第8話 未来志向にも、センチメンタルな気分にもならない

  先生と出会ったのは、僕が二十歳の誕生日を迎える半年ほど前、昼下がりの市営図書館でのことだった。そのとき僕は一冊の本を読んでいた。『魔女たちの夜』という短編集だ。その本を手に取ったのは偶然だった。大学のレポートを書くために調べ物をしていたのだが、それにも飽きてしまい、適当に手に取ったのがその面白くない本だったのだ。

 一つの話を読み終え、頭を捻っていると、一人の男が僕の前に座った。その男はちょっと嫉妬するぐらいに端正な容姿をしていた。ワイシャツとフレームの細い眼鏡がとても爽やかだった。その男は本も新聞も手にしておらず、しばらく神経質な手付きで眼鏡を拭いていた。かすかに血管の浮き出た、骨張った指だ。何度か蛍光灯に照らし、擦り、照らし、擦り、を繰り返して、そのうち僕を見つめたかと思うと、急に身を乗り出し潜めた声でこう尋ねた。

「その小説は面白いかい?」

 僕は思わず怪訝そうに彼を見返した。何処の世界に、図書館で本を読んでいる大学生にそんなことを尋ねる人間がいるだろうか。けれど彼は相変わらず嫌味なほど爽やかな視線で僕に問い続けた。その端正な顔に見つめられると、その非常識にも正当性があるような気分になる

「あんたの趣味は分からない」

 僕はほとんどヤケになってそう応えた。

「でも読んでみたら分かると思うけど、それほど価値のあるものじゃない。くだらない大衆小説の一片だよ。好きな人はいるかもしれないけど、こんなものを読むぐらいならもっと別の小説を読んだ方がいい。これよりも価値のある本を僕は五十冊ぐらい知ってる」

「小説に価値なんてものを付けられると、君はそう考えているのか?」

 その言葉は非難というよりも、純粋な疑問のようだった。

 僕はちょっと考えた。

「美味しいものを恋人に振舞おうとするとき、僕はよくレシピ本を何冊か読むんだ。それが事細かに丁寧に、書かれていれば価値のあるものだよ。恋人と食事をしながら話題にできる小話なんかが挟んであるともっといいね。もちろん、適当に書かれていれば価値のないものだよ。それと同じで、僕はこれを読んでも幸福にもならないし、未来志向にも、センチメンタルな気分にもならない。多分、ほとんどの人はそう感じるよ。だから、この本に価値なんてないね。少なくとも僕はそう考える」

 彼はとても愉快そうに笑った。

「君はとても面白いね」

 それから恥じるように頭をポリポリと掻いた。

「その本はね、実は俺が書いたんだ」

「ああ」と僕は唸った。

「気にしないでくれよ。俺も君と同じ意見だ。こんなものに大した価値はない。焚書かなにかで燃やされてしまっても誰も悲しまない。俺だって悲しまない。俺が悲しまないのに他の誰かが誰かが悲しむはずがないんだ。君の言ったことはほとんど正しい」

 彼はまた眼鏡を擦り始めた。続きを読むこともなんとなく憚られ、中途半端な気持ちでこの奇妙な男を眺めた。彼はしばらくして満足したのか、眼鏡拭きをケースにしまい、新品としか思えない眼鏡をかけた。

「よかったら、これから家に来ないか?」

 あまりに突然の申し出だった。驚きを通り越して僕はほとんど呆れてしまった。

「作家はみんなそんなことを言うのか」

「さてどうだろうね。でも、作家の暮らしというものを見たいとは思わないかい? 俺が書く本がつまらないということは実証済みかもしれないけど、俺がつまらない人間かどうかっていうのはまた違う話だろ。エド・ウッドのつくった映画は退屈だが、エド・ウッドの人生は捨てたもんじゃないさ」

「そういうパターンもあるかもしれない」

「まあ、つまりは俺は君のことが気に入ったっていうことなんだ」

 僕はもう成り行きとしか言えない気分で、彼の後について行った。どうせ暇だということもあったが、それ以上に彼に興味を持ったのも事実だった。そしてそれが、あらゆる出来事の始まりでもあった。

 ちょうど図書館を出るあたりで、僕は男に尋ねた。

「あんたの書いた小説で一つだけ分からないことがある」

「なんだい?」

「なんで二人の女が抱き合った後に、月は彼女たちに話しかけるんだ?」

 男は笑った。

「この世界で起こりえないことだからさ」

 僕と先生との出会いは、まるで彼の書いた小説のように奇妙であった。

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