第14話 矮小でつまらない生き物
僕とヨウはその日の午後に先生のマンションに足を運んだ。僕が誘ったのだ。少なくとも、冷たい風吹くなか、狭い洞穴で肩を寄せ合うよりはよっぽど有意義に決まっている。
連絡もなしに訪ねた僕らを先生は歓迎してくれた。彼はその時も皺一つないワイシャツと眼鏡を身に付けていた。
その日、琴音さんは仕事に出ていて、彼女の淹れるシナモンの効いたミルクティーは飲めなかったが、代わりに先生が砂糖とミルクのたっぷり入ったインスタントコーヒーを作ってくれた。ヨウはちょっと口を付けると、気に入らなかったのか僕の方へよこし、おもむろに棚の本をペラペラ捲った。
彼女の気まぐれな性格は場所を選ばず発揮されるようだった。
「それでそっちの女の子は誰なのかな」
先生はその無愛想な背中に向かって言った。
「前に言っただろう。あんたの本を読んでいた女の子だよ」
「なるほど。例の変わった子だね」
「こんにちは」とヨウはつまらなそうに返事をした。
「数少ない僕のファンがこんな可愛い女の子とは喜ばしい限りだね」
先生は芝居掛かった口調で言う。
「ファンじゃない」と棚に本を戻しながらヨウはきっぱり言った。「私はあなたの書いた本が好きだけど、別にあなたのことはそれほど好きじゃない」
「でも世間一般ではそれをファンと呼ぶんだよ」
彼女は顔をそらした。
先生は僕の耳元でこう囁いた。
「随分と面白そうな子じゃないか」
それからヨウは書斎で書きかけの原稿を読み、使い古した万年筆を眺め、いつも僕がそうするように先生の話を聞いていた。彼女はなんだかんだ作家の生活というものに興味を持っているようだった。
「本を書くのは楽しい?」とヨウは聞いた。
先生は指の先を噛む。
「一言では答えられないな。楽しい時ももちろんある。しかしね、それ以上に辛い時の方がずっと多い」
「どういう時に辛くなる?」
「原稿用紙にありきたりな文章を埋めるその瞬間だよ。まるで、自分がとても矮小でつまらない生き物になった気がするんだ。そこらへんに転がってる奴らと同じようにね。それはたまらなく辛いことだよ。胃の奥の辺りがね、捻じ切れるんじゃないかってぐらい痛むこともある」
「じゃあやめればいい」
にべもなく、ヨウは言う。
先生は肩をすくめた。
「でも僕が書くことをやめてしまってたら、君はその本を読めなかったんだよ」
僕が先生の書斎に入るのはその日が初めてだった。その狭い部屋は彼らしくもなく乱雑としていた。あちこちに本が散らばり、その幾つかは深い埃を被っていた。問答を続ける二人をよそにリビングへ戻った僕は、ヨウの残したコーヒーを飲みながら、何の気なしに部屋の中を見渡した。モデルルームのようなこの部屋で琴音さんは毎日を過ごしているのだ。僕はソファに転がっていたクッションを手に取った。それは普段、琴音さんが良く抱きしめているものだった。鼻を近づけるとかすかに琴音さんの匂いがした。胸に抱き寄せてみると、温もりがまだ残っているような気がした。琴音さんの生活を想像することは、楽しくもあり、苦しいことでもある。
十分もしないうちにヨウは書斎から出てきた。
「なにを話していたんだ?」と僕は訊いた。
彼女はなにかを言いかけ、やがて諦めたように首を振った。
「つまらないこと」
僕とヨウは結局、先生のマンションはそれほど長居しなかった。三十分もしないうちに、僕の服の裾を引っ張り、出ようと言ったのだ。
外に出ると、太陽は随分と遠いところにいた。僕たちの影は仲良く尖っている。日暮れの気配がした。マンションを見上げるヨウに僕は尋ねた。
「これから、どこに行きたい?」
「あなたはどこに暮らしてるの?」
「あの図書館の近くだよ」
「じゃあ、そこに行く」とヨウは言う。
「僕のアパート?構わないけど、ここから少し歩くよ。それに立派な建物じゃない。二階建てのボロくさいただのアパートだよ」
「早く行こう」
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