引き返してくれたならそれ以上のことはないが、おそらく世の中、そこまで甘くはない。今はきっと何処か、別の場所に潜んでいるに違いない。

 ぬかるんだ山道を全力で走り抜けてきたおかげで、すっかり息は上がっている。にもかかわらず、吐き漏らした呼気ですら、相手に尻尾を掴ませる糸口となってしまいそうな、最悪の状況だ。

 ともすれば、喘ぐような勢いで喉元を這い出ていきそうになる呼吸を、無理くり押し殺そうとするたびに、頭の芯がぐらつくような強い目眩に襲われる。

 何度目かの目眩を打ち払うようにかぶりを振るものの、意識は輪をかけて混濁を増すばかりであった。

 このまま、じっとしていよう――

 このままもう少し逃げおおせることが出来れば、諦めてくれるに違いない。少なくとも、そうであると信じなければ居られない。

 山道を覗くことを諦めた八手は、極力音を立てぬよう怖々とその場に腰を下ろすと、湿風に葉擦れの音を漏らすつるばみ(※)の幹に背中を預け、ゆっくりと息を吐いていた。

 それにしても、今宵に限っては何故こうも、災難ばかりが降りかかるのか。

 否、原因は既に分かっている。

 全ての元凶は、数日前に現れたあの“用心棒”だ――あの男が現れて以来、浮き沈みなく一定を保ち続けてきたはずの八手の毎日は、着実に変調をきたし始めていたから。

 八手は現在、近隣の国々に一定の献納を行うことで自治権を得た“静賀せいか”という名の商人町あきんどまちで暮らしている。

 古今東西の商人が集まるその町の中でも、八手が住み込みで働く千登勢屋ちとせやは、一際広壮な外構えを置く、町一番の高級呉服屋だ。

 そこへ唐突に、気まぐれを起こした主人が、“こいつは今から千登勢屋の用心棒だ”と、何処ぞで拾った得体の知れぬ男を住まわせ始めて、はや数日がたつ。

 野風の如く飄々とした歳若い主人が、何処の馬の骨とも知れない若者を拾ってくるのは毎度のこと。八手自身も、その主人の気まぐれに助けられたおかげで、大店おおだなに召し抱えられる運びとなったことは、変えようのない事実だ。しかし、その“拾いもの”の中でも、あの風来の剣士は、表付きからして他の数段上を行く変り種なのである。

 燃えるような真っ赤な髪に、近隣ではほとんど見かけない、殊俗丸出しの派手な着物と刀、刺青。けばけばしい色彩の飾り石をあしらった、たくさんの装飾品――その出で立ちは、まさに“歌舞伎者”が衣着て歩く有り様で、並んで歩こうものなら、こちらまでがその為人ひととなりを疑われてしまうことは想像に難くない。

 その内づらはといえば、やはりなりを裏切らない道楽者でしかなく、三度の飯より悪遊びを好む。客質の良い高級呉服店の用心棒など、元々大して華々しい見せ場があるわけでもないが、見世での立ち居振る舞いを見る限りでは、寝るか食うかの他に何かしているところを見たためしがない。

 それでも、“自分には関係のない話だ”と他人の振りをしていれば済むうちはまだ良かった。しかし、ただ“歳が近い”というだけで一括りにされ、何かと行動を共にさせられるようになってからは、どうにも我慢がしきれなくなっていた。

 身寄りのない自分を快く雇い入れてくれた主人に、一生かかっても返しきれないほどの恩があることは、身に染みるほど理解が出来ているつもりであったが、八手にはそれだけがどうにも我慢ならなかったのである。

 今宵のこともまた然り、である。

 千登勢屋の主人――瑞雲ずいうんの一人息子である八雲やくもは、今まさにやんちゃの盛りを迎えた年頃である。父の商い事には興味の欠片も示さず、時の過ぎ行くことも忘れて朝から晩まで野山を駆け回る八雲は、今日のように、日が沈んで数刻と経ってからも、家に帰らないことがしばしばあった。

