第9話 イミテーションのように
二月の終わり、僕はまた図書館で奇妙な体験をすることがあった。
その日、借りていた本を返すついでに、僕は先生の書いた小説を本棚から探した。僕は定期的に、彼の書いた文章が読みたくなる。面白いからではない。そこに、彼の秘密の一部が暗号のように隠されている気がするからだ。
手に取ったのは彼の唯一の長編小説だった。彼は長編小説を書くことを好まない。
「この世界に俺が語ることは山ほどある。少なくとも、あの能無しの新鋭と呼ばれる作家共よりはね」
ある日の夜に(例によって酒を飲み交わしていたときのことなのだが)彼がそう打ち明けたことを思い出した。
「でもね、俺はそのほとんどを語らない。語ったところで、彼らには伝わらないからね。ほぼ全ての書き手が愚かなように、読者もまた愚かなんだよ。つまらないものを、ありがたがって信奉する、そうだなまるでカルトに洗脳された狂信者だよ。だから、俺は短い話しか書かないんだ。短くて、誰にでもわかるものをね。海を泳ぐのは魚。空を飛ぶのは鳥。二本足で歩くのは人間。そんな感じにね。そうじゃないと、彼らは受け入れてくれない。でもね、俺はそれで終わりにはしないさ。まるで隠れたスパイスのように、こっそりと語るべき真実を忍ばせるんだ」
「随分と傲慢でいらっしゃるね」とそのとき僕は笑った。
「才能っていうのはね、傲慢さの上に成り立つものなんだよ。金メダルを取ったアスリートとかが、記者会見で慎ましいことを言うじゃないか。皆さんの支えがあってここまで来れました、なんてね。でも、一枚皮を剥いだ先にあるのは異臭漂う醜悪さなんだ。目にするのもおぞましい怪物だよ。けれど、それが本物の彼らなんだよ。誰かを見下す傲慢さと自信があって、才能は才能たり得るんだよ」
「じゃあ、あんたは本物の天才だ」
「俺はまだ、それほど醜くはなっていないさ」
僕は奥まった人目に付かない席に座り、適当なページを開き、そこから読み進めた。彼の文章は彼の創る物語と同じように、ひどく平凡で退屈だった。どこかで聞いたことのある安っぽい表現。どこまでいっても平坦な語り口は、臨場感というものを知らない。
実際に先生が口にする言葉とは違い、彼の書いた文章は僕になにも与えないしなにも訴えかけてこなかった。僕はよくわからなくなる。どうしてあれほどあらゆる種類の事柄を面白おかしく伝えることのできる人間が、こんなつまらないものばかり生み出すのだろう。これでは二流ではなく三流だ。愚かな読者でも、読もうとは思うまい。
僕が一つ背を伸ばしたとき、二つ隣の席に一人の髪の長い女の子が座っていることに気付いた。ロングスカートにコートを羽織った彼女は、一冊の本を熱心に読んでいた。それは不思議なことだった。平日の昼間の図書館はガラガラに空いており、わざわざこんな所に座る理由なんてあるはずがない。実際にどの利用者も窓際の日当たりの良い席に座っていた。そしてもう一つ、これは不思議というよりむしろ不気味なことなのだが、彼女が熱心に読んでいるものは先生の書いた短編集だった。
奇妙なこともあるものだと思いながら、彼女の顔を見て、僕は息を飲んだ。その姿に目を奪われないわけにはいかなかった。彼女の横顔は琴音さんに似ていたからだ。肌の白さや、くっきりとした二重まぶた。それから細く長く綺麗な指先。そこに宿る美しさと危うさは、イミテーションのように琴音さんの持つそれと同じだった。
ハッと顔を上げた少女は、僕を見返した。ぐっと喉が詰まった。何かを言うべきだと思った。なんでもいい。適当にはぐらかせばいい。しかし、僕はなにも言えなかった。彼女のとても深い黒の瞳は、僕に何かを訴えかけていた。そこに込められたエネルギーのようなものが、僕からあらゆる種類の言葉の全てを奪い去ってしまったのだ。初めて味わう感覚だった。なぜだか、身体の芯が熱くなり、背中に汗が流れた。僕たちの間に生まれた沈黙はしばらく宙を彷徨った。
なんでもないんだ。
そう言いかけた言葉を、彼女は遮った。
「その本が好き?」
「え?」
「いつもその本を読んでいるから」
僕は顔をしかめた。それはデジャヴにも似た感覚だった。僕は長い時間をかけて呼吸を整えた。彼女は琴音さんじゃない。似ているのは細部だけで、声も話し方も顔の作りも違う。
「それほど好きじゃない」と僕はようやく言った。
少女は不思議そうに首を傾ける。ならどうして彼の本ばかり読んでいるのだ、と聞きたそうでもある。
「私はとても好き」
彼女はそれだけ言って再び熱心に本を読み続けた。僕はしばらく呆然としていた。少女の幻想的な瞳と、その言葉が、僕を捕らえて離さなかった。誰かの姿を見て、こんなにも混乱することはなかった。僕は再び彼女の声を聞くためだけに、こう尋ねた。
「その本のどこが好きなの?」
少女は視線を本に落としたままこう答えた。
「月が私たちに話しかけるところ」
僕は非常に喉が渇いていることに気付き、廊下に出たところの休憩所でオレンジジュースを買って飲んだ。舌に残る甘さが僕を嫌な気分にさせた。
戻ると、そこにはもう少女の姿はなかった。気配も残ってはいなかった。空白があるだけだ。それは春先にすっかり消えてしまった雪の塊を連想させた。その代わりのように、蝶の髪留めがテーブルの上に置かれていた。彼女はヘアピンなんてしていただろうか。思い出してみようとしても、うまくいかなかった。僕の頭の中で少女はすでに輪郭を失い始めていた。僕はその髪留めを手早くポケットに突っ込んで図書館を出た。
その後、何日か続けて図書館を訪れてみたのだが、少女の姿を見つけることはできなかった。僕たちが座っていた席には誰も座っていなかった。なんの痕跡もなかった。あの時と同じように先生の本を読んでみたりもしたのだが、集中できずにその内容は全く頭に入ってこなかった。もちろん誰かが僕の読む本に興味を持って話しかけてくるようなこともなかった。当たり前のことだ。それが、当たり前のことなのだ。
三日目にもなるとあれは白昼夢のようなものではなかったのだろうかと思うようになった。そう考えるのが、最も自然なことのように感じた。そうでなければ、僕の脳が都合よく作り出した幻影だ。どっちにしろ、現実に起こったことではない。
その証拠と言わんばかりに、僕がポケットに入れたはずの髪留めはいつの間にか何処かへ消えてしまっていた。
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