第10話それでも星は輝いている


僕はその週の終わりに先生のマンションを訪ねた。彼から「遊びに来ないか?」と連絡が届いたのだ。そのうちに、と僕はほとんど惰性で文字を打ち返信した。すなわち、今日中に会いに行く、という意味だ。


 彼のマンションは郊外から少し離れた小高い丘の上に建てられていた。人気もないし、近くに目立つ店もない。 交通の便もあまり良いとは言えないのだが、建物の外観だけは立派で、僕はよく足を止めてそのレンガ調の壁を見上げてみたりする。

 部屋のインターホンを押すと出迎えてくれたのは琴音さんだった。僕を見るなり、嬉しそうににっこりと笑う。彼女の笑顔はいつでも本当に素敵なのだ。

「寒くなかった?」

「とても寒かったですよ」

「ストーブで温まってて。あの人、ちょっと買い物にいってるの。って言ってもそこのコンビニだから、すぐに帰ってくると思うわ」

 言われた通りにリビングのストーブの前に陣取り、冷たくなった手をかざした。

 リビングはいつ来ても不自然なほどこざっぱりしている。綺麗すぎる部屋のせいかもしれない。フローリングにはちりひとつ落ちていない。家具は買い揃えたばかりのように傷も汚れもない。それはどこか、流行りの家具で揃えたモデルルームを連想させる。ここでは先生と琴音さんが暮らしているし、僕だってよく来るはずなのに、この部屋にいるとそれがイマイチ実感として湧かないのだ。

 すっかり温まると、手持ち無沙汰になってしまい、背の高い本棚を物色した。何冊か手に取ってペラペラとページをめくる。本棚には先生のお気に入りの本が隙間なく収まっている。そのほとんどが海外の小説を日本語に訳したもで、彼の趣味がよく分かる。彼は悲劇的で凄惨な結末を迎える話を好むのだ。それもうんざりする長さのものばかり。

 その本棚に先生の本はない。お気に入りの本たちと自分の書いた本を一緒にするなんて、そんなことはありえない。


 しばらくすると、琴音さんがリビングにミルクティーを淹れてやってきた。彼女は僕には決まってシナモンの効いたミルクティーを出してくれるのだ。

「ねえ、トランプでもしない?」

 暇そうな僕に、彼女はそう言った。

「いいですよ」

 琴音さんは繊細な指でカードを丁寧に切って交互に配った。僕たちはよくトランプやオセロや花札なんかで遊んだ。そのときだけ、琴音さんは子どもように見える。というよりも、年相応の女性に映るのだ。二十代前半の、まだどこか幼さの残る美しい女性。先生といるときの琴音さんは、ちょっと大人すぎる。

 彼女は配ったカードを真剣な眼差しで見つめていた。その視線は図書館にいた一人の少女のことを思い起こさせた。

「琴音さんってどんな高校生だったんですか?」

「急にどうしたの?」

「きっと、男子に人気だったんだろうなって思って」

「私、女子校だったから、そんな風に言い寄られたことないのよ。どこにでもいる、ただの女子高生よ。昼休みはスヤスヤ眠って、授業中もたまに眠って、テスト前には焦って勉強をはじめる。どう模範的な高校生だと思わない?」

「意外ですね」と僕は言った。

「嘘よ。私ね、変なところで真面目だったの。無遅刻無欠席。授業中に居眠りなんて一度だってしたことないわ。課題も期日を守って提出していたし、忘れ物もしたことないの。テストじゃ常に学年で上位五番はキープしてたしね。でもね、だからってなにか特別なわけじゃないのよ、私は。歌も上手くないし、なにか人を感動させるようなこともできない。もちろん本だって書けない。誰にでもできることが、人よりもちょっと上手にできただけ。ちょっと真面目すぎる、ただの高校生だったのよ」

 琴音さんはもじもじと指を動かした。

「まあ、でも、一つだけ普通じゃないことがあるとしたら、七つも年上の男性と付き合っていたことよね」

「高校生のときにはもう付き合ってたんですか?」と僕は驚いた。

「中学生のときからよ。街で声をかけられたの。そのとき彼は二十二歳で、私は十五歳だった。私ね、一目見て途端に恋に落ちたのよ。びっくりしたわ。その前だって、誰かに恋をしたことはあるわよ。告白されて、ちょっといいかなって思ったりしたこともあった。でもね、彼の場合は全く比べものにならなかったの。なんて言えば良いのかしら、まるで雲ひとつない天気の良い日に、雷に打たれた気分だった。そんな風に恋に落ちたことは初めてだったし、多分、もう二度とない気がするわ」

「羨ましいですね。そういうの」

「なに言ってるの? ミツキくんにだって恋人いるじゃない」

 僕たちはポーカーを何ゲームかやった。琴音さんは分かりやすい。高い役のときは、必ず指を不自然に動かす。そうでないときは眉をひそめて頬を膨らましたりなんてする。そしていつも通りに僕が勝ち越して、おかしいなぁと琴音さんは首をひねった。彼女はポーカーやババ抜きや七並べの勝敗が運で決まると信じているのだ。

「ねえ、ミツキくんの恋人ってどんな人なの?」

 ゲームがひと段落する頃に、琴音さんはそう聞いた。

「それこそ普通の人ですよ。ただの大学生です。琴音さんほど、真面目じゃないけど」

「でも確か、音楽をやっているんでしょう? とても素敵なことだと思うわ」

「音楽って言ったって、大学のサークルでちょっとやってるくらいですよ。そんな人はそこら辺にいます。琴音さんが想像しているような、テレビに出てきたり、コンサートを開くと観客で埋め尽くされるようなものじゃないですよ」