 そういったとき、八雲を連れ戻しにこの城鉦しろかねの山へ赴くことも、八手の何でもない日課のひとつであったのだが――

 今日に限って、“いつもより大分と夜も更けているから”と、要らぬ“護衛”を付けられてしまったことは大誤算であった。

 地理に通じた自分一人の方が、よほど身軽で動きやすいに決まっている。何よりもまず、夜更けにあんな男と二人でどこかに出かけるくらいなら、一人っきりで出掛けた方がよほど安全に決まっている。

 旦那様は子供の頃にあたしを拾ったから、きっといつまでも、あたしが小さな子供のままで居ると思ってるに違いない。

 だからといって、幾ら何でも、これはあんまりではないか――

 やりきれない思いに押し潰されそうになりながら、八手は目頭が熱くなってくるのをこらえ、膝を抱えていた。

 それにしても、今宵に限っては何故こうも、災難ばかりが降りかかるのか。

 たまの出番が巡ってきているというのに、あの男が今ここに居ないのは――大負けに負けてやったとして、半分ほどは自分のせいもあることは分かっていたが、そもそもここまでの不幸が続いた原因があの男の存在自体にあるのだから、結局は総てあの男の責任に違いない。

 苛立ちを募らせた八手は、放っておけば湯水の如く湧いてくる由無し事を無理くり完結させると、再びゆっくりと息を吐いていた。

 刹那のこと。

 翠葉の天蓋を仰ぎ見た八手は、涙で滲んだ視界の端を、見覚えのある白い輝きが通り抜けたことに気が付いていた。

 ――蛍?

 まさか、そんなはずはない。

 今はもう、夏も盛りを過ぎた折節である。

 万一酷い寝坊をやらかしたものが居たとしても、蛍がここを住処として選ぶことは絶対に有り得ない。

 ここ城鉦山の一帯は、訳あって昔、そこに元々あった流れを上手のあたりでぷつりと堰き止めてしまったおかげで、蛍たちの住処となる水源が存在していないはずなのである。

 だとすれば、あれは一体――

 ぼんやりと思案を巡らせていた八手は、いつの間にやら朦朧としながら、夢とうつつの狭間をゆらゆらと右往左往していることに、気が付いていなかった。

「――見ぃつけた」

 唐突に現へと引き戻された八手の腕を掴み、したり顔を浮かべて見下ろす男が居る。

 その憎らしい造作をわざわざ記憶に止めておくことなど、死んでも御免だとは思ってみても、植えつけられた恐怖の記憶を拭い去ることは、それほど容易くはなかったらしい。

 木瓜形の刀の鍔で右目を覆ったこの男は、間違いなく、先に山道で見た男の連れの一人であった。

 新手の男は、刀傷の男に引けを取らぬほどの下卑た含み笑いを浮かべ、八手の体を自分の側へ引き寄せようとしてくる。

「このっ――」

 怒りにまかせて反射的に振りかざした手は、いとも簡単に、後方から伸びてきたもう一つの手によって封じられる。振り返るとそこには、山道を歩いていた刀傷の男に加え、姿の見えなかった三人目の男までもが立っていた。

「おっと、危ねえ危ねえ。どうせ逃げられやしねえんだ、大人しくしてな。でないと、後から辛いぜ?」

「嫌だ! 放せ――」

 話すいとまも与えられぬまま、八手は辛辣な笹のむしろの上に押し倒される。

“怖い”と感じたのは、一瞬だった。

 それはきっと、許容量を超えた恐怖感が、心そのものを切り離してしまったからなのかもしれない。

「お前が好いか嫌かは関係ねえんだよ。俺たちは、俺たちが好くなれりゃあそれでいいんだ」

「俺が言うのも何だけどよ、お前ってとことん悪い奴だよなあ」

 男たちの躁狂な笑い声が、何故かとても遠くから聞こえているような気がする。

 頭上から注がれる男たちの下卑た目遣いが、この上なく不快で、この上なくうざったかった。

 何だろう――とても空虚だ。心に大きな風穴の開いたような心地がする。

 ふいと背けた瞳をすがめ、八手は笹薮の切れ間から山道に目を遣っていた。

「――火天あぐに?」

 一陣の通り風が、生い茂る笹の群れにさわさわと波紋を広げた瞬間。

 笹の切れ間の向こうから、あの見慣れた紅い髪がたなびくのが見えたような気がしていた。

「火天――助けて! 火天!」

 その名を一度口にするや否や、稲光の疾るような速さで四肢に感覚が戻るのを感じ、八手は声を限りに叫びをあげていた。

「誰だそりゃ。お前の男の名前か? 言っとくがここは、最近まで妖の根城があったって噂の城鉦山だぜ? こんな薄気味悪い場所に、敢えて足を踏み入れようなんて酔狂は――」

