第11話 明日のことは私たちにも分からない

 あの奇妙な少女と再会はすぐにやってきた。

 図書館の前を通りかかった時に、道路を挟んだ向かい側にその姿を見つけたのだ。少女は神社へと続く石段に一人で座り、ハードカバーの本を読んでいた。その表紙には見覚えがあった。先生の書いた、あの退屈な小説群の一つだった。

 僕は自販機で買った缶のミルクティをその少女の前に差し出した。彼女は顔を上げ、僕と差し出された缶を見比べた。驚いている様子も、怯えている様子もなかった。無表情に現状を理解しようとしているようだった。

「ありがとう」

 そう言って少女はミルクティを受け取る。僕はその隣に座ったが、彼女はそんなこと気にも留めず、おぼつかない手でプルタブを開け、缶を包むように持ちながら、慎重に口をつけた。熱かったのだろう。彼女は何口にも分けてミルクティを飲んだ。

 飲み終わるのを待ってから、僕は尋ねた。

「こんなところにずっといたら風邪をひくと思うけど」

「だいじょうぶ」

 少女は抑揚のない声で答える。

「こんなところで何をしているの?」

「本を読んでいたの」

「図書館で読んだらどうだろう。ここより快適じゃないかな」

「それはできないの」と少女はわずかに首を振った。

「どうして?」

「この本は図書館から盗んだものだから」平然と言う。


 少女は空になった缶を僕に押し付けて、読者を再開した。隣の僕には興味がないようだった。それでも、僕は彼女の側を離れることができなかった。彼女に惹かれている自分がいた。少女が琴音さんに似ているからではなく、この本に執着する彼女に、底無しの引力のようなものを感じずにはいられなかったからだ。さしたる面白さもないこの小説を盗み、寒空で読み耽けているのだ。それが不思議でないならなんと言うのだろう。

 少女はしばらく本を読み続けた。冷たい風が吹くたびに少女は身を縮めた。彼女はマフラーも手袋もしていなかった。おまけに短いスカートまで履いている。

「どうして本を盗んだんだろう」と僕は聞いた。

「どこにも売っていなかったから」

 少女は吐息で自分の手を温めながら答えた。

「どこの本屋にもなかった。でも欲しかったの。必要なものだったから」

必要なもの?と僕は尋ねた。

「慰めとして」

考えてはみたけれど、彼女の言わんとすることが僕には理解できなかった。

「慰めだかなんだか知らないけど、本を盗むことが悪いことだとは思わなかった?」

「誰だって悪いことはするでしょ?」

 少女は不思議そうな顔で見返す。

「人は人に嘘を付くし、誰かの悪口を言う。赤信号でも構わず進むし、仔犬に石を投げつける。それと同じ」

 僕はなにも言い返さなかった。それが正論か暴論か屁理屈かは別として、その言い分に納得してしまったからだ。


「ねえ」

 十分ほど読み続けた後に、彼女が声をかけた。

「ひま?」

「暇じゃなかったら、こんなところにいつまでも座ってられないよ」

「じゃあ、ついてきて」

 少女は返事をする間も与えず、境内へと続く石段を登り始める。僕は急いで立ち上がった。先が見えないほどに長い石段だった。背の高い木々の葉が、太陽から僕たちを隠すように覆っていた。木と土の匂いにうんざりしながら、僕は少女の隣を歩いた。それとなく確認したのだが、彼女は髪留めをしていなかった。失くしたからなのか、元からしていなかったからなのか分からない。黒く艶やかな髪は、ささやかな風を拾っては優雅になびいていた。

「どこに行くの?」と僕は聞いた。

「ほらあな」

「ほらあな?」

 少女は頷く。

「どうして」

 それには答えない。

 たどり着いた神社に目を引くようなものはなかった。境内があり、賽銭箱があり、手洗い場があり、由来が刻まれた石碑がある。僕たちはそこで一度足を休めることにした。街を見下ろすように少女は鳥居にもたれかかった。

「あなたはあの本が好きじゃない」と少女は確認する。

 その通りだ、と僕は答えた。

「でもいつも読んでいる。どうして?」

「あの本はね、知人が書いたものなんだ。だから、なんとなく手が伸びるんだよ。もし、他の誰かが書いていたなら、1ページも読まなかったと思う」

「ねえ、あの本を書いた人はどんな人なの?」

「気になる?」

 彼女は五秒だけ悩んで首を縦に振った。

「物知りだけど、ちょっと変わってる。でも悪い人じゃない。むしろ親切だし、いろいろなことを丁寧に教えてくれる。それから酒に強い。綺麗好きで神経質で、丘の上のマンションに七歳年下の奥さんと暮らしてる。奥さんのことが大好きでよく惚気話をする」

