第12話『魔女たちの夜 前編』

『魔女たちの夜』は先生の書いた短編小説の一つだ。登場するキャラクターはとても少ない。二人の女と二人の男とそして月だけだ。こんな話である。


 あるところに優子という名の漫画家がいた。漫画家と言っても、誰もが知るような名のある漫画家ではない。メジャーとは言えない少女向け雑誌に連載を持つ、二十三歳の女だ。彼女の元には月に何通かのファンレターが届くが、一度たりとも目を通したことはない。彼女は誰の言葉にも(それが好意的なものであったとしても)耳を貸さない。自分が正しいと思ったことを、ただひたすらに貫く。その結果、批判されたとしても構わない。優子は強い女なのだ。


 優子には付き合って三年になる恋人がいた。

 大学の同級生で、卒業後は大手の電力会社に就職した。料理とジグソーパズルが趣味な、おっとりとした優しい男だった。たとえデートの約束に約束の時間に遅れても、責めるようなことは言わない。何かあったのではないかと、むしろ気遣ってさえくれる。優子は彼がなにかに腹を立ているところを未だに見たことがことがない。

 彼らは二週間に一度上品なレストランで食事をして、月に一度ホテルでセックスをする。優子にとって彼とのセックスをそれほど喜ばしいことではない。不満はないが満足もしない。それでも抱かれるのは、恋人としての義務感があるからだ。

 ベッドの中で、彼に抱かれる度に優子は思う。このまま、この男と結婚して、私は幸せなのだろうか。これが、私の中でのベストなのだろうか。他に選択肢はなかっただろうか。問いかけても、誰も答えてはくれない。


 彼女がその答えを手に入れるのは、もうすぐ二十四の誕生日を迎えようとすると冬のある日のことだった。

 その日、優子は街へと買い物に出掛けた。インクが減っていることに気付いたのだ。外には雨が途絶えることなく降り続いていたが、締め切りも近かった。雨があがってからというわけにはいかない。大きな黒い傘を手に玄関を出る。

 帰り道、雨に濡れた彼女は、早く帰りたい一心で近道を使うことにした。そのためには不気味な廃工場の前を通らなければならないのだが、これ以上服がぐしゃぐしゃになるよりはマシだった。破れているフェンスをくぐり、茂みを分け、工場の敷地に入る。濡れないように身を縮めて走っていると、トラックの搬入口に一人の女を見つける。それがヨウコだ。


 優子は不思議に思う。どうしてこんなところで若い女が膝を抱えているのだろうかと。優子はその理由をすぐに悟ることになる。彼女の服ははだけ、腹や太ももには青い痣が残っていたのだ。なにがあったのかは明白だった。彼女は捨てられた猫のように怯えた目で優子を見つめる。

 優子は女に近づく。「あなた大丈夫?」

 ヨウコはなにも喋らない。言葉という概念の全て忘れてしまったのではないのだろうかと、優子は心配する。

「家、近いの? 送って行くわ」

 無言。

 このまま話していても埒があかない。優子は言う。

「じゃあ、とにかく私のところに来なさい。そんな格好でこれ以上ここにいたらそれこそ危険だわ。ねえ、それでいいかしら」

 ヨウコは首を縦にふる。

 優子は彼女の手を取った。ひどく冷たい手だった。彼女を強引に立ち上がらせると、傘の中に入れた。マンションに連れ帰って、優子はまず女にシャワーを浴びるよう指示した。浴室から水の音が聞こえて、さてどうしようかと思案する。警察に連れてった方がいいのだろうか。それとも、しばらく面倒を見るべきなのだろうか。彼に相談してみようか。優子はソファに身体を沈める。そうしながら、自分が睡眠を求めていることに気付く。シャワーの音に耳を傾けながら目を閉じる。

 目を覚ますと、目の前にはヨウコの裸体があった。優子は見とれてしまう。彼女の肉体は、あまりにも美しかったのだ。所々に残る痣が美しさを強調していた。彼女の裸には、見た人間を強く惹きつける力が宿っていた。

 服を借りたいわ、とヨウコは言う。

 しかし、言葉は優子に届かない。彼女は目の前の美しい肉体に耐え難い欲望を感じる。それは、生まれて初めて植え付けられた感情だ。頭のどこかで、スイッチが切り替る。優子はヨウコの細い手を掴んだ。

 帰る場所はあるのか、と優子は聞いた。

 えっ、と聞き返したヨウコは、やがて首を振った。

 優子は微笑む。それが二人の生活の始まりだった。


 ちょうど一週間が経った夜、優子はヨウコを抱いた。どうしてそんなことになったのかわからない。いつものように、二人は身体をくっつけてただ眠っていたのだ。優子が異性以外とこういう行為に及んだのはそれが初めてだった。自分に同性を抱きたいと思う欲望が備わっていることに混乱さえした。しかし、それは彼女の意に反してとてもスムーズに進んだ。まるで最初から予定されていたことのようだった。貪るようにお互いの肉体を求め合った。彼女の胸に唇を這わせ、性器に優しく触れる。

 快楽の波の中で優子は理解する。ヨウコは私を必要としている。そしてまた、私もヨウコを必要としていたのだ。疲れた鳥が、大木の元で羽を休め、気まぐれに歌う鳥の声を大木が聞くように。


 その夜から優子はあらゆるものを手放し始めた。それはヨウコと触れ合うには必要なことだった。最初は恋人だった。別れようと一方的に告げ、携帯電話を着信拒否にして、家の鍵を変えた。次に捨てたものは漫画だった。彼女は連載していた漫画を強引に打ち切り、フリーのイラストレーターとして働くようになった。収入はがくんと落ちたが、彼女には幾分かの貯えがあったし、それ以上にヨウコと過ごす時間を伸ばすのは重要な項目だった。優子は自らなにかを手放すことに躊躇はなかった。対価なしにはなにも得られないことを知っていたからだ。

 二人の生活は概ね順調だった。彼女たちは時間のほとんどを家の中で過ごした。ヨウコが外に出ることはなかった。

 優子の側には常にヨウコの姿があった。毎日一緒に起きて、一緒に食事を取って、一緒に風呂に入り、また一緒に眠った。街に買い物へ行くと言えば、捨てられた子犬のような目をした。すぐに帰ってくるからと宥めるのは一苦労だった。そんな生活が優子にとってはたまらない幸福だった。

 彼女らは同じ音楽を聴き、同じ映画を観て、同じ本を読んだ。二人はなにに取っても愛情をテーマにしたものを好んだ。身体をくっつけながらラブソングを聴き、恋愛映画を眺めた。寝る前に、二人は読んでいる小説について語り合った。それに満足すると長い時間をかけて身体を重ねた。ヨウコの身体は触ることを躊躇うほど繊細だった。自分のゴツゴツとした手で触るのは不相応な気もした。それでも優子はその身体を触れないわけにはいかなかったし、ヨウコも同じように彼女の手や唇を求めていた。

 もちろん、彼女たちの全てが噛み合ったわけではない。好みも違えば考え方も異なる。彼女たちは別の人間なのだ。それでも彼女たちにとっては尊い時間だった。

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