 閑寂な藪の中に、鹿威ししおどしの如き涼しげな雅音が響くのと同時。

 それまで一層調子付いた様子でべらべらと息巻いていた刀傷の男が、唐突に白目を引ん剥いて卒倒していた。

 恐る恐る状況を照らし合わせてみたところ、どうやら山道の方から投げ込まれたと思しき“何か”が、男の後ろ頭を目掛け、驚くほど見事に命中していたようである。

 あれほどの長音を響かせるからには、さぞかし男の頭の中に詰まった代物は、軽くて小さなものでしかなかったのだろうなどと悠長に考えていたのも束の間のこと。

 だらしなく緩みきった口の端をひくひくとさせた男の元から、ごろりと転がり落ちた“何か”を目の当たりにした八手は、小さく身を竦ませ、声なき声をあげていた。

 男の脇に落ちたものは、何ともおどろおどろしい風采を纏った髑髏しゃれこうべだったのである。

「この野郎っ――!」

 当初はあまりのことにただ目をしばたたかせるばかりであったが、すぐに己を取り戻した残り二人の男たちは、見る間に語気を荒げ、頭から湯気をたてんばかりの勢いで激昂する。

「ふざけやがって!」

 そうして次々と腰の得物を抜き放った男たちは、山道に佇む憎き仇敵に向かって、きおい口に任せ猛進していた。

 幾ら何でも、二人同時にかかられたのでは、手も足も出ないかもしれない――

 ぞくりと背筋の凍る思いが走り抜けたときにはもう、二人の男は笹薮の薄闇から忽然と姿を消した後だった。

「火天!」

 乱れた着物の裾を構う余裕もなしに、八手は矢も盾もたまらず山道に飛び出していた。

「てめえら、正気か? よくよくこっちの姿も見ねえでいきなり飛び出してくるなんざ、よほど腕に自信のある奴か、馬鹿のすることだとしか思えねえ――俺なら死んでもやらねえよ」

 けれど八手の思いは、これ以上ないほど飛び切りの杞憂に終わったようであった。

 笹薮の向こう側には、予想を遥かに凌ぐ絶景が広がっていたのである。

 きん、と耳に心地よい快音を響かせ、山道に佇んだ紅髪の男は、左手に携えた鞘に刀を納める。

 男の足元でひっくり返った二人の体から、一滴の血も流れ出る様子のないところを見ると、彼らに下された鉄槌は、おもんばかりの凝らされた“峰打ち”だけだったようである。

 ほっと撫で下ろした胸元を改めて目の当たりにした八手は、見る影も無いほど崩れた着物の有様を見るや否や、思わずぎょっとしていた。

「あ、あたしは――まだ何もされちゃいないんだからね!」

「いや、誰もそんなこと聞いてねえし……」

 八手の乱れた着衣を目にしても、とくに目立った反応のない火天の様子が、やけに腹立たしく思えるのは何故なのだろうか。

 呆れたように深く息をついた火天は、直したいのなら存分に、とでも言わんばかりにくるりと踵を返すと、朱塗りの刀を肩に担ぎ、耳の高さあたりで結い上げた紅髪をしきりにぼりぼりと掻いていた。

 実を言うとこの男とは、紆余曲折あって先ほど喧嘩別れをしたばかりなのだが、この期に及んで八手を一人で置いていこうなどという気はないようである。

 安堵に息をついた八手は、頬の緩む感触を持て余しながら、そそくさと着物の重ねを正し始めていた。

 いよいよ最後の締めを終え、手早く貝の口に結んだ帯をくるくると後ろに回そうとした折のこと。

 帯の結び目に不穏な影が落ちるのを感じ、八手ははっと顔を上げる。

 しかし、振り返ろうと帯から手を離したときにはもう、八手の体は、背後から迫った敵のもとに落ちた後であった。




※ 橡=クヌギの古い呼称。

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