 僕は首を振った。

「駄目だね、うまく説明できないや。彼はいつも揺れ椅子に座ってなにか難しいことを考えているんだ。僕たちには到底想像もつかないことを。きっと彼には彼なり論理があって、でもそれは一目見ただけじゃ理解できないほど複雑で、だから実のところ僕も彼のことはよくわからないんだ。表面的には分かるんだけど、核のような部分がどこにあるか見当もつかない。もしかしたら、彼のことを理解したいから彼の本を読むのかもしれない」

 少女はなにも反応しない。言葉が届いているのか不安で、彼女の言葉を聞くためだけに僕は尋ねた。

「会ってみたい?」

「会ってみたい」

 即答。

 少女は休憩の後また歩き始めた。手洗い場の脇を抜け、境内の裏手の雑木林へと進んだ。道と呼べる道はほとんどなかったが、草木の少ないところを選んでどんどん歩いて行った。雑木林を抜けると、その先は高い崖が立ち塞がっていた。彼女は崖にできた洞穴の中で腰を下ろした。洞穴といっても、それは本当に小さな窪みのようなもので、僕が隣に座るには、彼女と肩をくっつけなければらなかった。

「よくここに来るの」と少女は言った。「ここならずっと一人になれるし、誰の声も聞こえないから」

「一人が好きなんだ」

「違う。私と一緒にいるとみんな不機嫌になるから」

「僕は不機嫌じゃないよ」

「うん」

 彼女はまた先生の本を開いた。

 小さな洞穴から覗く空の風景に、昔のことを思い起こす。何年も前のことだ。家の前の竹山を友人と登り、頂上近くの無人の小屋でよく遊んだ。使い古されたゴム靴や、金槌なんかをどけて空いたスペースに寝転がったりした。あの頃と少し似ている。もちろんそれは、僕が小学生の頃の話だったし、一緒に山に登ったのは仲の良い友人だった。大学生がよく知りもしない少女と洞穴で肩を合わせることとは本質的に違う。これは奇妙なことなのだ。まるで先生の書いたストーリーのように。この世界では起こりえないことが、その世界で起こりえるように。


「君の名前はなんて言うんだろう」

「ヨウ」と少女は独り言のように呟く。

「変わった名前だ」

「私もそう思う。好きじゃない。でも他に名前を持ってないから、そう名乗るしかないの」

 彼女のページをめくる手を見ているうちに、読書のペースがとてもゆっくりなことに気付いた。一行一行、なぞるように、確かめるように読み進めるのだ。どうして先生の書いた小説が、この無口な少女を惹きつけるのか不思議でならなかった。そして些かながら嫉妬のようなものを感じていた。

「君はいつまでここにいるつもりなの?」

「いつまでも」

 少女は抑揚のない声で言う。

「ここは安全だから。誰にも会わずに済むし、公園のベンチより風はしのげる。誰の声も聞こえない。ここはいい場所」

「さっきから気になってるんだけど、その喋り方は何かの真似なの?」

 少女はわけがわからないという風に僕を見つめた。

「いや、なんでもない」

 少女はなにかを探るように僕を見つ続けた。その素敵な双眸は生まれたばかりの小さな猫を思い起こさせた。それは先生や琴音さんもすでに失ってしまった種類のものだ。どんな汚れも知らない分、簡単に傷ついてしまいそうだった。

 彼女はなにを思ったのか重ねるように僕の手を握った。咄嗟のことで、僕はどんな反応もできなかった。彼女は触診する医師のように、圧力をかけたり緩めたりした。琴音さんによく似た小さな手が。僕の手を包むというのは変な気分だった。少し暖かく、それが哀しかった。時折吹く風が当たりの木々を揺らして葉が音を立てた。ひどく物悲しい音だった。

「あなたといると、私は安心する」

 少女は幾分か気を許した声で言った。

「それはよかった」

「こんなことは初めて。私はずっと孤独だったから。ヨウコのように」

「『魔女たちの夜』あれは僕も好きだよ。先生の書いたものの中で、唯一面白いと思った」

「あなたは優子みたいね。私がヨウコであなたが優子」

「そうかもしれない」

 そう言ってから、僕は繋がれた手を眺めた。

「でも、僕たちは恋人じゃないよ」

「今のところは」と少女は言う。

「今のところは?」と僕は聞き返す。

「明日のことは私たちにもわからない」

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