 琴音さんは分からないと言うように僕の顔を見つめた。

「ミツキくんって、彼女さんのことそんなに好きじゃない?」

「どうしてそう思うんですか?」

「言葉の端々が冷たい気がする」

「先生と琴音さんのような、熱々な関係じゃないんですよ。僕は彼女の中に理解できない領域があって、僕も彼女には立ち入って欲しくない領域があるんです。だから、うまく彼女を言葉にし、自分の気持ちもよくわからなくなのかもしれない」

 口に出してから僕はひどく後ろめたい気持ちになった。

「私だって、彼のことを理解できないときがあるわ。でも、そういうことと愛情は全く別のことだと思うの。私はあの人の全てを手に入れることはできないの。全部を理解することはできないの。悲しいけどね」

「それでも、愛し続けるって言い切れますか?」

「本当に愛しているならね。少なくとも、私はそうやって十年近く彼とやってきたのよ」

 琴音さんは幸せそうに笑う。彼女のそういう笑顔は決まって僕の心をキリキリと締め付けるのだ。


 琴音さんの言った通り、先生はすぐに帰ってきた。よお、と僕に一瞥をくれると、彼はリビングの揺れ椅子に腰掛けて(その椅子は彼の特等席だ)しばらくベランダの向こうを眺めていた。青い空には分断するように、一本の飛行機雲が走っていた。彼の姿は考えに耽る哲学者のようにも見える。その手にパイプタバコでも持たせれば、作家として様になる佇まいになっただろう。しかし、肺の弱い先生はタバコを吸うどころか喫煙所に近づくこともできない。

「不思議な女の子に会ったんだ」

 僕は先生の背中に話しかけた。

「不思議な女の子」と先生は繰り返す。

「図書館であんたの本を読んでいた。それも熱心に。不思議だと思わないか?」

 彼は指先を噛んで、首を振った。

「世の中にはどうしても理解できない人間が一定数いるものだよ。例えばこの寒空で働くような奴らさ」

「嬉しいって素直に言えないの?」

「言ったことがあるだろう。俺が本を書くのはそうするしかなかったからだよ。俺の本で誰が喜ぶかとか、俺をどういう風に思うかとか、そういう話はまた別の種類のことなのさ」

「僕はあんたたちのことが、ときどきよく分からなくなるよ」

 その夜、僕は琴音さんが作ったシチューを食べながら、パンを齧り、何杯かワインを飲んだ。いつも通りに、先生は僕の話を聞きたがり、的確な助言や知識を披露し、夜が更けるとこれまたいつも通りに新鋭作家をこき下ろした。

 その日、彼はこんな風に言った。

「彼らの書くものはね、どうしてこうも揃いに揃って深みが無いのだろうか。だって、飼っていた犬が死んで、愛した女が死んで、主人公が泣いて、それがいったいなんだっていうんだ? そんな話のどこが面白いんだ? 何人かの読者を泣かせることはできるだろう。それなりに支持を集められるだろうさ。そういう効果があることは認めるさ。でも、その本に何の意味があるというんだ。まったく馬鹿げているよ。毒にも薬にもならない。それはただの物語であって、所詮は物語でしかないんだ」

「そんなこと言ってるけど、あなたの本は毒や薬になるの?」

 食器を片付けながら、琴音さんは訊いた。

「俺の本だって毒にも薬にもならないさ。でもな、読者に媚びるようなことはしない。情けないじゃないか」

「あなたはそれで良いの?」と琴音さんは首を傾げた。「誰かに認めてもらえなかったとしても」

「俺はね、ほしいと思ったものはどんな手段を使っても手に入れるよ。多少汚い手段を用いてもね。でも、俺にとって読者の評価やファンレターなんてほしくない。あんなのはね街の騒音とそれほどの違いはないんだ」

 十時頃になると琴音さんは明日は早いからと寝室へ引き上げてしまった。先生はその背中を名残惜しそうに見送ってからグラスに残っていたワインを飲み干した。

「どうしてあの子がさっさと寝てしまったかわかるか?」

「眠いんだろう」

「まさか。あの子はいつも俺よりずっと遅くまで起きてるんだ。四時間も眠れば充分っていうそういうタイプなんだよ」

「じゃあ、どうして寝たんだ」

「拗ねてるんだよ。俺がお前にばかり構っているからな」

「僕は邪魔者ってことか」

「まあ、そうだな」と彼は笑った。「でも、これで良いんだよ。あの子は拗ねたくて拗ねているんだ。可愛いじゃないか。こういう日はな、お前が帰った後にいっぱい慰めてやるんだ。あの子な、お前が来た夜は決まって甘えるんだよ。頬を擦り合わせたり、足を絡めたりして、俺の耳元で囁くんだ。それこそ、猫みたいな声でな」

「帰るよ。これ以上あんたの惚気話に付き合わされるのはごめんだ」

 先生は外まで僕を送ってくれた。また来てくれよと言われ、そのうちになと答える。彼はマンションの中に戻って行った。外の空気は心細くなるほど冷たかった。

 僕は何の気なしに夜空を仰いだ。灯りの少ないこの辺りからは、いくつかの星を見ることができた。月も浮んでいた。それらの光は、先生の小説のワンシーンをふと思い出させた。月が、絶望に暮れる女に静かな声でこう言うのだ。


『月は欠けるし、太陽は沈む。雲が空を覆い、冷たい雨が打つだろう。そして醜い君は孤独になる。致命的なまでに傷つくだろう。もう立てなくなるかもしれない。それでも、もし救いを見出したいと思うなら夜空を眺めてみるといい。暗雲の向こう側では、それでも星は輝いている』

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